第43話
文字数 4,582文字
理子は愛理と美香の二人と共に、渋谷の街で買い物をしていた。
志水や他のクラスメイト達と一緒のお茶は何度かあるが、二人と一緒に放課後に買い物をするのは初めてだった。とても新鮮だ。高校在学中もショッピングらしい事は無かった。お金が無かったからだ。
買い物を目的として友達と渋谷の街を歩くと言う初めての体験に、胸が躍るのだった。
「家の方は大丈夫?」
美香が心配そうな顔で訊ねた。
「大丈夫よ。先生も忙しいみたいで、早くは帰って来ないし」
三年生の担任である事と、今年も進学に力を入れていると言う事もあってか、連休明けから忙しいようで、帰宅時間も少し遅くなってきていた。帰って来ると、少し疲れた顔をしている。
在学中はホームルームと授業でしか顔を合わせなかった事もあって、雅臣の忙しさに気持ちが及ぶ事が無かった。
一緒に暮らしてみて、改めて教師の忙しさ、大変さを実感した。特に進路指導を任されている為、尚更だ。
「最近は、付き合い、いいわよね。私達は嬉しいけど」
愛理はそう言って笑った。
「だけど、なんかいっつも志水君が一緒だから、女同士の話しが思うようにできないのよね~」
愛理の言葉に、美香も頷いていた。
服をあれこれと選び合いながら、愛理が言う。
「知ってる?最近、志水君と理子の事が噂になってるのよ」
「ええ?」
理子は驚いた。
「やっぱり、知らないの?」
美香が言った。
理子は頷く。初耳だった。
「多分、志水君がガードして、理子の耳に入らないようにしてるのよ。志水君は知ってるみたいだから」
その言葉に、理子は更に驚いた。
「どうして?なんで志水君が知ってるってわかるの?」
「だって、周囲からあれこれ言われてるみたいだもん。だけど、それを理子の耳には入らないようにしてるのよ」
そう言われても、よくわからない。
「人妻の理子に興味を持つ男子が、少なからずいるの。うちのクラスの男子は、コンパの時に先生に会ってるせいか、大体が戦意喪失してる感じだけど、他のクラスの男子は知らないでしょう?なのに、理子のそばにはいつも志水君がいる。彼らにとってみれば志水君は邪魔者じゃない。彼がいるせいで理子に近寄れない。だから、志水君にあれこれ言うのよ」
そうなのか。それこそいつも一緒にいるのに、全然知らなかった。
「女子達もね。多分、やっかんでると思うんだけど、志水君がいつも理子と一緒にいるのが気に入らないみたいで、『あの二人、怪しい』って噂しだしてる」
二人は言わなかったが、志水を理子の愛人と言っている者までいるのだった。
理子は二人から聞いて、複雑な思いに駆られた。
志水と仲が良いのは確かだ。気が合うからだ。話していて楽しい。
だがいつも一緒にいると言われても、履修科目が全て同じなのだから仕方が無い。二人きりになるのは、帰りの電車くらいで、それだって、渋谷までは他の友人が一緒の時も多い。
二人に周囲の噂の事を聞いてから、理子は今まで呑気だった自分を自覚した。気を付けて周囲の様子を窺うと、厭らしい目で二人を見ている者がいる事に気付いた。
何人かの女子がたむろしていて、その前を二人で通ると二人の方へ視線を飛ばして、ニヤニヤしながらヒソヒソ話を始める。凄く感じが悪かった。
教室にいても、それを感じるようになった。クラスメイト達も、どことなくよそよそしい。
やがて理子の元に男子からラブレターが舞い込むようになった。いつの間にか鞄の外ポケットに入っていたり、授業中に回ってきたりする。中を見ると、交際の申し込みだった。
「結婚してる事は知ってるが、付き合いたい」と、その多くに書いてあって、どう受け取ったら良いのか分からない。
一体、どうしてこんな状況になってしまったのだろう。
