第68話

文字数 4,275文字


「理子?」

 声をかけられて驚いて振り向くと、そこに志水彰人が立っていた。

「あっ…、志水君」

 志水は驚いた顔をしていた。

「もしかして、…バイト?」

「うん…」

 軽く微笑むと、中断した手を再び動かしだした。
 場所は渋谷の小さな本屋だった。
 夏休みに入ってから、理子はここで毎日アルバイトをしていた。

 人の多い街。
 学校が近い事もあって、普段は東大生は多いが、夏休みだ。知っている人に出会いそうで、案外出会わないものだと思っていた矢先だった。

「どうして、本屋さん?」

 志水は不思議そうな笑みを浮かべて問いかけてきた。

「本好きには憧れの場所でしょ?」

 理子は力なく笑う。

「まぁ、確かに。でも女の子には重労働じゃない?」

「そうね。思っていたよりは大変かも。でも楽しいわよ」

 理子は無理して笑った。
 実際は、楽しいと言うよりも無心で働いていた。体を使った方が余計な事を考えないで済む。

「理子、バイト終わるのは何時なの?」

「六時だけど…」

 二人は時計を見た。五時四十分だった。

「じゃあ、もうすぐ終わりだね。もし良かったら、その後でちょっとお茶しない?」

 理子は迷った。志水と一緒に時間を過ごすのは久しぶりだ。

「すぐ帰らなきゃならないんだったら遠慮するけど」

 志水にしては珍しく謙虚な発言だった。その事に理子の心は動かされた。

「わかった。いいわよ」

「じゃぁ、この店の斜め向かいにあるカフェで待ってるよ」

 志水はそう言うと、軽く手を挙げて本屋を後にした。

 なんだか不思議な感じがした。
 よくよく考えてみると、理子は志水と二人きりでお茶したことなど今まで無かった。一緒に帰ってはいても、寄り途はしない。そもそも、二人でお茶しない変わりに一緒に帰っていたとも言える。
 それなのに、何故今日に限って承知したのか。
 寂しいからだ。
 あの部屋に一人でいるのが辛いからだ。

 雅臣のいない、あの広い部屋。
 二人で選んだ家具。お揃いの食器。
 それらを目にする度に寂しくて悲しくて辛い…。

 いけない、いけない。また余計な事を考えている。

 理子は全てを振り払うように頭を横へ振ると、再び仕事に没頭した。
 やがて終業時間がきてあがる。緊張していた気が緩んで来るのだった。

 志水が指定した店はすぐにわかった。
 こんな目の前にカフェがある事に初めて気づいた理子だった。それだけ、周囲に気持ちが向いてなかった証しかもしれない。
 店内に入って中を見渡すと、右側の少し奥の方で志水が手を振っているのに気がついた。

「お疲れ様」

 志水は優しげな声でそう言った。微笑んだ顔も優しげだ。
 志水はとても柔和な顔をしている。いつも微笑んで佇んでいる、そんな印象を与える男だった。
 だが、近づいてくる女にはとても冷たい眼差しを向ける。志水の柔和で魅力的な顔や雰囲気に惹かれてアプローチすると、手痛いしっぺ返しを食らう。

 何故そんなにも寄せ付けないのか。
 雅臣と似ている点だった。
 そして、理子だけに興味を持っているところも。

 志水に告白されてから、ずっと彼を遠ざけてきた理子だったが、今は志水の存在を有り難く感じた。
 彼の柔和な雰囲気は、一緒にいて落ち着く。そして、彼を懐かしく思う自分がいた。

 理子は注文を取りにきたウエイターにアイスコーヒーを頼むと、一息ついた。視線を感じて目を上げると、志水が微笑んだ顔で理子を見ていた。理子はその顔を見て、微笑み返した。

「あれ?笑ってくれたね。ずっと笑いかけてくれなかったのに」

「そうだったわね。ごめんなさい」

 謝る理子に、志水は驚いた顔をした。

「どうして謝るの?僕を遠ざけた事を反省してくれてるとか?」

 志水の言葉に理子は笑った。

「志水君も、案外しょってるのね。謝ったのは、笑顔すら向けなかったって事よ。あまりに冷たい態度をして、申し訳無かったって思ったの」

「じゃぁ、僕を遠ざけた事を済まないと思ってる訳じゃないんだね?」

「ええ…」

 理子は歯切れの悪い返事をした。

「それなら、笑いかけてくれなくていいよ。だって、そうじゃ無かったら、君の傍へ行っちゃうだろうからね」

 微笑みながらそう言う志水を見て、理子は何故だか胸が痛むのを感じた。

 ふと理子の中に疑問が湧いた。

「ねぇ。今日の出会いは偶然なのかな?」

 志水は驚いたように瞬きをすると、静かに微笑んで答えた。

「勿論、偶然だよ。まさか君があそこでバイトしてるなんて思いもよらなかった」

「今日は渋谷へは何をしに?」

「尋問かい?今日はちょっと欲しいものがあって買い物に来たんだ。用はすぐに済んだんだけど、暇だし、折角来たからちょっとぶらぶらしてた。たまたま本屋さんの前を通りかかったから入ってみたら君がいたってわけ」

「ふーん」

 鈴木とお茶した帰り、いないと思っていた志水が電車の中で現れた事を思い出して、少し不審に思ったのだが、どうやら嘘ではないようだ。

「僕は、君は今頃海外にいるかと思ってたよ。夏休みに新婚旅行へ行くって言っていただろう?」

「そうだったわね」

 二人で地中海へ行く予定だった。文明発祥の地の遺跡や文化を直接見てみたかったし、海が好きな理子にとっては、地中海は魅力的だった。だからとても楽しみにしていたのだが、キャンセルしたのだった。

