第28話
文字数 5,133文字
「辛い日々だったが、互いをより知る事ができて、そして思いを深めていく事が出来て良かったと思ってる。誰だって、本当は楽な方へと行きたいものなんだ。日々、その葛藤の中で戦っている。だから、君は君のままでいいんだ。君には俺がいる。そして、俺には君がいる」
雅臣の言葉は、理子の胸に沁みた。
「ごめんな。俺が最初に変な事を言ったからだな」
「ううん。そんな事はありません。良かったです。先生の気持ちを聞けて。だって、もっともっと、先生の事を知りたいもの。それに、私の事をよくわかってくれてるのを知って、凄く嬉しいです。」
自分がずっと、堕ちずにあの家で耐えてきた理由を指摘されて、こんなにも解ってくれてる人だから、きっとこの人に惹かれたんだと改めて思った。
自分の、ずっと閉ざしてきた心の内の全てを、この人は見透かしてしまう。
心に鍵を掛けていたのに、簡単にそれを外し、心の中へ入ってきて、理解し包み込んでくれる優しい人。そんな人だから、全てを依存してしまいたくなる。
「先生に、訊きたい事があるの」
「うん。何だろう?」
「先生は、去年怪我をして入院するまでは、私の事をずっと『お前』って呼んでたのに、どうして『君』に変わったの?あれからずっと、『君』のままだけど…」
雅臣は笑った。その笑顔は優しい。
「お前の方が、良かったか?君は最初、そう呼ばれて怒ってたじゃないか」
「『お前』と呼ばれるのはあまり好きじゃないですから。高飛車で偉そうじゃないですか。でも相手は先生ですから。自分より上の立場の人です。目上の人からそう言われるのは、好きじゃ無くても譲歩するしかありません。同じ言葉でも言い方にもよりますし。それに、先生から『お前』と呼ばれるのはもう慣れちゃってましたから、既に全く気にしてませんでした。だから自分的には、どちらで呼ばれても構わないんですけど、『君』と呼ばれる方が何となく嬉しいです」
雅臣は理子の手を握ると、自分の口元へと持ってゆき、口づけた。その瞬間、理子の胸がキュンとなる。
「そうか。なら良かった。あの時、君に怒られて、何だか立場が逆転してしまっただろう。俺は、君の言う事は尤もだと思ったんだ。あの時までは、俺は君に対して上から目線だったと思う。いつでも俺が君を守る立場にいると思っていた。だが、あの時の君の言葉に、俺は自分の過ちに気が付いた。愛する人を守りたいと思う気持ちは、お互いに同じなんだ。俺ばかりが君を庇護して、君はいつまで経っても庇護される立場のままでは、不公平だ。俺は君の保護者じゃなく、恋人だ。そして君も、俺の恋人なんだ。二人は対等である筈だ。それに気付いたら、『お前』とは呼べなくなった。自分の最愛の女性をお前呼ばわりできないよ」
理子はその言葉を聞いて、心から嬉しく思った。あの時の理子の気持ちは、ちゃんと雅臣に通じていた。だから『君』と呼ばれるうになったのだ。
「先生、ありがとう。それを聞いて、とても嬉しいです」
雅臣は、理子の唇に軽くキスをした。
「あの日から、君は俺の女神になったような気がする」
甘く切ない顔で、雅臣はそう言った。
「女神?」
「うん。なんだか一挙に大人の女性に変貌してしまったような気がするよ。そして俺は、その女神を全身全霊で崇拝する哀れな男だ」
「先生ったら。幾らなんでも大袈裟では?」
「いいや。あの時、君の存在の本当の意味を知ってしまった。俺は君無しでは生きていけない。だから、君が望むなら何でもすると言ったんだ。その気持ちは今も変わらない。俺は、君を失うのが怖くて、何でも君の言いなりになってしまいそうな気がするよ」
雅臣のやるせなさそうな顔を見て、理子の胸は切なくなる。理子自身も同じ気持ちだった。雅臣が本当に望む事であるならば、否やは言えない。彼の心に添うようにしたいと思う。
「先生、それは私も同じよ。だから、こうして先生のそばにいられるだけで、凄く幸せ。先生にこうして愛されて、これ以上の幸せは無いと思う」
二人は見つめ合った。
互いに熱く滾っていた。
手と手を合わす。額を合わす。そうして、唇を合わし、再び交わった。悩ましげに悶える互いの姿に歓びを感じる。