そんなある日の帰り途、志水が個人的に話したい事があるから、どこかへ寄らないかと誘ってきた。
「個人的な話しって?」
理子は不審そうに志水に言った。志水はいつもの謎の微笑を浮かべて、「僕達の噂のことについて」と言った。
既に田園都市線に乗っていて、もうすぐ二子玉と言う時だった。
理子が躊躇している間に、電車は二子玉川に停車した。志水は躊躇している理子の手を取ると、電車から降りた。理子は思いもよらない出来ごとに、唖然とした。
ハッとして振り返ると、電車のドアが締まり、走り出していた。理子はそれを見送ると、志水の方を見た。まだ手を取られたままだった。
「志水君…」
「ごめん。強引すぎたかな。良かったら多摩川土手へ行かないか。天気もいいし、風も気持ちいいし」
そう言って優しい笑みを浮かべている。理子は仕方なく頷いた。
「わかった。だけど、手を離して欲しいんだけど」
理子にそう言われて、志水は理子の手を離すと、先に立って歩き出した。理子は初めて降りる場所なので、勝手が全くわからない。志水の後に従って歩くだけだった。
多摩川は、駅を降りてすぐだった。
こんなに近いとは思っていなかった。川べりを暫く歩く。確かに天気が良くて風が気持ち良い。
理子は海は好きだが、何故か河川にはときめかない。今も、確かに気持ちは良いが、川っていいな~という気持ちは湧いてこないのだった。
志水は、川べりを暫く歩いた後、土手を下って、草の上に腰を下ろした。理子もその隣に腰を下ろす。二人は黙ったまま、川の流れを見つめていた。
「君は、僕達の噂の事をどう思ってる?」
志水が突然そう言った。
「えっ?」
理子は戸惑った。そう訊かれても、どう答えたら良いのかわからない。理子が黙っていると、志水は言った。
「やっぱり、迷惑に思ってるのかな」
志水の視線を横顔に感じ、理子も志水の方を見た。いつもの謎の微笑である。
この人は、どうしてこうも、いつも謎の微笑を浮かべているのだろう。志水の、微笑んでいる顔以外の顔を見た事が無いような気がする。
「迷惑と言えば、迷惑だけど」
「それは、相手が僕だから?」
「相手が志水君だからとかは、関係ない。噂自体に迷惑してる。だって私達、噂を立てられるような関係じゃないでしょ?たまたま履修科目が全部一緒だったから、他の人達より一緒にいる時間が長いだけで」
理子の言葉に、志水は笑った。はっきり笑顔とわかる顔だった。
「僕である事に迷惑しているんじゃないと知って良かった」
不思議な事を言うと理子は思った。
「志水君は、平気なの?」
「僕は平気だよ、何を言われても。ただ、その事で君が周囲から変な目で見られたり、よそよそしい態度を取られる事には心外だけどね」
理子は志水の言葉に、黙って川面を見た。
傾きかけた日差しが反射していて、とても綺麗だった。時々電車の音が耳を突く。
「理子…。君はどうして、卒業と同時にあの人と結婚したの?」
志水の言葉に、理子は驚いて彼の顔を見た。そこには、いつもの謎の微笑は無く、真剣な眼差しをした顔があった。
「君が結婚しているとコンパで知って、僕は君の結婚は早過ぎたんじゃないかって思ってたんだ。君の家で再現ドラマを見せられて、余計にそう思った」
「どうして、そんな事を言うの?」
理子はやっとの思いでそう言った。彼が何故こんな事を言うのか理解できない。
「僕は、この間も言った通り、女性があまり好きじゃない。まぁ、女性だけじゃないんだけど、他人をあまり信じられないんだ。特に女性はね。だから、女に興味が無い。好意を寄せられても迷惑なだけなんだ」
理子は驚く。まるで、雅臣みたいだ。