 理子は眼を伏せると、アイスコーヒーのグラスに刺さっているストローに口をつけた。

「何か、あったの?あの人と」

「あの人」と言うのは雅臣の事だ。志水は雅臣の事を「あの人」と言う。

「どうして?」

 理子は眼を伏せたまま訊いた。

「だって、君は結婚指輪をしていないじゃないか」

 そう言われてハッとして、瞬間理子は右手を左の薬指の上に置いた。

「それに、僕が見たところ、一時たりとも肌身離さず身につけている筈のペンダントとブレスレットもしていない」

 雅臣との初めてのクリスマスの夜にプレゼントされた、ダイヤとツァボライトが施された四つ葉のクローバーのペンダント。
 殆ど一緒にはいられない自分の変わりに、外さずにずっと身につけていてくれと言われて、その通りに身につけていたものだ。
 ブレスレットは二度目のクリスマスにプレゼントされた。両方とも、結婚後も、肌身離さず身につけたままだった。

 理子は志水の観察眼に内心舌を巻いた。
 この人はよく見ている…。

「あれは先月の初めころだったかな。梅雨入り間もない頃だったか。理子が珍しく二日も続けて学校を休んだ時があったでしょう。加藤さんや上村さんには『ちょっと風邪をひいただけ』って君は答えてたけど、あの後から何だか様子が変だった」

 志水の言葉に理子の胸中が僅かに波立った。

「僕が聞いても君は答えてはくれないだろうと思ったから、何も言わずにいたけど…。だから、別に無理に話せとは言わないよ。気にはなるけどね」

「別れたのよ…」

 理子は小さく呟いた。

「えっ?」

「私達、別れたの」

 今度ははっきりと答えた。

 志水は驚いた顔をしていた。何か言いたいのに言葉が出てこない、といった感じで口を開けたままだった。
 そんな志水を理子は黙って見ていた。
 やがて志水は口を閉じると唾を飲み込み、再び口を開いた。

「信じられない…。別れたって?何故?どうして?離婚したの?」

 理子は頭を振った。

「離婚はまだしてないの。別居中」

「まだしてない、って、じゃぁ、いずれ離婚するってことなのかい?」

『離婚』と言う言葉が理子の胸に突き刺さった。

「はっきりは決めてはいないけど、するかもね」

 志水はとても複雑な表情をした。
 それが理子には不思議だった。自分に思いを寄せている相手だし、雅臣との事を否定していたのだから、少しは喜ぶと思っていたのだ。
 それなのに志水の顔には色んな表情が浮かんでは消えた。
 そして、思いもよらない言葉を発した。

「何か食べない?」

「えっ?」

 唐突なこの問いかけに理子は驚いた。

「肉体労働の後だから、お腹空いてない?僕は空いてるんだけど」

 そう言って、いつもの微笑を浮かべたのだった。

 この人はやっぱり不思議な人だ。

「早く帰らなきゃならない理由も、もう無いんだし、良かったら一緒に食べようよ」

「そうね…」

「僕はピザが食べたいな。あそこの席に座ってる人達が食べてるアレ!美味しそうじゃない?アレが食べたい」

 志水に言われた方を見ると、若いカップルが美味しそうにピザを食べていた。確かに美味しそうなピザだった。二人でメニューを見たが、文字だけのメニューだったので、五種類あるピザのどれだかわからなかった。

「アレでいいよね?」

 楽しそうな顔で志水が言った。

「うん、いいよ」

 志水はウエイターを呼ぶ。

「あそこの席の人達が食べてる、あのピザが欲しいんですけど」

 ウエイターにはすぐにわかったようだった。
 運ばれてきたピザはカリっとしていて、チーズも香ばしく美味しかった。
 だが、ピザで雅臣を思い出す。
 初めて雅臣が作ってくれたのがピザだった。そして、枝本達が新居に遊びに来た時にも、雅臣自ら腕を奮って作ったピザ。絶品だった。みんなにも評判だった。
 あの日から、まだ三か月足らずしか経っていないことに気づき、理子は愕然とした。
 愛を確かめ合ってから一年半も我慢したのに、僅か三、四ヶ月で壊れるなんて。

 壊したのは理子だ。

「あのさ」

 志水の言葉に我に帰った。

「良かったら今度、上野の国立科学博物館へ行かない?」

「えっ?博物館へ?」

「そう。理子、そういうの好きでしょ。僕も好きなんだ。良かったら気晴らしに」

 志水は優しく微笑んだ。
 最初、突然の誘いに躊躇したのだったが、お茶や映画じゃなく博物館である。
 理子は博物館が好きだ。志水が言う、『気晴らし』の言葉に惹かれた。

「そうね。たまにはいいかもね」

 理子の返事に、志水は嬉しそうな笑顔を見せた。

「じゃあ、決まりだね。いつがいいかなぁ。理子のバイトはいつ休みなの?」

「木曜日なんだけど…」

「木曜日だけ?」

「うん」

「それって、週休一日って事?毎日あそこで働いてるの?」

「まぁね。でも午後からだから。午前中は家で勉強してる」

 志水は呆れたように言った。

「女の子が夏場に本屋の肉体労働を毎日やってるなんて、大変じゃないか。東大生なんだし、なんで家庭教師とかもっと楽なバイトをしないのかな。収入だって、そっちの方がいいんじゃない?」

「体を動かしてる方が、楽なのよ。精神的にね」

 志水は溜息を漏らした。理子の言わんとしていることが理解できたからだ。

「志水君の方はどうなのよ。バイトはしてないの?」

 志水は不敵な笑みを浮かべた。

「僕は働かない主義なんだ」
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