第3話

文字数 3,978文字

 理子は久しぶりに学校に来て、懐かしさを感じた。まだ、卒業して三週間と少しなのに。夏休みのような長い休みの後の時と比べたら、どうって事の無い時間なのに、何故こんなにも懐かしく思うのだろう。この学び舎で再び学ぶ事は無いと分かっているからなのだろうか。

 電車とバスを使って来た。雅臣が毎日通っている経路である。
 距離も時間も大したことは無いが、二回乗り換える事に不便さを感じた。
 この先どこへ異動になるかはわからないが、なるべく煩雑な経路では無い事を祈るばかりだ。

 昨日が終業式だった事もあり、校内は静かだった。運動部の部活の声だけが響いている。職員玄関で履物を変え、理子は真っすぐに職員室へと向かった。とても緊張する。

 ふと、足が職員室の手前にある校長室の前で止まった。ドアをノックしてみたら、中から「どうぞ」と声がかかった。理子はそっとドアを開き、中を窺うように入室すると、校長が顔を上げて理子を確認した。

「おや、君は、吉住さん」

「こんにちは。在学中は大変お世話になりました。今日は、ご挨拶に伺わせてもらいました」

 少し緊張した面持ちで丁寧に頭を下げる。

「ああ、そう言えば、そうでしたね。話しは聞いていますよ。もう、職員室へは?」

「いえ、まだなんです。先に校長先生にご挨拶をと思いまして」

「そうですか。わざわざありがとう。それから東大、合格おめでとう。本当によく頑張りましたね」

「ありがとうございます。校長先生の励ましや、先生方のバックアップがあったからです。それから、結婚の事も、色々とご心配や励ましを頂いて、本当に感謝しています」

 理子の言葉に、校長は顔を和ませた。

「そうだ。結婚の方も、おめでとう。お祝い事が二つも重なりましたね。しかも、どちらも人生最大の節目です。これから大変でしょうが、勉学も家庭も、どちらも頑張って、充実した人生を送ってください」

 理子は校長に温かい言葉を貰って、胸が一杯になった。
 本当に、優しい校長だ。

 そんな校長に、理子は改まった表情になった。

「校長先生」

「なんですか?」

「あの、これからも蒔田をよろしくお願いします。あの人はこれまで一生懸命頑張ってきました。とても真面目で誠実な人なんです。私と結婚した事で、色々と風当たりがきつくなる事もあるかとは思いますが、どうか…」

 理子は言葉に詰まった。
 理子の立場で校長にお願いするのは分を弁えない行為なのかもしれないが、雅臣の将来が今更ながらに身につまされるのだ。
 校長はそんな理子に優しく微笑みを向けた。

「心配しなくても大丈夫ですよ。私は蒔田先生を高く買っています。あの先生が真面目で誠実である事は、私も既によく知っています。君との事を聞いた時には本当にとても驚きましたが、真剣なのが伝わってきて逆に安心しました。真剣に人を愛すると言う事は、とても価値のある事です。単に浮ついた恋愛だったら、私は許さなかったでしょう。君もまた、蒔田先生を真剣に愛しているのだね。こうやって彼を心配して、私に彼の事を頼んでいる。まだ十八の君が。私は二人の事を応援するよ。だから、安心しなさい」

「ありがとうございます」

 改めて、校長は人格者だと思った。
 これまでも、何かにつけて優しい校長だと思ってきたが、ここまでの思いやりを示してくれる事に、感謝の念が湧いてくる。雅臣が校長の期待に一生懸命応えようと思うのも道理だ。この人の(もと)なら安心だ。

