ともだち Chapter.7

文字数 6,723文字


 アンファーレン宅の敷地裏には、木造仕立ての納屋が在る。
 農作業道具や(まき)が収納されているものの、老人自身は盲の(ため)、滅多に訪れる事がなくなった小屋だ。
 そこが〈()〉の寝床になる。
 そして、最近は同居人が一人(ひとり)増えた。
 戦乙女(ヴァルキューレ)だ。
 中央に山積みとなった(わら)が、二人のベッドであった。その量は共有しても余りある。
 一応、アンファーレン老の名誉の為に付記しておく。
 彼は家屋での睡眠を勧めてくれた。
 しかしながら、ブリュンヒルド自身が丁重(ていちょう)に辞退したのだ。
 屋内の造りは御世辞にも広いとは言えず、来客用の個室も無い。
 そんな環境では、否応(いやおう)無く〈()〉と共に居間で〝(うなぎ)寝床(ねどこ)〟状態だ。それでは盲目の老人が歩くにも障害物と成り兼ねない。
 何よりも先客である〈()〉が(かたく)なに拒み続け、納屋での寝起きに従事しているのだから、新参者の自分がぬくぬくと温床に預かるわけにもいくまい。
「野宿よりマシなのですから、贅沢は言えませんね。それにしても……」
 積まれた(わら)へと腰を沈めて、ブリュンヒルドは感慨を漏らす。
 物憂(ものう)い宿す視線の先には、藁束(わらたば)を寝台と整え続ける巨体が在った。
「どうした?」
「あ、いえ」気付かれたばつ(・・)の悪さに、慌てて取り繕う。「意外と柔らかい物だ……と。それに肌触りも、思っていたより不快ではありません」
「うん、(わら)はフカフカ」
「ええ、保温性も思っていたより悪くありません」
(わら)は温かい。冷たい洞窟で寝るよりも温かい」
「……そこまで極端な比較はしていません」
「そうか」
 相変わらずの噛み違いに困惑するも、ブリュンヒルドは会話に含まれていた違和感に気付く。
「え? 洞窟に? そんな場所で野宿した経験があるのですか?」
「うん」無関心に返事をしつつ〈()〉は作業を続けた。「アンファーレンに会う前は、色々な場所で寝た」
「そう……ですか」
「寒かった。そして、固かった」
 いそいそと働く巨体を見つめていると、何故だか(わび)しい感情が込み上げてくる。
 相手は〈怪物〉だというのに……。
(……随分(ずいぶん)と苦労したのでしょうか)
 神界の戦士として禁忌(タブー)とは知りながらも、ブリュンヒルドは〈()〉への同情を抑えられない。
 やがて就寝準備を終えた〈()〉は、真顔を向けて言った。
「ブリュンヒルド、寒かったら言え」
「え?」
「抱っこする。体温、温かい」
「……遠慮しておきます」



 並んで横たわる。
 ジージーと夜虫が鳴き、天井板の(わず)かな隙間が風と月明かりを(さそ)い込んだ。
 倦怠(けんたい)的な疲労感に反して、ブリュンヒルドは寝つけなかった。
 横臥(おうが)()える意識が、物憂(ものう)いを巡らせる。
(下界は、ここまで混沌としていたのですか……)
 完璧なる軍隊(フォルコメン・アルメーコーア)──。
 ウォルフガング・ゲルハルト──。
 アンファーレン老人と、孫娘のマリー──。
 ハリー・クラーヴァル──。
 そして、正体不明の〈()〉────。
 此処数日で、目まぐるしい体験をした。
 脳内整理だけでも一苦労(ひとくろう)だ。
 何よりも日中に体験したばかりの惨劇は、彼女の心に悪夢として刻まれた。
 (あたか)も〈怪物〉としての本性を(さら)け出したかのような〈()〉の姿は……。
(いったい貴女(あなた)は、どちら側(・・・・)なのですか……)
 何故だか寂しさにも似た感情に想う。
 優しく無垢な〈()〉──。
 恐ろしくも忌むべき〈怪物〉──。
 その両極端な側面を知ってしまったが(ゆえ)に、彼女は〝奇怪な隣人〟への心象を持て余すのだ。
(もしも、あの〝殺戮の化身〟が彼女本来の姿だとしたら、私は……私が()すべき事は…………)
 (おのれ)の在り方を自問する。
 さりながら如何(いか)なる選択であろうと、自分自身で決断せねばなるまい。
 闇暦(いま)の彼女は北欧神界(アースガルズ)の助力を断たれ、孤立無援(こりつむえん)の身なのだから……。



