第78話

文字数 4,458文字


 理子が手術…。
 雅臣は愕然とした。

 美鈴にタクシーを呼んでもらって慌てて乗り込んだ。
 志水に保険証の事を言われて、理子が保険証を持っていない事に今更ながら気づいた。なんて間抜けなんだと自分を責めた。
 冷静さを欠いていたのもあったが、必要最低限の事はもっとしっかりとチェックしておくべきだった。

 雅臣はタクシーに乗り込んでから、姉に電話をして事情を話した。詳細はわからないが、取りあえず姉にも病院へ来て欲しい旨を伝えた。

 時計を見る。二十二時を少し回っていた。
 何故こんな時間まで志水と…。
 雅臣の胸はざわめく。
 枝本から二人が付き合っている事を知らされた時、ショックだった。一人になりたいと懇願するから一人にした。どうあっても引かない頑固さを感じたからだ。

 雅臣は、普段は理子に有無をも言わせぬ強引さを見せるが、理子がどうあっても絶対に引かない抵抗を見せた時には、引いていた。引くしかない。愛しているから。

 だから、自分の意に反して理子を尊重し、別居したのだった。それは一人で冷静に考えさせる為であって、他の男の懐へ逃げ込む為にしたのではない。
 いつまで経っても連絡してこない理子。
 雅臣からは連絡は取らない約束だった。約束した以上、守るしかない。律儀に守った自分が馬鹿だったのか?

 だが、自分はどうだ?
 理子からの連絡を待ち切れずに、自分も他の女性の懐へ逃げ込もうとしていたではないか。
 別居してから三か月近く経とうとしていた。限界だった。
 そう。
 限界だった。
 しかし結局、駄目だった。逃げ込むことも出来なかった。自分の愚かさを思い知らされただけだった。

 理子、無事でいてくれ。
 雅臣は理子の無事を祈るしかなかった。



「手術の可能性があります。至急、ご家族の方に来てもらってください」

 志水はその言葉に途方にくれた。
 自宅まで送った別れ際に、理子は突然腹痛を訴えて、その場に(うずくま)った。額に脂汗を浮かべ、酷く苦痛そうだった。
 志水はすぐさま救急車を呼んだ。
 一緒に乗り込み、病院へと運ばれた。

 救急車の中で、理子はずっと痛みを訴え続けていた。かなり痛そうだ。志水は不安だった。どうしたら良いのかわからない。
 病院に到着し、救急治療室へと運ばれた。
 これから至急、超音波とCTの検査をするが、手術の可能性が高いと言われた。
 家族を呼ぶように言われた時、志水は戸惑った。

 理子は今別居中だ。自宅へ電話しても誰もいない。
 実家の連絡先なんて知りようもない。一体、誰に連絡すれば良いのか。

 そうだ、理子の携帯だ、と気付くのに少しの時間を要した。
 いつも冷静な志水だったが、さすがにこの時はパニック気味で、すぐに気付かなかった。
 理子のバッグを開けて携帯を探す。綺麗に整理されたバッグだったが、何故か携帯は全ての荷物の一番下に入っていた。

 自分とは違う機種だったので、扱いに戸惑った。
 電源を入れると、待ち受け画面が現れた。そこにはあの人がいた。理子の夫だ。
 一瞬凍りつく。別れた筈なのに、まだ待ち受け画面はあの人なんだ…。
 携帯をバッグの底へ入れていたのは、その事に対する僅かな抵抗なのだろうか?変えたくても変えられない自分自身への。

 志水は思いを振り切って、電話帳を開いた。
 グループ分けがしてあった。一番は「身内」となっていた。
 多分、ここだろう。開けてみる。

 “一.まー 二.自宅 三.吉住 四.吉住宗次 五.真壁 六.紫さん”とあった。
 志水は迷った。
 理子はいつもあの人の事を「先生」と呼んでいる。だから登録名はフルネームだろうと思っていた。
 フルネームであればすぐにわかる。だが見たところ、それらしい名前が無い。

 三,四,五は知らない苗字だ。実家関係ではないかと思った。六は女性だ。そうなると一しかない。だが、本当にそうなんだろうか?
 ただ“まー”だけでは心許ない。
 まさか、消去はしていないだろう。待ち受けから察すれば。
 念の為、前に戻って他のグループも探してみた。だが、あの人らしい名前は無かった。やっぱりこれしかないだろう。何よりも、一番最初にあるのだから。

 実家らしい、三,四,五へかけてみようか、との思いも生じたが、健康保険証が必要だ。まだ離婚していないのだから、当然、保険は夫であるあの人の扶養として入っているだろう。そう思って、志水は矢張り“まー”へ電話する事にした。

 呼び出し音が鳴る。相手はすぐに出なかった。気持ちが焦る。
 やっと通じた時、「理子か?」と問う声があの人だったのでホッとした。

 雅臣へ電話をした後、志水は待合室で祈るように待っていた。
 病院へ運ばれる時、理子の顔色は真っ青だった。そう言えば、昼間から体調が悪そうだった。
 今日は放課後、クラスの集まりがあり、役員の理子は忙しそうにしていた。休み時間には教諭から呼び出されて資料の準備などもしていた。
 あまり体調が良さそうには見えなかったので、志水は手伝ったのだが、時々しんどそうにしていたのを思い出す。

 よくよく考えてみれば、理子は夏から随分痩せて、冬学期に入ってからも活気を取り戻せずにいた。
 周囲の友人達もみんな心配している。
 結婚指輪は夏休みの間には外していたが、授業が始まってからは再び身に着けている。周囲から詮索されるのが嫌だったからだろう。だが、とても緩そうだった。