「職員室まで、一緒に行きましょうか。一人だと心細いでしょう」

 校長の言葉に、理子はホッとした。本当に一人で心細かったからだ。どんな顔をして行けば良いのかわからないし、また、どう声をかけて良いものやら悩んでいたのだった。

 理子は校長の後に続いた。やはり、ドキドキと緊張する。
 校長は職員室に入るなり、
「皆さん、お待ちかねのミセス蒔田のご登場ですよ」と言った。

 理子はその言葉に赤面したが、校長に促されて職員室へ入った途端、いつものポーカーフェイスになった。習慣かもしれない。

「こんにちは。在学中はお世話になりました」

 教師達に向かって臆面も無く挨拶した。雅臣の顔はいつものように見ない。

「よう、理子!東大合格と結婚、おめでとう!」

 諸星から声がかかった。

「ありがとうございます。今日は折角なので、合格証書を持ってきました」

 理子はそう言うと、鞄の中から合格証書を出し、先生達に渡した。教師達は感動の目でそれを見ては廻した。

「吉住さん、結婚おめでとう」

 柳沢教諭が優しい笑みを浮かべて寄ってきた。

「先生、ありがとうございます」

 理子は礼を言う。

「あっ、指輪、見せてくれない?」

 そう言われたので、手を出した。

「ほらほら、みんな、同じ指輪よ」

 嬉々とした顔を周囲の教師達に向けた。多くの教師達が理子の周囲に群がった。

「おお、本当だ。蒔田先生と同じだ」

 当たり前の事を感動したように言う。

「おめでとう、理子君」

 石坂が声をかけてきた。理子の為に喜びながらも寂しさを拭えない、そんな表情をしていた。

「君はやっぱり、蒔田先生が好きだったんだね」

「すみません、隠してて」

 理子の言葉に石坂は首を振った。

「いや、それはしょうがない。当然の事だよ」

 弱弱しげな微笑みを浮かべている。そんな石坂に、諸星が言う。

「石坂先生は、回りくどいから駄目なんだよ。想いがあるなら、もっとストレートにいかなきゃ。なぁ?理子」

 理子は諸星の言葉に苦笑した。ストレートに来られても、それはそれで困る。

「諸星先生、それはどういう意味なんですか?」

 熊田が訊ねた。

「熊田先生。君も普段飄々としていて、何を考えているか周囲にはわかりにくいから言っておくが、好きなら好きと、しっかり伝えなきゃ駄目って事だ。回りくどい事をしていると、他のヤツにかっさらわれるんだよ。よく肝に銘じて置きたまえ」

 諸星はそう言うと豪快に笑った。他の教師達は呆気に取られている。
 諸星の言う事はわかるが、相手は女生徒だ。しかも石坂や諸星は妻帯者だ。女生徒相手に好きだなんて、許されない事だろう。
 そんな周囲の空気を悟った諸星が言った。

「君達。愛の前では全ては無効だ。全てを無効にしても良い覚悟があってこそ、愛を語れるのだ。その覚悟が無いものは、女生徒相手に愛を語ってはいけない」

 諸星の真面目な言い様に、理子は思わずプッと噴き出してしまった。

「なんだ、理子。なんで笑うんだ」

「だって先生が、真面目な顔をして愛について語られるんですもの。可笑しくて、笑わないではいられないじゃないですか。さすが国語教師、キザな事をおっしゃるんですね、その顔で」

 そう言って理子がゲラゲラ笑うと、周囲の教師達も一斉に笑いだした。

「おい、コラ!笑うな。それに失礼だろう、その物言いは。おい、蒔田先生、どうにかしてくれ」

 諸星が雅臣に水を向けた。

「いやぁ~、僕にはどうにも。いつも、そんな調子なんで」

 雅臣の言い方は、まるで他人事のようだった。理子はと言えば、相変わらず、雅臣の方を見ない。

「理子お前、いつもそんなに生意気なのか」

「そのようですね」

 理子はにっこりと笑った。

「ええーと、確か、一年の時の担任は熊田先生だったな。こいつ、最初からこんなに生意気だったのか?」

 たじたじした様子で熊田に訊ねる。
 熊田はにやけた表情で、「最初から、そんな感じでしたかねぇ」と答えた。

「諸星先生が、みんながビックリするような事をおっしゃるからですよ」

 理子はそう言って笑った。

「俺は、真実を語ったまでだぞ。これまで蒔田先生に大切にされてきたんだろうが、少し、教育し直してもらった方がいいぞ」

「教育だなんて。私はもう生徒じゃないんですよ~。結婚したら立場は対等です」

 理子の言葉に職員室内は「おぉ~」とどよめいた。

「おい、蒔田先生、こんな事を言ってるぞ。いいのか、言わせておいて」

 諸星の言葉に、「いいんですよ」と雅臣は平然と言う。

「そうか。じゃぁな、理子。新婚生活はどうだ。楽しいか?」

 にやりと笑う。攻める角度を変えて来たようだ。

「新婚生活は忙しいです」

 理子は顔色も変えずにそう言った。

「忙しいって言うのは、どういう事だ?」

「戸籍や住所が変わったので、あちこちへ変更届けを出しに行ったり、勉強や家事に追われて大変です。受験勉強から解放された事くらいでしょうか、嬉しいのは」

「おいおい、蒔田先生との二人の時間はどうなんだ。折角一緒になれたんだから、さぞや楽しいだろうよ」

 横から柳沢が「諸星先生…」と軽くいなすが、諸星は気にしない。他の教師達の様子をそれとなく窺うと、みんな顔色は変えないながらも、興味津々といった顔をしているのが理子にはわかった。

「楽しいですよ。でも、結婚したからと言って、いつも一緒に
いられるわけじゃないし、つまらないですよね~」

 そう普通に答えた。

「夜の生活はどうなんだ」

「諸星先生、本当にストレートな人ですね」

 理子に笑顔でそう言われて、諸星の方が僅かに顔を赤らめた。

「諸星先生、そんな事を若い女の子に訊くなんて、幾らなんでもデリカシーが無さ過ぎです」

 柳沢が頬を引き攣らせている。確かに、相手が理子ではなくても、そういう事をあけすけに訊くものではないだろう。しかも、大勢の教師達の前で。

「諸星先生にデリカシーが無いのは、既に承知してますから、私は全然平気ですよ。なんせ、ご自分でご自分の事をジジイとおっしゃるくらいですし、恥じらいと言う恥じらいの全てを、落としてきちゃってるんじゃないですか?」

「お前、何て事を言うんだ」

 諸星が目を剥いた。だが理子は、そんな諸星を笑って仰ぐ。
 そのピュアな笑顔に諸星はたじろぐのだった。

「君さ」

 突然、地理の川上が口を挟んで来た。三十代で、スラッとした長身で細身の、人気の教師だが、妻帯者である。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み