 旧暦一九九九年七の月──地上は突如発生した魔界の気〈ダークエーテル〉によって侵食された。
 青い生命の泉は奇病に侵されたかのように黒ずんでいき、甦った死人(しびと)が人々を襲い喰らう──五感を放棄したくなるような阿鼻叫喚(あびきょうかん)が繰り広げられた。
 前代未聞(ぜんだいみもん)地獄絵図(じごくえず)を天界より見ていたブリュンヒルドは、胸が張り裂けんばかりの想いを噛み締める。
(地上が……私の愛する地上が〈魔〉に侵される!)
 それは耐え難いものであった。
 だから、独断に地上へと降り立ったのだ!
 仲間(ヴァルキューレ)達の制止を振り切ってまで……。
 だが、ブリュンヒルドの降臨から数時間後、地上は完全に〝闇の世界〟と変わり果ててしまった。
 新世界の法則と蔓延(まんえん)する魔気(ダークエーテル)は神界との交流を遮蔽(しゃへい)し、絶対的支配者と君臨する黒月(こくげつ)が救世の停滞を(うなが)す。
 そして、闇暦(あんれき)世界が完成した。
 彼女(ひと)りを〝(かご)(とり)〟と堕とし……。
 俗に〈終末の日(アンゴルモア・ハザード)〉と呼ばれる大災厄の体現であった。


 北欧神界(アースガルズ)へと帰る(すべ)を失った。
 (ゆえ)に、流浪(るろう)を続ける。
 さりとも、目的を(いだ)かぬままに彷徨(ほうこう)する事を()しとしていたわけではない。
 主神(オーディン)の加護が地上に及ばぬのならば、(みずか)らが〝加護〟と成れば良い。
 この現世魔界に()いて(なげ)き苦しむ人々を守り、その剣と成りて〈怪物〉達から救えば良い。
 それが、彼女の宛無(あてな)旅路(たびじ)の目的と化した。
 如何(いか)に現世魔界に身を置こうとも、自分は誇り高き〈戦乙女(ヴァルキューレ)〉なのだ──その自覚を(よりどころ)とする現実逃避だと、薄々気付いていながらも……。




 とりとめのない黙想に、どれだけの時間が経過したであろうか。
 やがて背中合わせの巨体が、のそりと身を起こした。
(こんな夜更けに? 何を?)
 ブリュンヒルドは緊迫の中で、寝入(ねい)芝居(しばい)(てっ)する。
 内心は穏やかにない。
 昼間の暴走ぶりが悪夢と想起(そうき)され、彼女の胸中に戦慄と警戒心を呼び起こしたからだ!
(まさか? いえ、やはり(・・・)人知れず悪行を?)
 闇夜を味方した不審な行動が、情に殺していた敵対視の方を傾かせた!
 はたして、それは殺人であろうか?
 はたまた人食いであろうか?
(やはり〈怪物〉は〈怪物(・・)〉! 同情など(いだ)くべき対象ではなかったのです!)
 (みずか)らのアマさを()いた!
 狙いは、盲目の老人?
 いや、もしかしたら、この瞬間に我が身へと襲い来るのやもしれない!
(私は〈戦乙女(ヴァルキューレ)〉……偉大なる主神(オーディン)の戦士! みすみす()られなどしません!)
 高揚が確信を(あお)り、失望が(むな)しさを刻む。
 失望?
 何故?
 相手は〈怪物〉だ。
 この闇暦(あんれき)で人々を支配し、苦しめ、その命すら軽んじる〝神の敵〟だ。
如何(いか)に善良の仮面で擬装(ぎそう)しようとも、所詮(しょせん)は〈怪物〉──ようやく本性を(さら)けだしたに過ぎないだけ!)
 なのに、何故……こうも胸が冷たくも痛い?
 触れれば壊れる繊細な氷細工ように……。
 上体を起こした〈()〉は、(しば)し隣の戦乙女(ヴァルキューレ)の様子を観察していた。
 背中一杯に視線を感じ、鼓動(こどう)が早鐘を打つ!
 が、熟睡(じゅくすい)していると感受したか、ゆっくりと寝床から起き上がった。
 いよいよ来る──ブリュンヒルドが予測するも、その展開は一向に訪れない。
(何故?)
 警戒心を裏切るかのように〈()〉は表へと出て行った。
 両手に軽く分けられる程度の藁束(わらたば)を抱えて……。



