第149話
文字数 4,406文字
「考えてみれば、結婚前の半年間、我慢してたじゃないか。それを考えればどうって事は無いよ」
「でも先生。あの時と今じゃぁ状況が違います。今は一緒に暮らしてるのに」
「まぁな。言ってみれば、目の前にいつもエサがぶらさげられてるようなものだもんな」
「エサだなんて…」
理子が少しだけ頬を膨らませた。涙が止まっている。
「俺、肉食系だから。だからいつでも君を狙ってる」
雅臣はそう言うと、理子を押し倒した。
「だから君は心配も遠慮もいらないんだ。自分の感情をそのまま俺にぶつけてくれ。一応俺は、これでも君よりは幾ばくかは大人だから」
理子は雅臣の瞳をジッと見ている。その瞳には、恐怖も不安も感じられない。
「じゃぁ先生。思いきり抵抗しても、大丈夫って事なんですね?」
理子が笑みを浮かべてそう言った。
「ああ。でもその前にちゃんと逃げるから心配いらない」
雅臣の言葉に理子は吹きだした。
その笑いが納まる頃、雅臣は再び理子の唇にキスをした。
優しく何度も、その唇を啄ばむ。
理子に抵抗の様子が無いと見てとった雅臣は、そっと唇を舐めてみた。そして、唇を口に含んで、優しくしゃぶった。
左手で理子の頬を包み、右手を髪の中に入れた。滑らかな髪が雅臣の指に心地良い。
そっと唇を外して理子を見ると、理子は頬を染めて甘い顔をしていた。その顔を見て雅臣は安心する。
クリスマスイブの日と比べたら、格段の進歩だ。
雅臣の視線に気づいたのか、理子は目を開いた。
「先生…?」
問いかけるような眼差しに、雅臣は口の端に笑みを浮かべた。
「良かった。君が嬉しそうにキスされてるんで」
それを聞いた理子は顔を真っ赤にして、雅臣を押しやるように身を起こした。
「先生の意地悪!もう、いいから、あっちへ行って!勉強の邪魔だし!」
真っ赤になって怒る理子が可笑しくて、雅臣は思いきり笑った。
「先生ったら、何笑ってるんですか?もう、腹立つなぁ」
「あはっはっは……!」
笑いに拍車がかかる。腹が痛くなって思わず押さえる。
こんな風に理子をからかい、むくれさせて笑うのは久しぶりのような気がした。
俺達は何も変わっていない。
そう実感し、その歓びを噛みしめる。
こんなにも気兼ねなしに笑えるのは、理子の前だけだ。
そして、こんなふうに理子がむくれるのも、自分の前だけなのだ。
笑い続けている雅臣を見て、理子は頬を膨らまし、軽く睨んでいる。
いつもと変わらぬ理子の反応は、雅臣を明るい気持ちにさせてくれるのだった。
この分なら、そんなに心配はいらないような気がした。
焦らずに、ゆっくりしたペースで触れあいを進めていけば、きっと回復するに違いない。
「先生、いつまで笑ってるんですか?私、勉強の続きをしたいんですけど」
きっぱりと言う理子に、雅臣は笑いを止めた。
「はいはい、わかりました。悪かったな、勉強の邪魔をして」
雅臣はそう言って立ち上がり、自分の席へ戻ろうとした。だがその瞬間、自分の左足に抵抗を感じた。視線をやると、理子が雅臣のズボンを掴んで見上げていた。不安そうな顔をしている。
「どうした?」
「あの…、怒ってないですよね?」
理子の言葉に雅臣は軽く微笑むと、再びソファの上に座り、自分のズボンを掴んでいる理子の手を取って、その甲に口づけた。
「馬鹿だな。怒るわけないじゃないか。もう少し俺を信用して欲しいな」
「ごめんなさい。…そうはおっしゃっても、横浜では機嫌損ねたみたいだったし」
俯き加減で呟くように言う理子に、雅臣は溜息を吐いた。
