第34話

文字数 4,285文字


 二日後の土曜日、午後一時。
 志水は田園都市線の改札近くにあるコーヒーショップで、愛理と美香を待っていた。先にやってきたのは美香だった。
 店の中ほどの席に居た志水は、美香が店内へ入って来た事にすぐに気付いて軽く手を上げた。それを見て美香は軽く微笑み、席までやって来た。

「愛理はまだ?」

「まだだね。彼女の性格から(かんが)みるに、遅刻魔なんじゃないのかな」

 美香は驚いた顔をして、「よくわかるわね」と言った。

「まぁね。普段の行動から大体は推測できる。君は几帳面な方だよね。時間ピッタリだ」

 美香は呆れた顔をした。

「じゃぁ、理子は?」

「彼女は大らかだけど、時間には神経質みたいだね。いつも早めに来る」

「あなたも時間には神経質みたいね」

 美香の突っ込みに、志水は黙って笑う。

「ねぇ。志水君はどうして愛理には冷たいの?」

「冷たくしているように、見えるかい?」

「見えるわよ」

「そうか。確かに自分でも優しく接してはいないと思うけどね。自分的には、相手にしたくない時は相手にしないし、答えたくない問いかけには答えないって言うのが普段からのスタンスなんだ。だから、加藤さんに冷たく接しているように見えるって事は、それだけ加藤さんが僕の答えたくない事ばかりを口にしていると言う事になるね」

「なんだか、随分自分本位のように聞こえるんだけど」

 美香は批判的な目をしていた。

「その言い分は正しいと思うよ。僕は自分が一番可愛いんだ。いつも自分に正直でいたいから、嫌だと思う事を無理してしないようにしている。どうしても気を使わなければいけない相手には気を使うけど、それ以外の相手には気なんて使うだけ無駄だからね」

「こう言ってはなんだけど、冷たい人なのね」

 美香の言葉に、志水は黙って頷いた。客観的に見れば、尤もな感想だろう。

「頷いちゃうんだ。それって、自覚してるって事よね。愛理は志水君の事を友達だって言ってたじゃない。友達なのに冷たくしても平気なんだ」

「僕は友達だからって、殊更親切にはしないよ。飽くまでも、相手の態度や行動次第だ。彼女の僕への感情は、君とは違うよね。君はただのクラスメイトとして接してくれてるから、僕も同じように接してるけど、加藤さんからはそれ以上の感情が伝わってくるんだよ。僕はそれには答えられない。それを冷たいと言われてもね。ただの友達としてだけの感情しか持ち合わせていないのなら、僕の態度ももう少しマシだと思うよ」

「じゃあ志水君は、愛理の気持ちを察してるのね」

「異性としての興味を持たれている事はわかってる。だって、彼女はストレートだからね。余程鈍感な人間で無い限り、わかるじゃないか」

「それに対して冷たい態度を取っているって事は、志水君は愛理には興味が無いって事なのね」

「そういう事だね。普通ならそうやってわかりそうなものなのにね。何故か彼女には通じない。鈍感みたいだね」

 志水の言葉に、美香は志水を軽く睨んだ。気に入らないようだ。友達としては当然の感情だろう。だが少しでも志水の立場に立って考えれば、志水の態度も理解できる筈だ。
 興味の無い相手にいい顔はできない。する事の方が罪だと思う。
 この世は偽善に溢れている。自己中だと他人を簡単に批判するが、実は自分も自己中であると言う事に気付いていない。誰だって自分が一番可愛いに決まっている。自己保身の固まりだ。それなのに、他人への思いやりを示す事で自分を正当化し誤魔化している事には全く気付いていない。

 自己を犠牲にしてまで、相手に思いやりを示せるのだろうか。しかも、その思いやりだって、勝手な思い込みによる思いやりだ。本人の事を本当に思うなら、必要の無い親切である事の方が多いのではないか。親切の押し売りをしているに過ぎないと、志水はいつも思うのだった。

