闇暦三〇年──。
ダルムシュタッドの境界線に、不穏な敵意が構えていた。
陣取る軍勢から
生気が感受出来ないのは、はたして
自我が欠落しているからであろう。
かといって〈デッド〉でない。
それは戦旗の紋章を見れば、容易に看破可能だ。
自らの尾を
銜えた円環体勢の蛇は〈ウロボロス〉と呼ばれる意匠──〝再生と破滅〟の
暗喩であると同時に〝真理探究〟の象徴として〈錬金術師〉達から崇められているシンボルであった。その背景に描かれているのは、一輪の薔薇の花。
「クリスチャン・ローゼンクロイツと、その軍勢〈
薔薇十字団〉か」
領主〈
冥女帝〉は、金網越しの外敵を見据えて呟いた。
「どう見ます? 敵戦力は?」
並び立つ側近・
戦乙女が
訊ねる。
自軍の兵力を改めて見渡せば〈
冥骸戦士〉や〈
冥府魔犬〉といった魔物の軍勢。総て〈
冥女帝〉の権限によって使役されし者達だが、見た目の
禍々しさには〈神界の戦士〉として
気後れするしかない。
ヘルが分析を紡ぐ。
「敵兵は〈
人造生命体〉──個々の能力的には敵で無いにせよ、
如何せん数は多いな」
「それ以前に、ゾッとしませんよ……あの顔は」
「〈
悪神〉でない分、
マシであろう?」
並ぶ兵士は、総て見知った顔であった。
サン・ジェルマン伯爵──ハリー・クラーヴァル──ヨハン・コンラッド・ディッペル──はてさて、どう呼ぼうか──ブリュンヒルドは淡い苦笑に美貌を伏せる。
敵陣の中で見知った
醜怪を見つけた。
せむし男だ。
「どうやら
アレの手引きらしいな」
「通じていた?」
「いいや、その場その場の日寄見に取り入っただけであろう。本当に〝
人間〟というものは……」
卑しくも逞しい。
もはや
憤りも憐れみも涌かない。
ただ
苦笑いに
呆れるだけだ。
やがて敵兵の陣形が左右に割れ、モーゼの
如く渡る姿が現れた。
赤い
長外套を
纏った
長髭の怪老だ。
とは言え遠目にも判るが、
ガタイは引き締まった筋肉質に屈強である。
その物々しい重鎮さから
何者かは察せた。
だから〈
領主〉も席を立つ。
金網越しに対峙する両者。
太い鷲鼻に、深く沈んだ攻撃的な
慧眼。
繁る
髭や眉に埋もれた顔立ちのせいか、
恰も
梟を
想起させる
猛禽的な心象であった。
老齢には不自然な
程隆々と引き締まった肉体は、はたして魔導実験の恩恵であろうか。
「貴様が、この街の〈領主〉か?」
重々しい低音が
訊ねる。
「
如何にも」
黒き聡明は臆する事も無く真っ向から答えた。
「ヨハン・コンラッド・ディッペル──いや、
サン・
ジェルマンが遺したという『Fの書』とやらは何処だ」
「もはや焚書だ。現存せぬ」
「そうか……ならば、
もうひとつの目的だけは遂行しておくとしようか」
赤き
長外套を
翻し、老賢者が猛り名乗る!
「
我こそは〈
薔薇十字団〉総帥〝クリスチャン・ローゼンクロイツ〟
也!
此度〈錬金術〉の威光を
以て、この地〈ダルムシュタッド〉を我が〈領地〉と
下そうぞ!」
「〈
錬金術〉……か」
憂いた自嘲を染める
冥女帝。
──やがて〈科学〉は〈神〉さえも
凌駕する。
幾度となく聞いた言葉だ。
それは先の内戦に
於いて、身に染みた立証でもあった。
だが……はたして
下されるのは〈神〉だけであろうか?
勢い止まらぬ
うねりは悲劇を
孕む
怒濤と化して、総てを呑み潰すのではあるまいか?
