第140話
文字数 3,991文字
午後一時半。
丸山刑事が理子の許に事情聴取にやってきた。
病室には、雅臣とその両親、それに母の素子がいた。素子は一時頃にやってきたのだった。
理子は母が来た事に驚いた。まさか来るとは思っていなかったからだ。
素子は雅臣の両親と丁寧な挨拶を交わした後、理子を哀しそうな瞳で見たのだった。そんな母の表情を見て、理子は切ない気持になった。
「どう?具合の方は?」
「…うん。大丈夫。自分的には悪いって感じしないの。午前中の回診でも、先生に今のところは問題無さそうだって言われたし」
「そう…」
二人はその後、言葉を交わさなかった。互いに何を言ったら良いのか分からなかったからだ。
事情聴取には、医者と看護師も立ち合った。万一興奮した際、鎮静剤を投与するらしい。
「理子さん…。まず最初に、あなたにお渡しする物があります」
丸山はそう言うと、ポケットから小さいビニール袋を取り出して、理子の顔の前にかざした。理子はそれを見て、目を見開いた。
「それは……!」
ペンダントとブレスレットが入っていた。
傍にいた雅臣も驚いた。
「一体、それはどこに有ったんです。父が問い合わせた時には無かったんじゃないんですか?」
雅臣は大学から病院へ戻ってきて、その話しを聞いて落胆したのだった。
理子はとても悲しい顔をしていた。彼女の心中を思うと胸が痛かった。両親は必ず見つけ出すと言ってくれたが、可能性は低いと思っていた。
「その時は無かったんです。鑑識に問い合わせましたが、大学、車の中、アパートの部屋や周辺など、現場にはどこにも有りませんでした」
「じゃぁ、どこに」
父の雅人が、問い詰めるような口調で言った。
丸山はフッと軽く溜息を洩らすと、「犯人が持っていました」と答えたのだった。
「理子さんの服を脱がしてベッドに縛る時に、このアクセサリーに気付いて、思わずカッとなって引きちぎったそうです。ブレスレットはMのイニシャルが入っているし、ペンダントだって、どう見ても高そうな品だから、蒔田先生から貰った物に違いないと思ったそうです。引きちぎった後、どうしようかと考えて、取り敢えずポケットへ入れたと言ってます。…見つかって良かったですね」
丸山に言われて見てみると、確かに両方ともチェーンが切れていた。
「良かった……」
理子は涙声でそう言った。
「理子…。見つかって良かった。これは俺が預かって、修理に出すから。な?」
理子は涙ぐみながら小さく頷いた。雅臣はそんな理子を愛しく思う。
抱きしめたい思いに駆られた。
「じゃぁ、よろしいですか?」
丸山は理子の前に座った。部屋の隅に小さい机が置かれ、その前にもう一人の刑事が記録を取る準備を始めた。
「まず、犯人と会った時の状況なんですが、どこで会ったんでしょう?」
「カフェテリアの女子トイレの前です」
理子は小さい声でそう言った。
「それは、入る前ですか?後ですか?」
「…後です」
雅臣は、その時の状況を聞いていて胸が痛んで来た。
本人が言う通り、全くの不可抗力だ。
いきなり当て身を食わされたのだから、どうしようもないだろう。
彼は優しげな顔立ちだと言う。
確かにビデオで見た時にも、優しげなタイプに見えた。そんな男が怒りに目を吊り上げて、理子を叩いていた。
「見覚えのない顔だと言う事ですが、本当ですか?今まで一度も見た事が無いんでしょうか。よく考えてみてくれませんか?」
刑事の問いかけに、理子は「ありません」と即答した。
「もう一度、よーく考えてみて下さい」
刑事はしつこくそう言ったが、理子は矢張り「ありません」と即答した。
「何度聞かれても同じです。見覚えは全くありません」
「そうですか。わかりました」
理子の答えが揺るがないのを知って、刑事はその件はそれで終わりにした。
「気絶した後、目を覚ました時にどこにいましたか?」
「見覚えの無い天井を見て、驚いて起き上がろうとしたら手足が縛られている事に気付きました。そして、ヤマモトユウスケと名乗る男が声を掛けて来たんです…」
理子の声は微かに震えていた。
「途中で目を覚ます事は無かったんですか?」
「ありませんでした…。目が覚めたのは、寒いと感じたからです。とても寒くて、意識がうつらうつらとしてきて、寒くて自分で自分を抱きしめようとしたら手が動かなくて、それでハッとして完全に目が覚めたんです」
冬のアパートの一室。
南向きの部屋だから、昼間は幾分暖かい。だからなのか、暖房が点いていなかったと言う。犯人たちはセーターを着ていたし、興奮していたから寒さを感じなかったのだろう。だが理子は、上半身はタンクトップ姿でベッドに寝かされていた。
ベッドは壁際で陽は当たらないから同じ部屋の中でもヒンヤリした場所だったろう。眠っているから体温自体も下がっている。寒さを感じて目を覚ますくらいだから、余程寒かったに違いない。
