第71話
文字数 3,355文字
「久し振り~」
理子は最上ゆきと、自宅の玄関で抱き合った。
久し振りにゆきが理子の家へ遊びに来たのだった。考えてみると、みんなと一緒に遊びに来た時以来だ。
ゆきは短大へ通っている。短大の方が四年制大学よりもカリキュラムがハードなのもあり、会えずにいたのだった。
「先生は?」
玄関で靴を脱ぎながらゆきが訊いてきた。
「いないの」
理子は素っ気なく言うと、先にリビングへと歩いていった。
「いないって、どこかへ出かけてるの?」
「まぁ、取りあえず座って」
理子はぎこちない笑みを浮かべると、ゆきの好きな紅茶を淹れるべくキッチンに立った。
「ねぇ、理子ちゃん。痩せたんじゃない?」
「えっ、そう?」
「うん。大丈夫?」
ゆきが心配そうな顔をしている。そのゆきに理子は笑いかけた。
「大丈夫よ」
「ならいいけど…。ところで、例の噂の件。落ち付いて良かったね」
「うん。ゆきちゃんには色々と力になって貰って、本当にありがとう」
「ううん。当たり前だよ。親友が困ってる時に力になるのは。だけど、綾子さんには驚いた。そんな人とは思って無かったから」
悲しい顔をしているゆきを促して、理子は紅茶を持ってリビングのソファへと移動した。
「それは私も。綾子とは昔からイマイチ合わないのは感じてたけど、あんな事をするとまでは思って無かったからね」
二人はソファに座って、紅茶に口を付けた。
綾子はどうしてそうも理子に敵意を抱くのだろう。虫が好かないと言うのなら、最初から付き合わなければいいのに。それとも、だからこそ理子の困る姿を見たいと思ったのか。
「綾子さんも、あそこまで大ごとになるとは思って無かったのかもしれないね」
ゆきの言葉に、理子は少しだけ不快になった。
今度の事で、理子はとことん綾子が嫌いになったからだ。一体理子が、綾子に何をしたと言うのだろう。長い付き合いだから、感情の行き違いが度々あるのは仕方が無い事だろう。それについてはお互い様な筈だ。
いくら気に入らないからと言って、あそこまでする神経が理解できない。そこまで根性が悪いとはガッカリだった。
そんな理子の様子に気付いたのか、ゆきが「ごめんね」と言った。
「どうして謝るの?」
理子はゆきに微笑みかけた。
「綾子さんを庇うような事を言ったから。理子ちゃんは被害者なのに…」
「ありがとう。でも、ゆきちゃんは、ずっと綾子に好意を持ってたから、悪く思いたくないんだよね。そういうゆきちゃんが、私は好きだよ」
「理子ちゃん…。あたしも理子ちゃんが好き。理子ちゃんが一番好き。だからあたし、さっきから理子ちゃんの顔色がイマイチなのがとっても気になるんだけど」
ゆきは心配そうな表情をしていた。
「バイト疲れかな」
理子は言った。
「バイトって何してるの?」
「本屋さんで働いてるの」
「ええー?それって、結構肉体的に大変じゃないの?」
「そうでもないよ。長い休みだから体を動かしてないと鈍っちゃうし、ちょうどいい運動になるの」
「先生は、何て言ってるの?」
「先生は、知らないの」
「それ、どういう事?何かさっきからおかしいよ。先生と何かあったの?」
ゆきが家へ遊びに来る事が決まった時に、話さなきゃいけないと覚悟は決めていたが、いざ話すとなると何からどう話して良いのかわからない。
「実は、別居してるの、先生と」
理子は目を逸らして言った。
「ええー?」
予想通り、ゆきはひどく驚いた。
「一体、…どういう事?どうしてなの?なんで?信じられないよ」
悲しそうな顔をした。
理子は妊娠した時からの一連の出来事をゆきに語った。
「そんな…」
理子の話を聞いたゆきは、すぐには言葉が出てこなかった。何て言ったら良いのかわからない。何だか凄く悲しい。
理子の気持ちは、半分は解るが半分は解らなかった。どうして
そこまで思いつめるのだろう。どうしてそこまで自分を追い込むのだろう。
理子はもっとポジティブな人間だった筈だ。ゆきの色んな悩みにも、いつも励まし元気づけてくれた。理子のお陰で、弱気な自分がどれだけ頑張ってこれたか。
