第101話
文字数 4,899文字
「わかった。じゃぁ、取り敢えず座らないか。立ちっぱなしもなんだから」
雅臣は理子をベッドの縁に座らせた。
「君が病院へ運ばれた時、志水から電話があった。もう夜の十時だったから、何故こんな時間に二人は一緒なんだって思ったよ。胸が騒いだ。病院に着いて志水を問い詰めたら、『理子を信じていないんですか』と言い返されて、俺は言葉に詰まった」
「そんな事があったんですか」
理子がしんみりとしたように言った。
「俺は君を裏切れない。自分の愛を裏切れない。それは君も同じだと思っている」
雅臣は理子を見た。理子は雅臣の視線を受けて、軽く微笑んだ後、膝元に視線を落とした。その様子を見て、雅臣の中に一抹の不安が生じた。
「理子。俺は今の君の様子を見て、何だか不安な気持ちに襲われてるんだが」
「ごめんなさい。私の先生への愛はずっと変わって無いから」
理子は慌てて顔を上げて雅臣を見た。
「先生。先生は早くから、志水君の私に対する気持ちに気付いてたんですね」
「ああ。初めて彼に会った時からね。君に紹介して貰った時の彼の不遜な態度。夫である俺の前で平気で君を呼び捨てにして、俺は内心、
理子は驚いた顔をした。
「そうだったんですか。私、気付きませんでした」
「わかってる。君は鈍いから」
「いつも、酷い言い様ですよね。でも、その通りですけど」
「嫉妬深い俺が、何故君に言わなかったかって思ってるんだろう」
雅臣の言葉に理子は頷いた。
「あいつの事を指摘して、君にあいつを意識させたく無かったからさ。あいつの気持ちに気付かせたく無かった。気付いたら、あいつを意識して、あいつに傾倒していくような畏れを感じていたんだ」
「そんな…」
理子は動揺していた。
「あいつは、枝本以上に君の心に入り込んで来ると感じた。枝本とは、過去の経緯があるから仕方ない。だが、志水には、そういうしがらみは無い。だからこそ、俺にとっては強力なライバルだと思ったのさ。あいつは危険だと思った。だから君の傍から離したかったんだが、生憎、俺にそれはできないしな。後輩の安藤に、時々様子を見てくれるよう頼んだが、如何せん校舎が違う」
「先生がそこまで思ってたなんて…」
「大体、結婚したばかりの女に想いを寄せて、諦めずに常にチャンスを窺っている男なんだからな。俺が警戒するのも当たり前だろう?だけど、履修科目が同じなんだから、離す事はできない。君に言えば、どうしたって意識するだろうし、クラスメイトでもあるんだから完全に接触を断つのは無理だ。だから、鈍い君の事だから言わない方が逆にいいのかもしれないって思ったんだ」
理子は微かに頬を染めた。
「だけど君、俺に言わなかったよな。彼と履修科目が全部同じである事と、一緒に帰っているって事を」
理子は怖々とした表情で雅臣を見た。
雅臣は、そうと知った時に何も言わなかった。本当は、そうと知った時に、指摘されて責められるものと思っていたのに。
何故先生は何も言わないのか。その時、不思議に思ったのだった。
「先生は、どうして知ったその時に、そうやって言ってくれなかったんですか?」
「君を無言で責めたのさ。俺には分かってた。君が何故言わなかったのか」
理子は
「だから、あいつは危険なんだ。君は自覚はしてなかったと思う。だが、知らず知らずのうちに、少しずつあいつの存在が君の中で大きくなっていた筈だ。毎日、朝から帰りまでずっと一緒なんだからな。しかも、あいつとは気が合う。感性も合う。一緒にいて楽しい。俺がいなかったら、君は確実にあいつを好きになっていたと思う」
理子は寂しそうな微笑みを浮かべた。
「何でもお見通しなんですね。学校での噂の件で、先生からいきなり抱かれたあの日。あの日の帰りに志水君に話しがあるって言われて、多摩川土手に連れて行かれたんです。私も噂で困っていたんです。学校で私と志水君の仲が噂になってて」
理子の言葉に雅臣は驚いた。
