先代領主〈
冥女帝〉──北欧冥界を
統べる女神にして、悪神ロキの娘。
その
禍々しい肩書に反して、理知的な美貌を刻む女神であった。
背高くも細身な肢体は、冥界属性も頷けるほど霊的に色白い。
細面には鼻筋が薄く通り、伏せ気味な
眼差しは世を
儚むような
愁いを宿している。
常に
後れ
毛が零れる黒髪は地に届くほど長く、身に
纏う
黒色のロングドレスと
相俟って、喪に服する亡者と錯覚させた。
自然摂理に反した〈
完璧なる軍隊〉に敗退して以降、敵本拠地にて幽閉処遇の
虜囚と化した日々が続く。
「科学……か」
重金属で囲われた房で
独り呟いた。
四方5メートル弱の閑散とした部屋だ。
取り囲む鉄壁は無表情で、
鬱積を
逸らせてくれる叙情など何も無い。ただ
白銀に似せた輝きを照り返すだけだ。
「
然れど、
如何に似せたところで、この光沢に
滲み浮かぶ重厚さを隠し通す事など叶わぬ。この金属が追求した性質は〝美しさ〟よりも〝頑強さ〟だ」
石工知識に
疎いヘルとて、その程度は感受できる──〈チタン合金〉という呼称は知らなかったが。
室内を見渡すも、在るのは
己が腰掛けるベッドのみ。壁際に設置された
それもまた鋼の房室に
相応しく、温もりが感じられない代物であった。マットレス
云々の話ではない。同金属による簡素な造りは、飾り気も
人の手も感じられない〝淡白な鉄台〟でしかなかった。横たわるだけで
侘しくなる。
「確かに鉄尽くしの牢獄は、
我が身の幽閉に合理的か」
虚しく自嘲を
携えた。
総ての〈怪物〉に適応される法則ではないが、民間伝承的に〈魔〉は〈鉄〉に弱いと伝えられる。
殊に〈悪魔〉は、そうだ。
欧州圏に
於いて
蹄鉄を〝魔除け〟として玄関扉へと飾る風習は、これに由来する。
そもそも、この退魔法則は『キリスト教』によってもたらされた。
そして『キリスト教』が定義する〈悪魔〉には、土着神属も含まれている──〈
魔神〉と
括られている存在が
それだ。
「なればこそ〈北欧神〉の一角を
担う
我が、その法則に組み敷かれるのも当然か。
況してや、
我は〈
冥女帝〉──死者の世界を
統べる女神──その性質は、極力〈魔〉に近い」
ヘルは
倦怠感ながらに立ち上がると、房室の境界へと歩き進んだ。
鉄格子は無い。
奥まった暗がりまで見通しよく通路が延びている。
にも
拘わらず、彼女は逃亡を
試みない。
無駄だからだ。
幾度となく試した。
半歩近付くと、まるで
牽制するかのようにエネルギー
奔流が小踊りを見せた。
「
賢しいな」
確かに
鉄格子こそ無い。
しかし、不可視なる障壁が、
そこには在った。
「魔術結界にも似た強力な
力場──確か、人間共は『
霊子バリア』とか呼んだか」
「ほう? 少しは学習したようだな?」
不意に反響した声に、彼女は鎮静化していた警戒心を
露にする!
反響する硬い靴音は、やはり
怨敵であった!
「……ウォルフガング・ゲルハルト!」
押し殺す歯噛みに
睨み
据える!