「ごめーん、お待たせー」

 愛理が息を乱しながらやってきた。時計を見ると約束の時間を十分オーバーしている。美香はホッとした顔をした。志水との会話に嫌気がさしていたのだろう。

 三人は店をすぐに出ると、田園都市線のホームへと入った。

「志水君はどこの駅なの?」

 電車に乗ってから、愛理が訊ねて来た。

「二子玉川」

 志水はぶっきら棒に言った。それでも答えてくれた事に愛理は嬉しそうな顔をした。

「じゃぁ、世田谷区になるのかな。お金持ちなんだね」

 美香は新潟から上京してきたので、愛理の言葉が理解できなかった。

「理子は青葉台って言ってたけど、青葉台って?」

 愛理が問う。

「青葉台は横浜市だよ」

 志水の答えに愛理は驚いた顔をした。

「横浜なの?だって、横浜だったら東横線とか、あっちの方じゃないの?」

 志水は愛理の無知さに呆れて溜息を吐いた。

「君は地理は苦手みたいだね。横浜と言ったら、中心地しか知らないとは。それでも東大生なのかい?」

 志水の言葉に、愛理はムッとした。

「あら。東大生でも関係ないわよ。そんな事は受験には出て来ないし。他の学生だって、みんな知らないと思うわよ。美香だって知らないでしょ?」

 愛理の言葉に、美香は頷いた。

「私なんて、二子玉川が世田谷区って事すら、知らないんだけど…」

「まさに地図が読めない女達、なのかな。まぁ、地方出身の上村さんは兎も角、加藤さんは東京出身でしょ。隣の県で、すぐ近くじゃない。知っててもいいと思うけど?」

「自分とあまり関係ない事は、知らないのが普通でしょ」

「成る程。でもこれからは、友達が住む場所なんだから、多少なりとも知っておいた方がいいんじゃないのかい?」

「そういう志水君は、どれだけ知ってるって言うの?」

 愛理の言葉に、一呼吸吐いた後、志水は言った。

「横浜市は神奈川県の県庁所在地だって事くらいは知ってるよね。政令指定都市でもある。人口は約三百六十万人。横浜市には二十四の区があって、君らがよく行くであろうランドマークタワーやみなとみらい二一があるのは西区だ。横浜駅も西区。県庁やコスモワールド、中華街や横浜スタジアム、山下公園や外人墓地があるのは中区。横浜市の中では最も東の位置にあたるね。東京湾に面している。そして、これから行く理子の住んでる青葉区は、横浜の最西北にあたる。北は川崎市、西は東京町田市に面している。他市との境で中心地からかなり遠いと言う事もあって、まだまだ緑の多い場所だ」

 志水の話しに、二人は驚いていた。

「凄いよく知ってるのね」

「このくらいは常識でしょう。受験勉強しかしてこなかった人間程、常識知らずで困るよね」

「なんか、いちいち勘に触る人よね、志水君って」

 愛理の言葉に志水は笑う。
 そう思うなら、僕を放っておいてくれればいいのに、と心の中で呟いた。だが、今はそれを言えない。理子の家へ行くからだ。

 こんなチャンスは滅多にないだろう。結婚している相手だ。男の自分が気軽に訪ねていける場所では無い。そのチャンスを与えてくれた事だけは、愛理に感謝せずにはいられない。そう思うと、あまり愛理の機嫌を損ねるのは得策とは言い難い。

「それは失礼しました。まぁ、隣県なんだし、これからはもう少し勉強しておいてもいいんじゃないのかな。無駄にはならないと思うよ」

 微笑みを浮かべて言った。その微笑みを見て、愛理は嬉しそうな顔になる。単純な人間だ。こういう人間は利用しやすい。

 やがて電車は多摩川を渡り、神奈川県へと突入した。東京の人間は、多摩川を渡ったら神奈川だと思っている人間が多いが、小田急線の場合、その先に町田と言うれっきとした東京都がまだあるのだが、その前に神奈川の川崎市に入るので、町田自体を東京都と思っていない人間も少なからず存在したりする。
 今乗っているのは田園都市線なので、多摩川の先は神奈川以外は無い。
 渋谷から青葉台まで、急行で二十五分である。電車はたまプラーザまでやってきた。

「あ、ここって知ってるかも。来た事無いけど、テレビや雑誌で時々出て来るわよね」

 愛理の言葉に美香も頷いた。

「へぇ~。ここだったんだ。なんかでも、ちょっと遠いわよね。青葉台はあとどれくらいなのかしら?」

 愛理の言葉に志水は内心呆れる。ドアの上に路線図がある。見ればわかるではないか。

「次があざみ野で、その次だよ」

 志水が呟くように告げた。

「ええ~?そうなの?でも、路線図見るとあざみ野の次は江田になってるわよ?」

 愛理の言葉に思わず溜息が洩れる。

「君さぁ。僕達が乗ってるのは急行なんだよ?江田は各亭しか止まらない」

「あら…」

 志水に言われて、愛理は恥ずかしそうに口を噤んだ。美香も笑っていた。笑わずにはいられないだろう。

「私、決まった沿線やコース以外の電車に乗る事って滅多に無いんだもん。それに、人と一緒の時には大体お任せのタイプなものだから…」

「都内は電車が多いから、仕方ないわよ。地方なんて少ないから電車の移動は簡単よ。上京してきて一番困惑してるのは、電車だわ。まだ日が浅いからそれこそ決まった電車しか乗らないけど、この先、苦労しそうで今から頭が痛いもの。愛理もこれから苦労するかもしれないわよ」

 確かに都内の電車の数は凄い。地下鉄が整備されたお陰で、移動はかなり楽になったが、乗り換えの煩雑さには辟易する。
 乗り馴れていれば気にならないが、たまにしか行かないような場所では、一体、どこまで行ったら次の電車に乗れるのかと思う。
 更に、一番効率の良い経路を見つけるのにも苦労する。経験を積めばコツを掴む事はできるが、かなり知恵を要する。

 そうこうしているうちに、電車は青葉台の駅に到着した。
 志水は青葉台まで来るのは初めてだった。知識としては知っているが、横浜の郊外へ出かけた事は無い。
 横浜へ行く時には大井線で自由が丘へ出て東横線を利用するし、新横浜へ出る時には、あざみ野からブルーラインを利用する。だからあざみ野までしか来た事が無い。

 電車から降りると、三人は理子から貰った略図を見た。その図によれば、駅からとても近くでわかりやすい場所だ。
 志水は理子の書いた地図を見て感心した。非常に解りやすい。実際、その地図に従って、すぐに目的のマンションに到着する事ができた。
 到着してみて改めて思う。彼女が描いている所を見ていたが、ササッと描いていたにも関わらず、距離の間隔まで合っている。空間認知力が優れているのだろうか。
 この地図を見て思うのは、彼女は非常に方向感覚が優れていて、地図さえあれば何処へでも迷わずに行く事ができるだろうと言う事だった。地図を読めないのが女脳と言うのならば、彼女は男脳と言う事か。だから女臭くないのだろうか。

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