「目が覚めた時、着衣はどうでしたか?」
「…下のジーンズはそのままでしたが、上はタンクトップ一枚でした」
「発見された時には下着姿でしたが……」
「ユウスケと言う人がカメラを三脚にセットして、ファインダー越しにもう一人の男に合図したんです。そうしたら、その男が私に馬乗りになってタンクトップを破いて…」
理子の顔に恐怖の色が浮かんだ。
「それで、その後は?」
理子は気持ちを落ち着かせるように一端目を閉じ、暫くしてから目を開けて続きを話しだした。
「ユウスケって人が、カメラのシャッターを切ってました。それから私の傍に来て、ベッドに腰掛けて、私の体を触って……」
雅臣は、犯人が理子の体に触れたと聞いて怒りの感情が高まって来るのを感じた。
「蒔田先生が、どうしてこの体しか抱けないのか、って言ったので、私驚きました。何故、そんな事を知ってるんだろう?って」
「なるほど。それで?」
「……実際に自分も抱いてみないと分からないな、と言って、それで、ジーンズのジッパーに手を掛けて……」
理子の言葉はそこで止まった。
そんな彼女に、刑事は優しい声で言った。
「大丈夫ですよ、怖がらなくても。もう、全ては終わったんです。あなたに辛い事を聞いて申し訳無いと思うが、事実を確認しておかないといけないんです。あなたの身に何が起こったのかは大体、分かっていますが、細かい部分を犯人の供述と照らし合わせなければ
ならないのです」
刑事の言葉に、理子は小さく「わかりました」と答えた。
「怖かったんです…。目が覚めて自分の状況を知った時、凄く怖かったんですけど、それでも、どうにかならないかって考えてました。でも、身動きできない状況で、もう一人の男に早く俺にもやらせろって言われて、ユウスケって人の手がジッバーを下ろした時、物凄い恐怖が襲って来て……。怖くて叫ぶ事もできませんでした。やめて、って叫んだつもりだったのに、実際の声は小さくて……」
理子の目から涙が零れた。
雅臣は体が震えて来た。最終的には暴行を阻止する事ができはしたが、彼女が受けた恐怖の大きさを考えると身につまされて仕方が無い。「俺が守る」と言いながら、結局守ってやれなかった事を思うと、自分を嫌悪せずにはいられない。
「それで犯人は?」
刑事が静かな声で訊ねた。
「手を止めて、『蒔田先生と離婚しろ』と言いました…」
「それで、あなたは?」
「離婚なんて、しないと答えました」
一体、この男は何者なのか。その思いが強くなったと理子は言った。そして、その後の一連のやり取りを話した後、場面はカメラが捉えていた個所へと差しかかった。
「キスされようとして、このまま相手のなるがままなんて、嫌だって強く思って。出来る限り抵抗したかったんです。だから、相手の唇に思いきり噛みつきました。ユウスケって人の唇から血が出ているのを見て、ざまぁみろって思いました。でも、それで逆上してしまったようで、私の上に馬乗りになって、頬をぶってきました…」
「何発くらいぶたれたか、覚えてますか?」
「いいえ…。最初のが、物凄く痛かったです。その後、立て続けにずっと打ち続けられて、必死に耐えてたんですけど、段々と頬が痺れてきて、頭が朦朧としてきて…。頭も痛くなってきて…。もう、駄目だって思いました。このまま、歯向かう事もできずに二人の男に犯されて…。それでも先生は私を愛してくれるんだろうか…?って思うと悲しくて涙が溢れて来て…」
「理子…」
雅臣は理子の名を呼びながら、理子の枕元に近づいた。
事情聴取中は、背後の椅子に座ったまま、傍には来ないで欲しいと刑事に言われていたが、理子の言葉に、近くに寄らずにはいられなくなった。
「先生…」
理子は涙を溜めた目で雅臣を見た。そして、右手を上げた。
雅臣はすかさず、その手を取った。
「理子…、俺は何があっても、君を愛する気持ちに変わりは無い。君のせいじゃないんだ。君は悪くない。君自身が穢される事なんてないんだ。それは、前に言った時と同じだ。それから、最後まで屈せずに自身の尊厳を守ろうとした君を尊敬してる。…俺が守ってやれなくて、ごめんな…」
「先生…。先生は私を、守ってくれた。少しでも離れていて欲しいと思ってる志水君に私のボディガードを頼んだじゃない。志水君がずっと傍にいてくれたから、犯人はあんな場所で私をさらったのよ。大学の構内よ?誰の目にとまるか、分からない。案の定、林君が目撃して、助けに来てくれた。普段は大人しい人なのに、物凄く怖い顔をして、乗り込んで来たから、私、凄く驚いた。喧嘩、強いみたいでビックリして、そして、これで助かったと思ったら、意識が遠のいたの。…再び目を覚ました時には、ここだった。先生に逢えて、凄く、嬉しかった……」
そう言う理子の目は澄んでいた。
雅臣はその目に吸い寄せられるように顔を寄せると、その唇に自分の唇を重ね合わせたのだった。