普段から女子に冷たいのは、そのせいなのか。前から雅臣と似ていると思ってはいたが、本人からそれを裏付けるような事を言われるとは思っていなかった。
「それなのに、何故か君にだけは違う感情が湧いてくる。初めて会った時から、君には何か他の女達とは違うものを感じてた。同じ科目を履修してて、毎日ずっと一緒にいて、同じ時間を過ごす程に、その気持ちが強まって来る。何て言うか、心の深い場所で通じあうものがあるように思えるんだ。そして、君も僕と同じように感じているのが伝わってくるんだよ」
理子は顔を背けた。志水は一体何を言おうとしているのか。
「僕は思うんだ。あの人よりも先に僕と出会っていたら、君は僕を愛したんじゃないかって。そう思わないかい?」
理子は即座に首を振った。
「思わないわ」
理子の言葉に、志水は軽く息を吐いた。
「君は、あの人との生活を息苦しく感じてるんじゃないのかな。入学してからずっと君を見ているから思うんだけど」
「そんな事、無いわ」
「君があの人を愛する気持ちはわかるよ。あれだけの男性に求愛されたら、拒む事はできないだろうから。でも、あの人が君を愛さなかったら、君はそこまであの人を愛したかな。他の男を好きになってたんじゃないのかな」
「それはどうかしら。そんな仮定話しをしたって意味が無いと思う。現実に今は、私達は愛し合って夫婦になっているんだから」
「じゃぁ、僕の事をどう思ってる?僕は君が僕に好意を寄せてくれてると感じてるんだけど」
「好意は持ってるわ。でも、異性としてじゃない。友達としてよ」
「そうか。でもそれは今の段階だからなんだと思う。それ以上の気持ちを、君自身が自覚してないだけだよ」
「そんなことは無いわ」
理子は思わず強い口調でそう言った。
「じゃぁ、どうして君は、僕と一緒に帰ってる事をあの人には言って無かったの?僕と履修科目が全部一緒だって事も、話して無かったじゃないか。コンパの時に加藤さんが言うまで、あの人は知らなかった」
「それは、別に取り立てて言う程の事でも無いと思ってたからよ」
「でも、他の人から聞かされて、あの人はいい気持ちはしなかったんじゃないのかな」
「本人じゃないから、わからないわ」
理子は冷たく言った。
なんだかとても心がざわつくのを感じる。
何故なのか。
「僕は、コンパの時と、この間の君の家へ行った時に二人を観察してて思ったんだ。君とあの人は、どこまで行っても生徒と教師だ。君はあの人に対して遠慮があるだろう?大好きで、また尊敬する相手だからこそ、自分の全てを見せられない。どこかいつも緊張している。だけど、僕に対しては違う。君は、僕と一緒にいる時の方がホッとしている筈だ」
理子は動揺した。志水の言葉に共鳴する部分があるからだった。
そんな事は認めたくない。認められる筈がない。だが、雅臣には言えない事も志水には言える自分がいる事に、以前から気付いていた。それを敢えて指摘されたから動揺するのだ。
「僕は、君が好きだ。君を知る程にその気持ちは増していくし、もっと知りたい思いに駆られる」
志水はそう言うと、理子の手を取って握りしめた。理子は驚いて手を引いたが、志水の力が強くて振りほどく事ができなかった。
恐怖心が湧いてきた。去年の、渕田との一件が脳裏に蘇って来た。
怯えている理子を見て、志水は優しい微笑みを浮かべた。
「怖がらなくていいよ。僕はあの人とは違って、君を奪ったりしないから」
「それなら、手を離して」
理子は震えた声で、懇願するように言った。志水は残念そうな顔をして、理子の手を離した。
理子はすぐさま立ち上がると言った。
「志水君。明日から、私の近くの席に座らないで。帰りも一緒には帰らないから」
理子の言葉に驚いている志水を後にして、理子は駅へと走るのだった。