 距離は左程(さほど)ではない。
 歩いて一〇分程度の道程(みちのり)だ。
 とはいえ、不確かな獣道(けものみち)しかない悪路は(ある)(にく)い。常人であるならば……だが。
 闇暦(あんれき)特有の暗さは夜闇(よやみ)の祝福によってますます深く染まり、雑木林(ぞうきばやし)魔樹(まじゅ)の森と(しげ)らせていた。
 その中を黙々と進む〈()〉は、追跡に気付いた様子が無い。
 適当な間合いを取って──(ある)いは、樹の陰へと身を隠しながら──ブリュンヒルドは追った。
 無論、鎧装束は装着済みだ。
(一体、何処へ?)
 晴れぬ疑念に洞察する。
 そう、(いま)だ潔白が証明されたわけではない。
 確かに自分を襲いはしなかった。
 アンファーレン老も……。
 さりとも、彼女が悪行を働かぬという立証にはならない。
 尾行は続いた。
 (さら)に一〇分といったところか。
 完全に街からは(はず)れ、領域外となっている。
 足下に泥濘(でいねい)する黒霧(くろきり)が、その立証だ。
 この魔気〈ダークエーテル〉は、人工領域には侵入出来ない。
 ダルムシュタット内部に〈デッド〉が発生しない理由が、それ(・・)だ。
 裏返せば、こうも黒い霧が発生しているという事は、それだけ街から離れたという事でもある。
 いつ〈デッド〉と遭遇してもおかしくない。
 そんな(あや)うい環境で、二人(ふたり)の追跡劇は続いた。
 もっとも(まん)(いち)〈デッド〉に襲われたとしても、両者にとって敵ではないが……。
(例えば、あの(わら)(たば)を種火と使って、山火事を引き起こそうと(たくら)んでいるとしたら? 何よりも、皆が寝静まったこんな夜更(よふ)けに、見計(みはか)らったかのような行動は(あや)し過ぎます!)
 鼓舞(こぶ)めいて、自分へと言い聞かせる。
 相手は狡賢(ずるがしこ)い〈怪物(・・)〉……情に(ほだ)されて気を許しては、姦計(かんけい)を見抜く事など出来ない!
 だが……そうだとしたら、この後ろめたさは何だというのであろうか?
 揺らぐ。
(私は……本当に正しいのでしょうか)
 その自失に注視を()らした一瞬、忽然(こつぜん)として〈()〉が消えた!
「しまった!」
 慌てて〈()〉が居た場所まで駆け出し、周囲を見渡す!
「ど……何処へ?」
 (とどこお)黒霧(くろきり)は視界を(かす)ませ、(おお)(しげ)る樹々が〈()〉の味方と索敵(さくてき)(はば)んだ。