「あの時は悪かった。でも、あの時と今じゃ、状況が違うだろう?」
あの時は、現実的な事を言う理子に、つい気分を害してしまった。そんな事など考えずに、ただ純粋に喜んで欲しかっただけだったからなのだが、後から自分の不甲斐なさに腹が立ってきたのだった。
「ごめんな。俺って、くだらない事でいちいち怒ってるよな。君を不安にさせたくないから、これでも怒らないようにしてるつもりなんだ」
そう言いながら、雅臣は理子の手を握りしめた。
「だけど君は、俺から逃げずにいてくれたよな。黙って俺につき従ってくれた。その事には凄く感謝してる。君が黙って俺のそばで寂しい顔をしてるのを見てると、自分の馬鹿さ加減に気付かされる。そんな思いをさせて済まなかったって、つくづく反省するんだよ」
「先生……」
やるせなさそうな顔をしている理子の額に、そっと唇を押しあてた。
途端に理子の顔が朱に染まる。
「さぁて。勉強と仕事に戻ろうか。お互いに、呑気にはしてられない立場だろ?」
そう言って立ち上がりながら理子を見ると、理子は優しい笑みを浮かべて頷いた。
雅臣と理子は、正月を伊豆の貸別荘で過ごしていた。
蒔田の両親と紫も一緒だ。
雅臣の父、雅人が、みんなで正月を伊豆で過ごさないかと提案したのだった。
結婚して初めての正月だから、本来なら二人だけで過ごさせるところだが、事件の事で精神的な後遺症を抱えている理子をみんなで癒してやりたいと思ったのだった。
それに息子も、苦しんでいる理子のそばにいて精神的に辛いに違いない。
二人だけの時間も大切だが、過ぎると煮詰まり、前へ進めなくなる場合もあるだろう。時には違う風に当ててやるのも、案外良い効果をもたらすのではないかと、雅人は考えたのだった。
雅人が予約した別荘は、南伊豆の石廊崎にあった。
伊豆半島の突端に位置する為、交通の便が悪く、観光名所も少ない。灯台と神社と遊覧船くらいか。
以前は熱帯植物中心のパークがあったのだが、交通の便が悪い事もあって客足が少なく、経営不振で閉鎖された。
だが、半島の最南に位置する為、東に相模灘、西に駿河湾、そして南は太平洋が一望でき、伊豆七島も見えて絶景のロケーションである。そして、冬は暖かく夏は涼しい。
海が好きな理子は、この場所をとても気に入った。
この石廊崎へは、雅人のベンツに五人で乗り込み、途中何度かの休憩を入れながらの長旅だった。伊豆半島の最南端だけに、距離があり時間がかかる。
東名高速に乗って裾野インターで降りて三島へ向かい、そこから国道一三六号線を南下して修善寺へ出て、そのまま南下し四一四号線を走る。天城トンネルを出て下田まで行き、一三六号線に出て更に南下する。
伊豆半島は、東伊豆しか鉄道が敷かれていない。それもあって、東伊豆の方が圧倒的に観光客が多い。観光施設もそれに合わせて多いのだった。
西伊豆は鉄道が無い分、自然の名所が多く、東名の沼津インターから車での観光客が多いが、金山で有名な土肥より南は遠い為、観光客も減る。
南伊豆はそれより更に遠い事もあり、道路の交通量もぐっと減る。
理子は後部座席の真ん中に、雅臣と紫に挟まれるようにして座っていたが、二人が自分の取り合いをするのには参ったのだった。
「姉さん。理子は俺の妻なんだからさ。取らないでくれるかな」
紫に肩を抱かれたので、その肩に軽く頭を乗せたら、雅臣が不満げにそう言ったのだった。
「あらっ!いいじゃないの。忙しくてなかなか理子に会えなかったのよ?やっとこうしてスキンシップを取れるって言うのに、ケチな事を言わないでよ」