何度も交わっているのに、狂おしさは一向に無くならないのだった。
二人は昼過ぎになって、やっと服を着た。
いい加減、空腹に耐えられなくなってきていた。午前中一杯を狂おしい時間で費やして、体力を随分と使った気がする。マラソンでもしたようだ。流石にエネルギー切れと言った感じだ。
昼食の支度は雅臣がした。理子はソファの上でぐったりしていた。何も考えられない。
キッチンからいい匂いが漂ってくる。雅臣の鼻歌が聞こえて来た。鼻歌を歌っているのなんて、初めての事で新鮮だった。普段の雅臣からは想像ができない。
やがて、エプロン姿の雅臣が両手に皿を持って現れた。素敵な姿に胸が締め付けられる。鼻歌を歌う雅臣も、エプロン姿で料理を持つ雅臣も、理子だけのものだ。誰もこんな雅臣を知らない。そう思うと、優越感が湧いてくる。
「理子、大丈夫か?」
心配そうに訊ねる雅臣に、理子は微笑んで頷いた。
「考えてみたら、留守にするから食材は何も用意してないんだよな。何を作ろうか迷ったよ」
言われて食卓に着くと、テーブルの上にはスバゲティが乗っていた。コンビーフと根菜で炒めたようだ。
結婚式の為に三日間家を開ける為、生鮮食品は全て使い切っておいた。あるのは乾物と缶詰に根菜くらいだ。それでも雅臣の作った料理は美味しかった。
「旨いか?」
心配げな顔で訊かれたので「とっても」と答えると、嬉しそうに破顔した。
「午後は買い物に行かないといけないな。ついでに、理子の運転の練習もしないとな」
「いいんですか?」
「勿論さ。でないと、早く一人で運転させられないよ、心配で」
「なんだか、凄く傷つきますね。私、教習所では上手いって言われてたんですよ」
「教習車とスポーツカーは違うんだぞ。車高が低いから、車両感覚を掴むのに苦労すると思うけどな」
雅臣は少し厳しい顔をした。理子はそれが何だか気に入らない。癪に障る。だが、実際にNSXの運転席に座ってみると、確かに教習車とは全然違った。そもそもボンネットが長いし、車高が低いから余計にそう感じる。それに、視界も良好な感じがせず、少し恐怖感を覚えるのだった。
いつも座っている助手席とはまた違った感覚だ。
「どうだ?違うだろう?」
雅臣の言葉に理子は頷いた。
エンジンをかける。低くて深い音がした。クラッチを踏んで軽く足を上げたが、半クラッチの感覚が違うのに戸惑った。
「先生、なんか怖いかも…」
「そうだろう?だから言ったじゃないか。とにかく、落ち着いて、五感を研ぎ澄ますんだ。足から伝わってくる感覚と耳から伝わって来る感覚を大事にして、丁寧に」
雅臣に言われて集中した。
半クラ状態も、ギアの感覚も違う。
ついつい慌てて、急いでチェンジする理子に、雅臣は「落ち着いて」と何回も繰り返した。
マンションの駐車場の出入り口は広めなので、あまり神経を使わずに出れたが、出ると下り坂だ。坂下で一端止まり、左右を確認してから右折した。半クラッチはスムーズに出来たのでホッとする。
その後、周辺を走った。大通りは何の問題も無いが、この辺は起伏が激しくて、何度も坂を上ったり下がったりするので、坂の途中の信号で捕まった時には、緊張した。教習所では、坂道発進は得意だったが、初めての不慣れな車だけに緊張する。
「半クラの感覚は掴めてるんだから、自信を持って発進するんだ。もし失敗したら慌てずにブレーキを踏んでサイドを引けばいいんだから」
雅臣にそう言われ、理子は落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。
この後、雅臣に言われてあちこちを走った。交通量が比較的少ない住宅街の坂道で、何度も坂道発進をし、勾配の急な坂でも何度もトライした。しつこいくらい繰り返し坂道発進をし、理子も自信が付いてきた。そして今度は少しずつ狭い道へと
車高が低く前が長いので、狭い道での右左折には神経を使う。だが理子は、既に車両の感覚を掴んでいたので、数回で楽に出来るようになった。その後、幅寄せやバックを練習し、やっと、買い物場所である
スーパーの駐車場で車庫入れをする。広い駐車場だったので楽勝だ。教習所でも、車庫入れは得意だった。