その使役主たる〝
人間〟でさえも……。
落とし児たる〈
娘〉を
想起すると、そう思うのだ……。
開戦直前の
邂逅を終えると、
領主は自陣へと戻って来た。
視線のみで出迎えたブリュンヒルドが
訊う。
「今日の
予定は?」
「ブレッド
家のアルフレッド老人だ」
「パン屋の?」
「ああ」
「残念ですね……職人技だっただけに」
「死期到来までは、まだ日が在る。それまでには馳走になろうか」
乾いた
微笑を交わす二人。
実のところ、領民達は長らく誤解していた。
領主〈
冥女帝〉の
糧は〈死〉ではない。それでは〈
怪物〉だ。
彼女の
糧は〈畏敬〉である。
それこそ〈神〉らしい
糧だ。
ヘルが選定した対象は、常に〝死期の運命が近付いた者〟だけである。
そうした領民を城へと招き、手厚くもてなし、心穏やかに逝けるように計らっていたに過ぎない。それこそ、現世に思い残す事が無いように……。
無論、悪徳の
類もいたが、そうした連中でさえ死期が近付くに連れて
憐れなほど
怯え、
己の半生を嘆き悔いた。
〈
死〉という支配力には万人が無力であった。
だから、
彼女は慈悲による改心を免罪符と授け、安楽なる〈
死〉を約束した。
そうした
経緯があればこそ、逝く者は皆、最期の最期には〈
冥女帝〉へと感謝の念を
抱くのだ。
その
想いこそが、ヘルの
糧なのである。
心優しい女神──。
人間に情愛を注げる人外──。
そして、理不尽にも忌避される存在────。
そうした意味では、彼女もまた〈
娘〉と同じであったと言えるだろう。
「さて、では私も
役目を果たしますか……」
壮麗の
戦乙女は、
腰鞘から〈
魔剣〉を引き抜いた。
守ろう……
彼女から受け継いだ
守るべきものを!
彼女が焦がれた
この世界を!
その想いあらばこそ、自己への
鼓舞に凛然と名乗るのだ!
「我が名はブリュンヒルド! この〈ダルムシュタッド〉の
守人! 誇り高き〈
戦乙女〉の名に於いて、貴公の悪行を裁く!」
森の奥深くに墓が在る。
ひっそりと人知れずに作られた墓が在る。
小さな墓だ。
墓標は無い。
埋葬されし者に対して
些か窮屈であろうが、
彼女の事を愁えば仕方の無い事だ。
下手に目立っては、また街人達から迫害の憂き目に遭う。
死んでからも忌まれては、それこそ哀し過ぎるというもの。
だから、ブリュンヒルドとヘルは、質素極まりない簡易的な墓地とした。
せめてもの手向けは、慕っていた老人の家から近くに定めたという事か。
心ばかりの野摘みが献花に置かれていた。
まだ
然程の時間は経ってはいない。
墓前に残る小さな足跡から
誰かは判る。
参拝者は限られていた。
幼女と戦士と女神だけだ。
他にはいない。
それでも動物達は
何かを感受するのか、まるで水飲み場へ憩うかのように日々数匹が集っていた。
だから、寂しくはないだろう。
ポツリポツリと雨粒が降ってきた。
次第に、それは情景演出と化ける。
泥濘みを生む煙雨は、周囲から生命の気配を退かせた。
そんな閑寂とした墓を、黄色い単眼は見定めていた。
闇暦世界を眺めると同時に、この地も確実に見定めていた。
長い月日を飽きる事なく……。
基より〝年〟も〝月〟も無い。
コイツにしてみれば〝一瞬〟だ。
──惜しい。
ようやくにして意志が
蠢いた。
──失うには惜しい。
あの〈
娘〉は、間違いなく唯一無二だ。
なればこそ、惜しい。
人間にとっても──
怪物にとっても──そして〈
神〉にとっても
異端な存在。
忌避される存在──。
疎まれるべき存在────。
小奴は
如何なる
混沌を生むのであろうか?
──嗚呼、実に惜しい。
欲望への陶酔に黄色い単眼が歪む。
それは先見に描く
戦乱への喜悦であろうか。
そして〈
黒月〉は決断した。
雷鳴が轟く!
稲光が柱と叩き落ちる!
ただの落雷ではない!
それは〈
黒月〉自身が放つ比類無き
魔雷だ!
魔王から覚醒の鞭打ちを受け、
生命の拳が大地を砕き割った!
高々と凱旋を猛るかの如く!
「ォォォオオオオオーーーーーーッ! ウォォォォォオオオオオオオオオオーーーーーーッ!」
絡み濡れる黒髪を振り乱し、奇怪なる
醜美は吼える!
雷天へ向けた産声を!
憐れな〈
娘〉……。
死ねない〈
娘〉……。
果てぬ地獄を生き抜く
宿命を課せられた〈
娘〉…………。
彼女の名は──────。
[完]