 ずっと理子のそばにいたのだから、もっと早くに変調に気づいてやるべきだったと、志水は自分を責めた。
 きっともっと前から、芳しくなかったに違いない。だが、渋谷で会った時から、顔色はずっと優れないままだったのだ。あの時点で、消耗しやつれていた。

 治療室から医者と共にストレッチャーに乗せられた理子が出てきた。

「理子!」

 志水が声をかけると、理子は薄らと目を開けた。汗だらけだ。
 医者がそばから言った。

「腹膜炎です。初期の段階なら今はいい薬があるので、それで済んだんですが、かなり進行しているので手術は避けられません。随分前から痛みはあった筈です。我慢していたんでしょう。それがいけなかった」

 矢張り前から我慢していたのか。

「それでちょっとお聞きしたいんですが、手術をするので麻酔をします。見たところ、過去に手術等をされた形跡は無いようですが、最近麻酔を使われた事は?」

 志水にはわからない。手術をした形跡が無いのなら、多分無いのだろうとは思うが。

「いえ、僕にはちょっと…。歯科での麻酔とかは、どうなんでしょう?」

「歯科治療で使うのは極微量なので問題はありません」

「あの…」

 理子が苦しげな声をかけてきた。

「どうしたの?」

 志水は心配した。

「あの…、麻酔ならあります。…六月に…」

 医者は驚いた。

「六月?最近ですね。それは一体?」

 理子は一瞬志水を見た。目が合ったが、すぐにその視線を宙へ逸らせた。

「流産の、手術で…、ここの病院です…」

 志水は衝撃を受けた。
 六月。…六月か。
 理子が二日間大学を休んだ、あの時か!

 あの時から、理子の様子が変わったのだった。そんな事があったからだったのか。

「じゃぁ、産婦人科ですね。カルテを調べましょう。ご家族の方との連絡は?」

「さっきしたので、もうすぐ来ると思います」

「ではこのまま、手術に入ります」

 医者がそう言うと、理子は手術室へと運ばれた。
 志水は慌てて追いかけた。

「理子、大丈夫?」

 その問いかけに理子は目を開けた。

「ご、めん…ね。こんなことに、なって」

「何言ってるんだ。僕の方こそごめんよ。もっと早くに気づいてあげられなくて」

 志水は切なげに理子を見た。

「せ、…せんせい、は?」

 その言葉に志水は打ちのめされた。

「もうすぐ来るよ」

 声が震えた。

「よかった…」

 理子はそう言うと、目を閉じた。

 志水は理子が運び込まれた手術室の扉の前で、立ち尽くした。



 理子が手術室へ入ってから約五分後に、雅臣がやってきた。

「理子は?」

 雅臣が叫んだ時、志水は手術室の前の椅子に座っていた。
 雅臣を見たその目は僅かに濡れていた。

「今、手術中です」

 志水が静かにそう言う。

「それはわかっている。無事なのか?生命の危険性は?」

 興奮している様が窺われる。

「無事です。腹膜炎だそうです。かなり進行してますが、命の危険性はないそうです」

 雅臣を冷めた目で見ながら、志水は言った。

「そうか。良かった。…だけど、一体これは、どういう事なんだ」

 雅臣は志水を責めるように言った。

「何故君が、こんな遅い時間に理子の携帯から電話をしてくるんだ」

 志水は厭味な笑みを浮かべた。

「気になりますか?」

「当たり前だ」

 雅臣は憤慨気味に言った。

「なら、何故放っておいたんです?」

 志水の言葉に雅臣は怒りの顔を向けた。

「君には関係のないことだ。それは理子と俺の問題だ」

「そうかもしれません。だけど僕には理解できない。流産して傷ついている妻を放っておくなんて」

 雅臣は驚きの目を剥いた。

「理子が話したのか?」

「いいえ。ついさっき知ったんですよ。手術をするのに、最近麻酔を使用したかどうかって医者に聞かれて」

 志水は尚も続けた。

「驚きました。そんな事があったなんて。同時に納得もした。理子は僕には経緯を何も話してくれなかったし、僕もあえて聞かずにいましたから。でも、彼女の変貌ぶりは信じられなかったし、食も細くなって痩せていく彼女が心配でならなかった」

「今、君と付き合っていると聞いたが…」

「あの枝本とか言う彼氏から聞いたんでしょう。付き合っていると言えば付き合っているのかもしれませんが、あなたが心配するような関係ではないですから、ご心配なく」

「本当なのか?」 

 雅臣は暗い目で訊ねた。志水はそんな雅臣に厳しい目を向けて言った。

「理子を信じていないんですか?」

 その言葉に、雅臣は詰まった。

「彼女から、あなたと別れたと聞いた時、僕は耳を疑った。そんな事がある筈がないと信じられなかった。理由を訊ねましたが言ってはくれなかった。言いたくない事を無理に言わせる気はありません。でも、ずっと何故なんだろうと思い続けていました。彼女はいつも寂しげで悲しげで、常に自分を痛めつけているように見えた。そんな彼女を見ている僕も辛くなってきて、彼女に求愛しました。でも、自分は先生しか愛してないし、これからも変わらないと言われて拒絶された。愛しているのに一緒にいる事を拒否している事が、どうしてもわからなかった。さっき、彼女の流産の話を聞いて少しは納得できましたが、それでもやっぱりわからない。そんな時こそ一緒にいるべきじゃないかと思うのに。本当に、どうしてなんです?何故彼女と別居なんてしたんです?」

 冷静な物言いだったが、その底には怒りが秘められているのを雅臣は感じた。
 そうだろう。理子を愛しているなら、怒っても当然だ。枝本も怒っていた。

 雅臣は志水の隣に腰掛けた。
 この男に、事情を説明するべきか否か、迷った。
 隣に座る志水を見ると、真剣な眼差しで雅臣の答えを求めていた。


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