二名の
科学武装兵士を護衛と
従え、新領主は旧領主と対面した。
「逃亡は不可能。貴様の能力も封じてある。かつては、この地に領主として君臨した〈冥女帝〉も堕ちたものだな」
「……ならば、
一思いに殺すがいい。
斯様な
辱しめを受けてまで生き長らえようとは思わぬ」
静かに込める
呪怨。
しかしウォルフガングは、それさえも絶対的優位に
蔑笑する。
「フン、貴様に生死の選択権は無い! それは
私が決める事だ!」
顎で背後の護衛兵へと指示を出す。
兵士が差し出したのは、
一枚の写真であった。交戦データとして記録した物だ。
それをヘルに見せ、ウォルフガングは
訊う。
「
コイツに見覚えは無いか?」
ヘルは
一瞥に済ませるも、それだけで〝異質な存在〟だと認識した。
電光を
呑み
纏う黒髪の大女──
一見には荒々しく粗暴に見えたが、かといって彼女にしてみれば嫌悪を
抱かせる下卑な印象には無い。むしろ繊細な顔立ちのせいか、知性的にも感じられた。
だが、全身を刻む
縫合痕は何だというのだ?
少なくとも〝人間〟でない事は明らかだった。
何よりも──これは〈冥女帝〉たるヘルだからこそ看破出来るのであるが──〝
生者 〟とも〝死者〟とも取れない不確定な雰囲気を
醸している。
初めて見る〈怪物〉であった。
「知っているか?」
ウォルフガングが、強く
問い
質す。
「……いいや」
ヘルは
醒めて答えた。
「嘘ではなかろうな?」
「つく意味が無い」
背後の兵士へと黙視で確認を
促すウォルフガング。
ややあってから、兵士は無言の頷きで肯定した。
心拍数──発汗成分──瞳孔の動き──微々たる表情の変化────どれひとつ取っても、計測データからは『嘘』の要素は検出されない。
「フン、無駄足か……まあ、いい」
踵を返す軍服の背を、ヘルが呼び止める。
「待て、その者が何だというのだ?」
「貴様が知る必要は無い」
語気に押し殺した
苛立ち。
それを感受して、虜囚は含み笑った。
「ク……フフフフフ…………」
「何だ? 何が
可笑しい!」
「さては、貴様に
仇為す者が現れたな?」
「何だと!」
ギョロリとした
睨み返しが、ヘルに確信を
抱かせる。
「図星か」
「黙れ!」
拘束の際に課せられた〝機械の腕輪〟から激しい電流がほとばしる!
不可視の
棘が、全身を
貫いた!
「うあぁぁぁーーーーっ!」
「たかだか神話時代の偶像
如きが! 調子に乗るな!」
懲罰だ!
独裁者による独裁者の
為の懲罰である!
「ハァ……ハァ……」
「いいか! 貴様を生かしてあるのは、まだ
我々に〈魔神〉
級への解析技術が
乏しいからだ! それさえ確立すれば、細胞レベルで切り刻んでやる! それまでの余生……せいぜい、いまの内に噛み締めておけ!」
「ハァ……ハァ……フフフ……ウォルフガングよ、ひとつ警告しておいてやろう。
我にも素性が判らぬ〈怪物〉が現れたのだ。そいつが、こうして牙を
剥く……貴様が心酔する〈科学〉とやらにも臆する事無くな。やがて、貴様の支配は瓦解するだろう──蟻の穴から堤防が決壊するように。
我が〈科学〉なる未知に下されたのと同じように、貴様自身もまた
未知によって下されるのだ。
努々忘れるなよ」
「貴様ァァァッ!」
「うあああぁぁぁーーーーっ!」
ウォルフガングの憤怒が電罰へと憑依する!
それまでよりも増した電圧だ!