「困っちゃいますよね。履修科目が全部同じだから一緒にいるのに、なんでそんな噂を立てられなきゃならないんだろうって思ってました。だけど、志水君にその日、告白されたんです。好きだって。凄く困惑しました。告白なんてしないで欲しかった。そしたら、ずっと一緒にいられたのにって。それで分かったんです。私は志水君と一緒にいたいと思っているって事に」
「それで、君はどうしたの」
「もう、明日から私の近くに来ないでくれって言って、逃げるように帰りました。それからはずっと、離れた席で授業を受けてましたし、全てにおいて別行動でした。帰りは、志水君は私から一定の距離を置いてついてきてました。同じ車両に乗ってるんです。それには困惑しましたね」
「そうか。あの時、そんな事があったのか。俺は自分の事で手一杯だった。君はそんな状況の中で、俺を支えてくれていたんだな」
理子は笑った。
「そうですよ。正直に言いますけど、私とっても寂しかったです。志水君が一緒で無い事に。在学中、先生が私と気軽に話せないのを不満に思われたのと同じように、私ももっと志水君と色んな事を語り合いたかったんです。話したい事はまだまだ一杯あった。でも、枝本君達のように、好きだけどずっと友達でいようって言うのと志水君は違ったから。それ以上のものを望まれても、私は彼に与えてあげる事はできません。私の愛は先生だけのものだから」
雅臣は理子の瞳を見つめた。
彼女の言葉に嘘は無いと思った。
「でもね、先生。先生と別居してから、私はあまりにも寂しくて、辛くて、志水君の愛に甘えてしまいました」
「それは、仕方ない。俺だって同じだ」
「私は、多分、先生とは違ったと思います」
「どういう意味だ?」
「志水君は、私が思っていたよりも優しい人でした。先生を好きな私が好きなんだって。だから、丸ごと全て受け止めるって。そう言われた時、胸が震えました。自分以外の人間を愛していると言うのに、そんな私を愛してる、なんて言うんだもの。勿論、そう言われても志水君を受け入れる事はできないけれど、そばに居てくれる事が物凄く心地良くて、私は彼を拒否できませんでした」
雅臣は軽く溜息を吐いた。
理子が入院した時に、彼と色々と話してみて、志水と言う男がどんな男なのか、初めて知った気がした。
若いのに懐の深い男だった。理子に執着し、結婚していても自分のものにしたいとの想いに押されて、狡猾で強引に事を進めてくるヤツだろうと推測していたのだが、それは違った。
きっと、理子への想いが強いからこそ、強引にはできなかったのだろうと思う。
「彼は求めてきませんでした。ただ、私のそばに居て、優しく微笑み、泣いている私を優しく抱き止めてジッとしていてくれるだけ。君のそばにいられるだけで幸せなんだって。…私、彼の家へ行きました。この部屋に自分が入るわけにはいかないから、僕の所に来ないかって言われて。物凄く寂しくて、ひとりぼっちが嫌だったから…。彼の家は物凄くお金持ちで、大きなお屋敷だったんですけど、志水君はその庭の一角にある小さな家で一人で住んでたんです。三人兄弟の長男だって言ってた。それなのに、一人でそこに住んでるんです。生活費は全て親持ちだけど、コミュニケーションは全くとってないって。何だか深い事情がありそうだったけど、悪くて聞けなかった。きっと、話すのは嫌だろうって思ったし。ただ、私、彼とはどこか心の深い所で共鳴するものを感じていたので、もしかしたらそれは、彼が私と同じように家族の中で寂しい思いをしてきた事に由来してるんじゃないかって思いました」
理子は雅臣の方を見た。
少し寂しげな瞳をしている。
「君は、彼に惹かれてるんだね」
最初から予想していた事でもあった。
「そうかもしれません。あまり自分では認めたくないんですけど。ただ、男女の愛とは少し違う気がします。今はそう感じてます。あの時はよくわかりませんでした。何もせずに、ただ傍に居てくれる彼の存在が有難かったです。でも、…キスをされました。先生の唇とは全然違う感触を唇に受けた時、戸惑ったけど不快じゃなかった。ごめんなさい…」
