第90話

文字数 2,831文字

学校でのトラブルによるストレスで心無い仕打ちをした時ですら、理子は声も無く泣いていた。
 彼女に告白した初めてのデートの時に、心ならずも泣かせてしまったが、あの時から理子は声を上げて泣いた事が殆ど無かった。
 どうしていつも、理子は静かに泣くのだろう。ただ涙をポロポロと零すだけだ。
 こんな風に、声も無く肩を震わせて泣いている姿を見ると切なくなってくる。

 結局俺は、いつだってこんな風に理子を泣かすだけなんだろうか。
 雅臣はただ黙って、理子が落ち着くまで優しく抱きしめていた。それしかできない。どんな言葉をかけても、理子の胸に届かないような気がしてならなかった。

 矢張り、彼女を自分のものにするのが早過ぎたのかもしれない。何も知らない純粋な少女を無理やり自分のものにして、愛欲の中へと引きずり込んでしまった。濃厚な交わりを執拗に強い、ここまで連れて来てしまった。もっとゆっくり時間をかけるべきだった。
 自分の情熱をぶつけるばかりだったように思える。
 理子からしてみれば、それを拒む事などできないだろう。一緒にいれば、拒めるわけがない。今までの事を振り返ってみても、理子は抵抗しながらも結局最後は雅臣を受け入れてきた。
 そしてその度に小さな歪が生じていたのかもしれない。それを何度も繰り返し、望まぬ妊娠と流産と言う、まだ若い理子にとっては衝撃的な事件が引き金になって、雅臣を拒絶せずにはいられなくなったのだろうと、今改めて思うのだった。

 理子が、雅臣の胸に寄せていた体をそっと起こしたので、雅臣は腕を緩めた。

「先生…」

 雅臣を見る理子の瞳はまだ濡れていたが、とても澄んでいて綺麗だった。それに吸い寄せられるように雅臣は顔を近づけて唇を重ね合わせた。柔らかい理子の唇の感触を堪能した後、そっと離す。

「先生のそばにいたら、私は先生を拒めないの」

 理子は目を閉じたまま、囁くような小さな声で言った。

「理子…」

 雅臣はそんな理子の頬を手で包んだ。その上に理子は自分の手を重ねて来た。

「先生も、私のそばにいたら、私を求めずにはいられない。快楽を味わう事に、どうしようもない罪悪感を覚えたから、私は先生を拒むしかなかった。でも、そばにいたら、求められたら、どうしても拒めない。流産の手術の後、一カ月はセックスをしないようにお医者様に言われて、ホッとした。でも、一カ月経ったら先生は必ず求めて来る。だけど私は、受け入れる事ができない」

 そう言って理子は瞬きをした。理子は雅臣の手の中から離れて、前を向いた。その視線は、どこも見ずに宙をさすらっているようだ。

「私が一番落ち着いた時って、どれも決まって、二人がセックス不可能な時ばかり」

 理子がボソリとそう言った。

「先生が入院した時と、私が入院してた時」

 理子はそう言って雅臣の方を向いて笑った。

「したくたって、出来っこない。だから、安心してあなたのそばにいられた」

 笑顔でそう言う理子を見て、雅臣の胸が痛んだ。

「君は、そんなに俺に抱かれるのが苦痛だったのか?」

 雅臣は、自分の顔が引きつっているのを感じる。
 これまでの自分の行為を全て否定されたような気になった。
 雅臣の腕の中で、喘ぎ、悶え、恥じらい、恍惚となっていた理子の姿が偲ばれる。

「このマンションを一緒に見に来た時に、先生は言ったでしょ。女と男の違いを」

 触れると欲しくなってしまうから、触れずに我慢していた雅臣に対し、少しはぬくもりを感じたいと訴えた理子。

「先生。誤解しないでね。先生との交わりは、私にとっても至福の時よ。ただ、何もしないで先生の腕の中にいるだけの方が、安心感があって落ち着くってだけの事だから」

 理子は優しい微笑みを浮かべた。その微笑みを見て、雅臣は癒されてゆく。

「別居している間、寂しくてしょうがなかった。先生の事を思い出すと寂しくて悲しくてやるせなくなるから、なるべく思い出さないようにしてたんだけど、気付くといつの間にか先生の事を思い出してる。それに気付いてまた寂しくなって…。どんなに逢いたいと思った事か。でも逢ったら、また同じ事の繰り返しになってしまう。そうして、自分だけじゃなくて先生も一層傷つけてしまうって思ってたの」

 理子は寂しそうな目をした。

「お腹が我慢できない程痛くなって、救急車で運ばれる時、先生と逢わずにこのまま死んでしまったらどうしようって思ったら、自分のした事を凄く後悔したの。翌朝目が覚めた時は、もっと後悔した。だって、先生はもう、他の人のものになってしまったと思ったから」

「理子…」

 雅臣は胸の潰れる思いがした。
 理子だけが一人で胸の中に抱え込み、出口の無い迷路の中を彷徨っていたのか。孤独と悲しみの湖の中で、息も絶え絶えになって。
 矢張り全ての元凶は自分だ。自分がしっかり避妊さえしていれば、理子はこんなに傷つき苦しむ事も無かったし、雅臣自身も苦しむ事は無かった。そして、美鈴を傷つける事も。

「先生が他の女の人に興味を持つなんて、思って無かった私が馬鹿だった」

「理子、それは違う。俺は今だって君以外の女には興味なんか持っていない」

 雅臣は叫ぶように言った。

「先生、ごめんなさい。そういう意味じゃないの。好きな女性から拒絶されて、三カ月も音信不通状態になったら、先生だっていい加減、他の女性に(なび)いてもおかしくは無いって事に、私の思いが至らなかったって事よ。そんな考えの浅い自分を馬鹿だと思ったの」

「理子。それも違うよ。君は俺を信じてくれていたんだ。どんな事があっても、俺が愛しているのは理子だけだって。俺は、そんな君の愛を裏切ろうとしたんだ」

「先生。ねぇ、自分を責めないで。悪かったのは私よ。先生はちっとも悪くないの」

「いや、悪いのは俺だ。そもそも俺が避妊しなかったのが全ての原因なんだ。君に何と言われようと、避妊するべきだった。君と別居したのも同じだ。結局俺は、君の懇願に流されてしまった。何と言われようとも譲ってはいけない事を譲ってしまった」

 理子は大きく息を吐くと、立ちあがった。

「ちょっと、お茶が飲みたくなっちゃったんで、淹れてきますね」

 雅臣が顔を上げて理子を見ると、理子は明るい笑顔を浮かべていた。
 キッチンへと向かう理子の後姿を見て、雅臣はせつない気持ちになった。
 誰よりも大切な人を、いつも傷つけている自分。
 一体どれだけ泣かせてきたのだろう。その度に、赦され、受け入れて貰い、有頂天になって再び同じ過ちを繰り返す。

 清らかな彼女と交わる度に、癒され、自分の中にある汚いものが全て浄化されるような気持ちになる。だが、よく考えてみれば、その汚いものの全てを理子へ流し入れてるようなものではないのだろうか。
 清らかに咲き続けながらも、その深い部分に少しずつ(おり)を溜め続けているのではないだろうか。
 染まらない女が、いつか雅臣の澱によって染まってしまう日がくるのではないか。そんな思いが雅臣の中に湧いてくるのだった。
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