税理士を生業としている紫にとって、今月は目の回るような忙しさだった。理子が入院している時にも一度しか見舞いに行け無かったし、その後も退院祝いの時しか会っていない。
紫もどれだけ理子の事を心配しただろう。
すぐにも駆けて付けてやりたかったし、毎日病院に泊まり込んでいる母と、できれば交代してやりたかった。
妊娠騒動以来、何かに付けて理子を心配してきた。だが、夏は決算期の企業もあり、春程ではないにしろ、矢張り忙しかった。
紫は理子の事が最初から好きだった。
自分がもし男だったら、弟の恋人に恋してたんじゃないか。 だから、女で良かった。そう思う程、理子を気に入っていた。
もし、あの夏の別居の結果、雅臣と離婚するような事になっても、自分は理子の友人でいたいと紫は思っていた。
弟の変わりに、彼女を見守り、助けていってやろうとまで思っていたのだ。
その騒動も何とか収まり、ホッとしていたところの、今度の事件だ。しかも、重大事にまで発展し、理子が障害を負うかもしれないとの報を受けた時、心臓を抉られるような痛みを感じた。
仕事をしながら、理子の無事を祈り、事態が好転した連絡を受けた時には全身から力が抜け、涙を流している自分に気付いたのだった。
今度の事件で、誰もが理子の存在が自分の中で大きい事を再確認させられた。
「そうよー。紫も寂しかったんだから、少しくらい、いいじゃないの」
助手席に座っている博子が、そう口を挟んできた。
「あなた、ちょっと、焼きもちを妬き過ぎよ。他人なら兎も角、親や姉にまで妬くって言うのは、どうなのかしら?独占欲が強過ぎない?」
母の言葉に、雅臣は憮然とした顔をした。そんな様子に、理子が思わず顔に笑みを浮かべると、それに気付いた雅臣が「何、笑ってるんだよ」と、理子に文句をつけてきた。理子は思わず首を振る。
「君はすぐにそうやって、誤魔化すんだな。何が可笑しくて笑ってるのか、ちゃんと言ってくれないかな」
雅臣の責めるような口調に、紫が理子を雅臣から離すように強く抱き寄せた。
「マーったら、なに理子を苛めてるのよ。可哀想じゃないの」
「別に、苛めてなんかいないじゃないか。笑った理由を聞いてるだけだろう?」
心外な事を言われて納得がいかないと言った顔をして雅臣はそう言った。
「あなたがあまりに大人げないから、思わず笑っちゃったんじゃないの?」
紫の皮肉めいた言い方に、雅臣は眉根を寄せて「あのなぁ…」と食ってかかるような様子を示したら、運転中の雅人が割って入って来た。
「いい加減にしないか。雅臣だけじゃなくて、紫も大人げないぞ。結局、一番困るのは理子ちゃんじゃないのか?」
父の言葉に、二人は黙った。
「それから雅臣。折角みんなで来たんだから、理子ちゃんを一人で独占しない事。家族旅行なんだからな。夫婦二人っきりの旅行とは違うんだぞ」
雅臣はそう言われて「ちぇっ」と言った。
それに対し雅人に「ちぇっ、じゃないだろう」と厳しく言われて、「わかったよ」とぶっきら棒に答えたのだった。
そんな雅臣を見て、理子は再び思わず笑みがこぼれそうになったのだが、慌ててそれを押さえたのだった。また気付かれて、難癖をつけられたらたまらない。
まるで子供みたいだ。だから、つい笑いそうになる。
親の注意に対して『ちぇっ』と言うなんて、普段の教師然とした雅臣からは考えられない言動だった。
随分と子供扱いされてきたが、雅臣自身の子供のような言動を目の当たりにすると微笑まずにはいられない。
そして、そういう雅臣に接するたびに、存在を近く感じて胸が暖まる。家族以外には見せない姿だ。