第155話

文字数 4,164文字


「ううん。そうじゃないの」

 雅臣はきっと、許してくれるだろう。
 友達との付き合いも大事にするべきだと言っている。理子も行きたい気持ちが強い。出来る事なら行きたい。
 だが、今の時期、特に二月は無理だ。
 受験シーズンだ。三年の担任であり、補習クラスの担当である雅臣にとっては一番忙しい時期だろう。おまけに自身の大学院受験も重なっている。

 そんな雅臣を一人おいて、呑気に旅行になんて行けない。
 三月一杯で退職するから、今回で最後だ。こんな冬は、もうこれで終わりだ。それだけに、雅臣も全力で臨んでいる。
 そんな彼の傍で、サポートしてあげたい。
 去年の自分の受験の時に、どれだけ助けて貰ったか計り知れない。
 疲れて帰って来る先生の、やすらぎの場でありたい。
 あの人が私のやすらぎの場であるように……。

「だから、ごめんね。四月からは、もっと一緒に遊べる時間が増えると思うし、旅行だって行けると思うんだ。スキーも、来年ならできる。でも、先生にとっての冬は、今年で最後だから…」

「そっか。…理子の気持ち、よくわかった。ごめんね。無理言って」

「ううん。誘ってくれてありがとう。凄く嬉しかった」

「あたしさ。結構、単純だからさ。ついつい感情的になっちゃうの。相手の都合も考えずにね。我がままだって、よく言われて、同性の友達、あまりいないんだ。だから、こんなあたしでも仲良くしてくれる二人には、凄く感謝してるんだよ?理子の事が好きだから、一緒に遊べないのが寂しくて、きついこと言っちゃう時もあるけど…」

「大丈夫。気にして無いから。私の方こそ、付き合い悪いのに見捨てないでくれて、感謝してる。私も愛理の事、大好きだよ」

 愛理は確かに単純で自分の感情に正直だが、理子はそんなストレートな愛理が好きだった。
 ルックスのせいで、周囲の女子達からは妬まれている。そして、ストレートな性格が、それに拍車をかけて周囲は敬遠している。
 自分のルックスを鼻にかけて、我がままし放題言いたい放題、と周囲の女子は批判しているが、理子はそう思わない。

 確かに我がままな面はあるし、物言いもストレートだが、理のある指摘や批判は素直に受け止めて反省している。
 デリカシーに欠けた部分はあるものの、優しい性格だ。その積極性にも好感が持てる。それに何より明るくて一緒にいて楽しい。根に持たないサッパリした気性だから、付き合いやすい。

 保健室での昼食と談話を終え、三人は別々の教室へと移動した。
 教室へ入ると、いつも座っている場所に志水達が座っていた。そばに来た理子に気付いて顔を上げた志水は、いつもの微笑が消えていて、とても心配そうな顔をしていた。

「理子、大丈夫なのかぁ?」

 そばにいた富樫に声を掛けられた。そちらに顔を向けると、林や他のクラスメイト達も揃って心配そうに理子を見ている。

「うん。大丈夫。心配かけてごめんね」

 理子は微笑んで着席した。
 なんだか、おおごとになってしまったように感じた。
 あんな風に倒れては、みんなが驚き心配するのも当然だろう。ただみんな、愛理や美香と同じように、階段転落事故の後遺症と思ってくれているのが有難い。

 授業終了後、遠慮する理子を志水は家まで送ってくれた。そして、家にいる義母の博子を呼び出して、学校であった事を報告したのだった。
 余計な心配をかけたくなかったから、理子は言わずにいるつもりだったのだが、そんな理子の心中を志水は読んだに違いない。

「理子ちゃんは、休んでなさい。夕飯の支度はお母さんがするから」

 博子に厳しい顔で、半ば命令口調でそう言われて、理子はリビングのソファで休む事にした。
 ソファに腰を沈めると、疲労をはっきりと感じた。
 ただ学校へ行っただけなのに、どうしてこんなにも疲れているのだろう。
 長い療養で体力が落ちていると感じる。駅の階段も、少し息切れがした。

 情けないな……。
 弱々しい自分を感じる。それが情けない。
 博子がハーブティとアップルパイを持ってきた。

「疲れた顔をしてるわね。これを食べて元気出して?」

 甘酸っぱいりんごの香りとシナモンの香りが食欲を誘った。
 アップルパイは理子の好物だった。

「お母さん、ありがとう…」

 理子は礼を言うと、ティーカップを手に取った。
 カモミールティのようだ。その香りをかいだだけで気持ちが落ち着いてくる。それからアップルパイを口に運んだ。甘さが控えめで、りんごの味と香りが口の中に広がった。それと同時に、幸福感も広がる。

「美味しい…」

 疲れていた体と心が少しだけ軽くなるのを感じた。
 理子は、夢中になってアップルパイを食べた。好物ではありながら、食べるのは久しぶりだ。
好きな物を食べられることに幸せを感じられる自分に、理子は嬉しくなった。一口食べるごとに、幸福感が増していくような気がして、だから夢中になって食べたのだった。
 全部食べ終えた時、ホッと吐息が出た。