だが、鋭く
蝕む痛みに悶えながらも、ヘルは
歓びを得ていた──「この
唾棄すべき
下郎へと
一矢報いる者が、ようやく現れたのだ」と。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
ウォルフガングが去ってから、ややあって電刑は
鎮まった。
苦しみ
跪いたヘルは、
脂汗を拭いつつも思索を巡らせる。
(それにしても、あの女怪は何者だ? 容姿こそ〝人間〟に酷似していたが……その残酷なほど
醜い容姿は明らかに異なる。かといって〈怪物〉と呼ぶには、滲み出る妖気が稀薄過ぎる)
生者でもなければ、死者でもない……。
人間でもなければ、怪物でもない……。
あまりにも不確定で未知な
異質だ。
(
否、そもそも〈怪物〉というのは、そういう存在か……)
人智
及ばぬ怪異の具象こそ〈怪物〉──。
既存知識で理解出来ぬ不可解な存在こそが〈怪物〉────。
なれば、あの〈
娘〉こそ、真正の〈怪物〉やもしれない。
「よお、久しぶりだな……
我が娘よ」
不意に男の声が聞こえた。
固い涼気が反響させる声質は、
耳心地良く男臭い。
聞き覚えのある声に、ヘルは顔を上げた。
通路の奥まった暗がりから、コツリコツリと靴音が近付いて来る。
やがて浮かび上がった姿は、若くも粗野な印象の男──。
「……父上」
久しい再会に実の娘が向けた目は、しかし喜んではいない。
「ヒャーッハッハッ! 〈冥女帝〉とも呼ばれたオマエが、ずいぶんとゴキゲンなトコへ住んでるじゃねぇか? ええ?」
後ろへと流した蒼い長髪を
手櫛で
鋤き、ロキは周囲を眺め回した嘲笑へと溺れる。
その品性無き挙動は
棄て
措いて、ヘルは立ち上がり面と向かった。
「……
主神の〈
神力〉によって、
何処かへと幽閉されていたのでは?」
「ハッ! ダークエーテルが
蔓延した
闇暦世界で、クソジジイの拘束なんざ維持されるかよ」軽く肩を
竦めて
嘲た。「おまけに、
アイツが〈
神力〉を
遮ってくれている……いい時代だぜ」
「
黒月……ですか」
天井を仰ぐ
悪神が見据えているのは、間違いなく天空に居座る
闇暦支配者だ──ヘルは、そう察する。
「それで? 私に
何用で?」
「……出してやろうか?」
「何ですと?」
「だからよぉ、出してやるって言ってんだよ」
懐から取り出した
煙草を蒸かし、
悪神は
娘を見据えた。
「対価は何です?」
「ほう? 呑み込みが早いじゃねぇか?」
「
貴方が無償で動くはずもありませんから」
「ヘッ……実の娘のクセに、寂しい事言うねぇ?」
空々しく
おどけを飾りながらも、続け様に向けた正視は秘めたる野心を
彩る。
紫煙越しに覗く瞳は〝情〟ではなく〝交渉〟だ。
「オマエの
力を貸せ」
「
何故に?」
「……〝
神魔狼〟を解き放つ」
「ッ!」
慄然と息を呑む!
神魔狼〈フェンリル〉──北欧神話きっての〈大怪物〉!
主神によって予言された〈
神々の黄昏〉に
於いては、他ならぬ
彼自身と相討ちになるとまで伝えられた強大な怪物だ。
「
神魔狼を解き放ち、何を
為さろうというのです?
アレが復活すれば、この世界に多大な犠牲を産み落とす事となるは明白!」
「オイオイ?
実の兄貴を
アレ呼ばわりかよ? 偉くなったもんじゃねぇか! ヒャハハハハッ!」
嘲笑いに溺れる
悪神の様を、
疎ましさに
睨み
据える。
件の魔獣は、
悪神の息子──
即ち、
彼女の
兄に当たるのだ……。
だからこそ、
忌まわしい。
「やはり
主神への復讐……ですか」
「あん?」
静かなる不快感に、
嘲笑が
止んだ。
「〈
北欧神族〉の宿敵〈霜の巨人〉として生まれながらも〈
主神〉と義兄弟の関係に在った
貴方は、〈
北欧神族〉の一員として迎え入れられた。にも
拘わらず
貴方は、悪意のままに神々を撹乱し続ける──その最たる悪行が『
光神殺害』の罪。
故に
主神の怒りを買い、永きに渡って幽閉され続けた。この地上へ
更なる絶望をもたらそうとするのは、その報復──違いますか?」
ロキは
辟易とした態度に耳の穴をほじりながら、
苛立つ心境を吐き捨てた。
「ったく、女ってのはベラベラと
邪推を語りたがるぜ。ピーチクパーチクうるせぇモンだ。生憎、オレには〈霜の巨人〉も〈
北欧神族〉も、どうでもいい事なんだよ──もちろん〈オーディン〉のクソジジイもな!」
「では、目的は何です?」
「楽しいからだよ! モラルも信仰も破綻した混沌が楽しいからだ! 希望もクソも無いままくたばる人間共──そいつを
為す
術無く眺めるしかない神々の無力感──最高に愉快じゃねぇかよ! どうせブッ壊れた世界だ! もっともっとド派手にブッ壊しても構やしねぇだろ! 最高にイカれた世界──最高にイカした世界を、オレがプレゼンしてやるよ! ヒャハハハハッ!」
狂喜染みた高笑いに溺れる!