車を降りた時、疲れがドッと出て来る感じがした。かなり神経を使ったみたいだ。
「先生、車の運転がこんなに疲れるものとは思ってませんでした」
理子は雅臣の腕にしがみついて、そう言った。
「でかい車だからな。でも君は、教習所の先生から褒められたのも伊達では無かったな。この数時間で、ほぼ掴んだじゃないか。感心したよ」
優しい顔でそう言われて、嬉しくなる。
「でも、まだ暫くは一人じゃ不安です…」
そう言う理子を、雅臣は抱き寄せる。
「暫くは俺がそばに乗ってるよ。でもすぐに自信を持てるようになる。君なら大丈夫。車好きの君の事だ。じきに運転するのが楽しくなるんじゃないかな」
買い物を済ませて、再び理子の運転でマンションへと帰った。もう随分馴れた気がした。マンション内の駐車場でも楽に車庫入れが出来て、ホッとした。
「お疲れ様。君は本当にセンスがいい」
雅臣はそう言うと、理子の頭に口づけた。その瞬間、ドキンと胸が高鳴った。頬を染めて雅臣を見上げると、優しく微笑む素敵な顔がそこにあった。場所は駐車場である。周囲には誰もいなかったが、外である事には変わりは無い。
理子は慌てて目を逸らすと、トランクを開けて荷物を取り出した。雅臣がすぐに傍に来て、「俺が持つよ」とその荷物を取り上げた。
本当に、一緒に居るとドキドキする人だ。理子は荷物を持つ雅臣の隣に並んで歩いた。買い物中にも思ったが、雅臣と並んで歩いていると、昨日の結婚式を思いだして頬が火照って来る。
在学中は、いつも遠くから気付かれないように見ているだけで、一緒に並んで歩いたのは数える程しか無い。そのせいか、未だにこうして並んで歩く事を新鮮に感じるし、胸がときめく。既に全てを知っていると言っても過言ではない仲なのに。
部屋へ入り、買ったものを所定の場所にしまったところで、取り敢えずお茶にした。神経が疲れている感じなので、カモミールティを淹れる。リンゴのような甘い香りがするが、勿論味はリンゴでもないし、甘くも無い。この香りを嗅ぎながら飲むと、心が落ち着いてくる。
「何だか、ゆったりした気分になってくる」
雅臣が感想を述べた。
「カモミールにはリラックス作用や鎮静作用があるんですよ。神経系に効果ありです」
「ふう~ん。よく知ってるな」
「ハーブ、アロマ、オーガニック系は詳しい方です。好きなので」
「だから、スパイスとかも凝ってるんだな」
雅臣が感心したように言った。
理子は普段の料理にふんだんにハーブやスパイスをブレンドして利用している。シンプルな料理でありながらとても美味しいのは、それらを工夫しているからだ。
「そう言えば、我が家も時々、いい匂いがするよね。芳香剤なのかと最初思ったけど、どこにもそれらしい物は無いし。あれって、もしかしてそうなの?」
雅臣は、家へ帰って来ると、時々とても良い匂いがほんのりと漂っているのを感じていた。その匂いは日によって違う。甘い感じの時もあれば、柑橘系のような時もあるし、爽やかな時もある。そしてそれは入浴の時にも感じていた。
「あれは、アロマオイルです。そのもの自体は濃度が濃いから匂いもきついので、薄めて使うんです。自然の匂いであっても、きついと頭痛や吐き気を催しますから、微かに香るように調整してます」
「日によって、匂いが違う気がするんだけど」
「その日の体調や気分によって変えてるんですけど、先生の学校のスケジュールも参考にしてるんですよ」
理子はそう言って笑った。
「俺のスケジュール?」
「はい。日本史の授業がある日とか、補習クラスの授業がある日とか、会議とか出張とか研修とか、色々あるじゃないですか。それに合わせて疲労度も違うでしょうからね」
理子の言葉に、雅臣は驚いた。自分の仕事の内容まで把握して、それに応じて香らせるアロマを選んでいるのか。
そう言われてよくよく考えてみれば、食事の内容も考慮されてるような気がしてきた。自分がその時に何となく欲しているタイプの料理が出て来る。
「君、凄く気を使ってくれてるんだね」
雅臣はしみじみとそう言った。雅臣の言葉に理子は頬を染めた。
「そんな事はないですよ」
そう言って、はにかんだような笑みを浮かべたのだった。