「理子ちゃん。美味しそうに一生懸命食べてたわね」

 優しい笑顔でそう言われて、理子は赤くなった。

「良かったわ。食欲があるって事は、健康な証拠よ」

 その言葉に、理子は頷いた。

「お母さん…。私、どうしたら乗り越えられるのかな。これからも、あそこへ行く度に、フラッシュバックに襲われるのかな。あそこだけなら、まだいいの。行かないようにすればいいんだから。でも、これをきっかけに、無関係な場所でもいきなりフラッシュバックするんじゃないか、って気がして、凄く不安なの…」

 今日のような事が再び起こったらと思うと、これからの生活が不安になる。

「お母さんは、大丈夫だと思う。今日の事は、現場だったからよ。あなたは日に日に良くなってる。あなた自身も、そう感じてるんでしょ?お母さんから見ても、そう感じるわ。あとは、あなたの気持ち次第なんじゃないかしら。負けない心で臨む事が一番大事よ」

 確かにその通りだと思う。
 雅臣にも、同じ事を言われている。
 それなのに、突然の事に負けてしまった。
 何故ならそれは、あまりにもリアルで生々しかったからだ。

 実際に起きた場所。そして、夢の中の実態の無い人達が、実際の生身の体を持って押し寄せてくるのを感じた。
 それは錯覚に過ぎなかったのに、理子にとっては現実のように感じられたのだった。だから、何時にも増して、怖かった。そして、耐えきれずに気絶した。

 帰宅した雅臣は、食事の後にその話しを聞いて驚愕した。
 心配はしていた。事件から一カ月少々経ってはいるが、大学で起きた事だ。だから、そこへ行く事で恐怖を感じることは予想していた。だがまさか、強いフラッシュバックを起こし、夢と現実がない交ぜになって、結果倒れるような事になるとは、さすがの雅臣も思ってはいなかった。

「怪我はしなかったのか?」

「はい。それは大丈夫です。みんなが受け止めてくれたみたいだから」

 正確には志水なのだが、理子は敢えてそれは言わなかった。

 雅臣は、確実に良くなってきていると、日々の暮らしの中で感じていただけにショックだった。しかも、男子達に恐怖を感じたと聞いて、根の深さを感じずにはいられない。

 その晩、雅臣は敢えて試してみる事にした。
 仕事を早々に切り上げて、理子と共にベッドに入った。
 一週間前、公園で理子にキスをした時、理子は抵抗も無く受け入れた。
 あの時雅臣は、本当に理子に誘われているように感じたのだった。勿論、理子が意識的に誘っていたわけではない。ただ、心の底で求めているような気がした。

 あの日から、雅臣は毎晩、理子に濃いキスをしている。
 行き過ぎないようにセーブはしているが、一度も拒絶されていない。あのクリスマスイブの晩のように、恐怖で震えることは無かった。
 大分落ち着いて来て、雅臣を受け入れ始めている。
 そう感じて歓びが満ちて来るのを感じていた。理子自身も、そんな自分に喜んでいた。

 雅臣は理子を抱き寄せると、その唇にそっと口づけた。
 額に額を突き合わせ、上唇を軽く舐める。熱い吐息が理子の唇から洩れるのを感じ、唇全体を舐めまわした。

「せんせ…?」

 雅臣に舐められている自由を奪われた唇で、理子は雅臣を呼んだ。
 いつもとは違うものを、理子は感じた。
 お正月のあの公園の日から、理子は雅臣の唇を受ける事に恐怖を感じなくなっている事に気付き、とても嬉しくなった。
 そしてその日から、毎晩熱い口づけを受けている。
 雅臣は濃いキスを重ね、理子の首元や胸元にキスをするだけで、それ以上の事はしなかった。

 雅臣の唇を受けた場所は軽い痺れと快感を理子にもたらし、それがとても心地良くて、幸せな気持ちになるのだった。
 そうして、開かれた衿元をそっと閉じられて、深い愛に満ちた懐に抱かれて、うっとりとした気分で眠りについていた。
 だが今夜は、昨日までのそれとは違うものを感じる。

「先生…、どうしたの?」

 理子の問いかけに、雅臣は唇を外して理子を見た。その瞳はとても優しい。
 長い指が理子の髪に触れた。それだけで、胸の奥が疼いた。

「君が、欲しい」

 言葉だけで全身が火照って来た。

「もう君は大丈夫だ」

「でも先生……」

「わかってる。でも俺は、もう君は大丈夫だと思ってる」

 雅臣の瞳には、不安を感じさせる要素は皆無だった。
 本当に、言葉の通りに信じ切っているように感じられた。
 どうしてそこまで思えるのだろう。理子自身の心の問題だし、当人自身は、はっきりと不安を抱えている事を意識していると言うのに。

「今日の事は、事件現場だったからだよ。だけどそれも、段々と大丈夫になっていくだろう。君は、本当はわかっている筈だ。畏れる事は何も無いって」

 理子は雅臣の言葉を理解しかねた。
 そんな理子を見て雅臣は優しく微笑むと、理子の手首を取って、ハートのブレスレットを外しだした。
 その行為に驚愕する。

「先生?」

 驚いている理子には構わずに、雅臣はブレスレットを外すと、今度は首の後ろに手をやってネックレスを外しだした。

「先生、何してるの?やめて」

 何故、そんな事をするのか。
 自分の身代わりとして、常に身につけていて欲しいと言っていたのに。

「理子…。君の恐れの原因がこれにあるのだとしたら、これは暫く外していよう」

 雅臣の言葉に、理子は耳を疑った。
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