雅臣は妬心が湧いてくるのを感じた。
自分以外の男の唇が、彼女の唇と重なったのかと思うと胸が痛い。
「変な事を聞くようで申し訳ないんだが…」
雅臣の声は微かに震えていた。
「何でしょう」
「どんな感じだった。彼とのキスは」
理子は雅臣の問いに軽く笑った。
「他の人とキスしておいてこんな事を言うのもなんですけど、先生が心配されるような事は無いですよ。不快では無かったってだけです。何も感じなかったんです。先生とは違う感触だなって思っただけ。志水君は遠慮して、軽く触れただけですから。『君の寂しい心に付け込んでる僕は、最低だね』って。私は何だかとっても申し訳ない気持ちになりました。それでも、一人ではいられなくて、その晩、彼の家に泊まりました。勿論、何もありませんでしたからね」
雅臣も理子の話を聞いていて、なんだか切なくて寂しい気持ちに襲われてきた。
姉の紫が、志水の事を過去に辛酸を舐めて来てるのではないかと言っていた事を思い出した。彼が理子に惹かれるのも、きっとその暗い過去のせいなのかもしれない。
ピュアな、女神か聖女のような彼女の傍にいると、心が洗われる気になるのだろう。その気持ちが雅臣にはよくわかった。雅臣自身も同じだからだ。あいつは俺と同じ匂いがする。初めて会った時にそう思った。だから、同じように、同じ相手に惹かれるのだ。
もし俺があいつだったら。やっぱり同じように、ただ黙って理子のそばにいるだろう。強引に理子を奪ってしまったのは、理子が俺を愛してくれていたからだ。他の男を愛していたら、奪うことなどできない。彼女が傷つくと分かっている事を、自分のエゴの為だけにする事なんてできない。愛しているから。
「先生?」
理子が不安そうに雅臣に声をかけてきた。
「ん?どうした?」
雅臣は優しく微笑み返す。
「信じてくれますか?何も無かったって事を」
「勿論さ。信じてるよ。もし万一、何かあったとしたら、君は今ここでこうして俺のそばにはいられないだろうからね」
「良かった。信じてくれていて。私、志水君の傍に居る事が当たり前のように思えてきたんです。何もしないで、傍に居てくれる彼の存在が心地良くて。とても安心できました。でも、結局はそれだけなんです。それ以上の気持ちは湧いてこない。それに、ふとした瞬間に先生を思い出しては、胸が痛んで切なくて、逢いたい気持ちに襲われて、寂しくて悲しくて。…ひとりで居る時、逢いたいと思うのはいつも先生。先生だけだった。…志水君と一緒にいると寂しさを紛らわす事は出来るけど、乾いた心を潤す事はできなかった。それが出来るのは、先生だけなの」
理子の瞳は潤んでいた。彼女の真摯な想いが伝わってきて、雅臣の心は喜びに打ち震えていた。
雅臣はつくづく結婚して良かったと思った。もし、周囲に言われるまま結婚をもっと先にしていたら、休日でも忙しい雅臣にとっては理子と一緒に過ごせる時間はとても短い。
補習クラスの仕事は、去年からやっているからわかっている。平日にはなかなかできないので、どうしても土日にやらなければならない。
休日を返上してまでやってきて、実績を上げた。そして今年度も引き続き頑張っている。それなのに、例の噂で異動だの辞職だのと騒がれた時には本当に傷ついた。
引き受けた以上は愚痴は言いたくないし、恩着せがましくも言いたくは無い。だが、一体誰の為にやってるんだと思わずにはいられなかった。
雅臣は理子を椅子に座らせると、軽くキスをして自分の席に着いた。そして、理子を見てそっと微笑む。理子はゆったりと座って眠そうな顔をしていた。
多分、すぐに寝入ってしまうのではないかと思っていたら、案の定、暫くして視線をやると、眠っていた。可愛い寝顔だ。
そんな理子を見て、暖かい気持ちになる。
彼女のそばに居られる事を無上の喜びと実感する雅臣だった。