その理子が、悲しみの岸辺に打ち上げられて喘いでいる。でも自分はどうしたら良いのかわからない。
ゆきは正直に自分の気持ちを言ってみた。
「どうしてそんなに、先生を拒否するの?どうして先生と、もっとよく話し合わないの?」
「ゆきちゃん…」
理子はゆきを見た。悲しみの中に怒りの感情が垣間見えた。
「望まない妊娠と流産をした事で、セックスに対して拒否感を覚えるのは私にもわかる。でもそれは、再び妊娠することへの恐れが原因でしょ。そういうのは、時間をかければ変化していくと思うよ。でもって、それは夫婦二人で乗り越えていくものじゃないの?愛し合ってるのなら、辛くても乗り越えてゆけるものじゃないの?」
「また妊娠する恐れだけじゃないの。それならきちんと避妊すれば済むことだし。それよりも、私が嫌悪するのは快楽なの。先生といると、それに溺れてしまう。それが嫌なの。だって、子供は、その快楽の結果もたらされたものなんだもの。だから、その事に物凄く罪悪を感じるの」
ゆきはため息をついた。
「理子ちゃん。セックスには快楽がつきものだよ。溺れるのが嫌なら、溺れないように努力するしかないじゃない。全てを否定するなんておかしいよ。それに、そういう事を先生とちゃんと話し合ってないでしょ」
ゆきの言う通りだった。
理子は雅臣との話し合いを拒否して、ただひたすら、自分の思いを押し通した。話し合ったところで、堂々めぐりになると思ったからだ。それに、精神が疲れていて、とにかく一人になりたかった。
「理子ちゃんは結局のところ、先生を愛せなくなったの?もう愛してないの?」
理子は頭を振った。
「愛しているのに別れるなんて、愚かだよ。枝本君との時を思い出してみてよ。理子ちゃんはあの時と同じようなことをまたしてるんじゃない?」
『枝本君との時』とは、中学の時の事だ。
やっと両想いになったものの、現状に耐えられなくなって、まだ好きなのに自分から別れたのだった。
「あの時と状況は違うけど、共通しているのは、ちゃんと話し合わずに一方的に結論出しちゃってるところ。しかも、それは逃げでしょ」
ゆきは、あえて厳しい事を言った。
一緒に泣いて慰めてあげたい気持ちもあったが、それではかえって良くないように思われた。
二人は別れるべきではない。絶対に。
理子はゆきに痛いところを指摘されたと思った。それに、今までの儚げで弱弱しいゆきにしては強い物言いなので驚いた。
はっきり言われて初めて気づく。確かに私は逃げている。
「ゆきちゃん、はっきり言ってくれてありがとう。ゆきちゃんの言う通りだと思う。だけど、私、気持ちがどうにもならなくて、とにかくまずは一人になりたかったの。一人になってみたかった」
「それで、一人になってみて、どうなの?」
「まだよくわからない。考えるのが辛くって。だから本屋さんの仕事を選んだの。体を忙しく動かしていれば余計な事を考えなくて済むでしょ。疲れるから夜もすぐに寝つけるし」
「そうだね。寝れるっていうことは健康的でいいよね。その点は本屋さんで良かったのかも。だけど、いつまでも考える事から逃げてたら駄目だよ。いつまでたっても解決しないよ」
「時間が、解決してくれない?」
「ばかっ!」
ゆきが大声で怒ったので、驚いた。
「いつから理子ちゃんは、そんなに情けなくなっちゃったの?考える事を止めて時間の流れにどっぷり任せてる理子ちゃんは楽でいいよね。でも先生は?どうして先生の事をもっと考えてあげないの?先生だって苦しんでるんじゃないの?愛する人を苦しめたままでいいわけ?」
理子の胸が痛んだ。
ゆきは泣いていた。ポロポロと涙をこぼしていた。
「ゆきちゃん、どうして泣くの?」
「だって、…あまりにも悲しいんだもん。悔しいんだもん」
「ゆきちゃん…」
「誰にも言えない辛い恋をしてきて、やっと一緒になれたって言うのに。どうして、そんなに簡単にサヨナラできちゃうの?あんなに、お互いに信じあってたじゃない。愛し合ってたじゃない。今だってまだ愛してるんじゃない。なのに、どうして…」
ゆきはそう言うと、マンションを後にした。
残された理子も、泣いていた。