これが
実の父親だと思うと、憐れみに情けなくなった。
さりとも、その忌むべき
血は、彼女の中に脈々と受け継がれているのも事実だ。
彼女にしてみれば
疎ましい呪いだ。
本来ならば、彼女とて
悪神の
下卑たる性格を受け継いで当然であった──兄が、そうであるように。
しかしながら〈冥女帝〉という立場が、彼女の心情に強い変化をもたらしていた。
実の
父親は、その事をまだ悟れない。
「……私は〈冥女帝〉として、数えきれぬほどの〝魂〟と接してきました」
「あん?」
静かに紡ぎ出された娘の吐露に、ロキの陶酔が妨げられる。
「その
有り
様は千差万別……善人もいれば、悪人もいる。ですが、総じて共通するものが
ひとつだけ有る。何か御解りですか?」
「何だってんだ? 唐突によぉ?」
「それは〝生きる事〟です! たったひとつしかない
己の〈
生命〉を大切に感じ、
悦び、
嘆き、怒り、
謳歌する事です! その前には、善人も悪人も無い! 仮に他者の〈
生命〉を軽んじる悪人でさえ、
己の〈
生命〉は
尊ぶのです!」
「……で?」
「私は……〈
生命〉が
愛しい」そう言い残して、
冥女帝は
踵を返した。「御帰り下さい、父上……
如何なる〈
生命〉とて、
享楽のチップと
弄ぶぐらいなら、私は此処で朽ち果てるが本望」
謁見の中断とばかりに黒髪のベールが揺れる──その気高き背中に、
卒爾として浴びせられる怒号!
「テメェの意見なんざ
訊いちゃいねえぇぇぇーーッ!」
ロキが吠えた!
腹の底から絞り出すかのような憤怒で!
「
子供は
親の意見だけ聞いてりゃいいんだ! テメェの信念だのプライドだのは、どうでもいいんだよ! んなモン
糞だ! いいか! テメェを生んでやったのは、このオレだ! オレがいなけりゃ、テメェはこの世に生まれもしなかった! そいつを忘れてエラそうに御託並べやがって……
分をわきまえやがれ!
子供は親の
物に過ぎねぇんだ! その事を忘れんじゃねえ!」
「……ち……父上?」
烈火の如く
喚き散らす
癇癪に、ヘルは
唖然と見つ返すしかなかった。
ロキが内包した激しい気性を
覗かせた事は、神話時代を
遡っても滅多に無い。
神々すら
翻弄する
讒言の策士たる彼は、その性質から
己の本性を看破される事を嫌っていたからだ。
その彼が
我を忘れ、エゴイズムに
凝り
固まった姿を露呈している。
驚くなという方が無理であろう。
一頻り吐き乱れると、ややあってロキは荒げた息を鎮めた。
「ハァハァ……ハァ……判ったな!」
親という立場の威厳だけで、意の
儘に組敷かんとする浅ましい姿──そこに
娘が痛感したのは、決して〝親子〟という名の主従関係でもなければ服従の承諾でもない。
(
嗚呼、同じだ……この
親は──)
湧き出るのは、悲しくも
虚しい感情のみ。
(──あの〝ウォルフガング・ゲルハルト〟と)
それは、人知れず覚悟に定める〝心の決別〟でもあった。