「……た……て……だ……ある……て……」
 (かす)かに聞こえた〈()〉の発声を頼りに、ようやくブリュンヒルドは居場所を突き止めた。
 気取られない程度の距離で、(しげ)みへと隠れて様子を(うかが)う。
 岸壁を行き止まりとする(ひら)けた場所であった。
 周囲は樹々の緑に囲われながらも、そこだけは土肌に禿()げている。
 そこに〈()〉は居た。
 拾った枝を(たきぎ)として(だん)を取り、その前で地面に直接座っている。
 彼女の奥に見えるのは、岩壁を(えぐ)った浅い穴。一見には(ほこら)にも見えた。
 はたして自然に刻まれた物か、はたまた〈()〉が怪力任せに砕いたのか……それは判らない。
 ただ、その中には納屋に劣らずの量で(わら)が積み上げられていた。おそらくコツコツと持って来ていたのだろう。だとしたら、寝床(・・)だ。
 他にも古びた鍋やら斧やらが無造作に放置され、貧しくも荒れた生活臭を演出している。
(隠れ家……なのでしょうか?)
 状況から、そう推測した。
(もしかしたら、此処で人間に反旗を(ひるがえ)す算段を画策しているのかもしれません)
 そんなブリュンヒルドの疑念を知る(よし)もなく、当の〈()〉は焚き火の明かりを頼りとして本に()(ふけ)っていた。
「……た……か……が……の……」
 先程から聞こえてきた意味不明な発声は、どうやらコレの朗読である。
 まだ難解な文面は解読できないようだ。
(いったい何を読んでいるのでしょう? 呪文書(グリモワール)(たぐい)ではなさそうですが……)
 というよりは〝魔術〟などという高等知性的な技能を扱えるとは思えない。
 どちらかといえば〈魔獣〉と同じく〝生態として備わった魔力を行使するタイプ〟だ。
 いや、それ以前に……。
(彼女からは、いわゆる〝魔力〟というものを感じないのですよね……近しい禍々(まがまが)しさは感受するものの…………)
 不思議な感覚であった。
 怪物──魔物──人間為(ひとな)らざる者────そうした存在には間違いない。
 にも(かか)わらず、この〈()〉からは前提条件たる〈魔力〉が感知出来なかったのだ。
「……から……で……」
 奇妙な音読は続く。
(本当に、一体何を?)
 好奇心に突き動かされて身を乗り出す。
 それが抜かり(・・・)であった!
 手前の足場が段差となっている事に気付けず、ブリュンヒルドは滑り落ちる!
「きゃ!」
 短い悲鳴に尻餅をついた!
「いたたたた……!」
 自分の間抜けさに苦笑したくも、(さす)る尻の痛みが涙を誘う。
 と、(みずか)らに(かぶ)さる暗さで、ブリュンヒルドは慄然(りつぜん)とした!
 眼前を見上げれば、白い月明かりを背負った巨躯(きょく)の影が!
「あ……あ……」
 威圧的なシルエットに戦慄する!
 完全に不意を突かれた!
 応戦しようにも万全の状態に無い!
 武器は転げ落ち、腕を伸ばしても届かない位置に有る!
 圧倒的に不利な体勢で発見されてしまった!
「ブリュンヒルド、来た」
「あ……あの……こ……これは……!」
 大きい()がユラリと迫る!
()られる?)
 恐怖に(まぶた)()じ、(すく)身体(からだ)を縮めた!
 しかし──「え?」──彼女の予測を裏切り、大柄な手は優しく頭を()でる。
 その挙動に添えられた言葉は、(おだ)やかな抑揚であった。
「大丈夫。痛いけど痛くない」
「な? 何を?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「い……いえ」
「尻、(さす)ってやる」
「結構です!」



「では、此処は貴女(あなた)新しい家(・・・・)だと?」
「うん」
 パチパチとはぜる()()の前に(すわ)()み、二人は事の真相を語り合った。
「……いずれ出ていくつもりだったのですか? アンファーレン老人の所を?」
「うん」
 膝を(かか)えて(すわ)る〈()〉は、踊る炎を眺めながら答える。
 ブリュンヒルドは、茜の陰影を遊ばせる横顔を見つめ続けた。
 相変わらず感情の機微(きび)は無い。
 だが、物悲しそうにも映るのは、ブリュンヒルド自身が憐れみの念を(いだ)いてしまったせいだろうか。
 不覚にも、この怪物(・・)に……。
「いつまでも居てはいけない。私が居たら迷惑」
「アンファーレン殿は、そんな風に思っていないのでは?」
「うん」
「でしたら、もう少し考えてみては……」
「ダメ。私が居たら、きっと不幸を呼ぶ」
「不幸を?」
 (うれ)いたかのような眼差(まなざ)しで闇空(あんくう)(あお)いだ〈()〉は、胸中に秘めた想いを吐露(とろ)する。
「私は〈怪物(・・)〉だから……」
「ッ!」
「〈怪物(・・)〉は、人間と一緒に居てはダメ。いつか不幸にしてしまう。誰も傷付けたくない」
「あ……貴女(あなた)は……」
 胸が締め付けられた。
 (おのれ)偏見(へんけん)()じた。
 どこまでも無垢(むく)で、優しく、寂しい〈()〉……。
 どこまでも憐れな〈()〉……。
 ブリュンヒルドは初めて知った。
 こんな〈怪物〉もいるのだ……と。
 ふと(われ)へ返ると、こちらをジッと見つめる〈()〉の視線に気付く。
「な……何です?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「え?」
「泣いている」
 指摘されて、ようやく自覚した。
 自分の頬を(つた)(しずく)に……。
「い……いえ、これは……目にゴミが……」
 ばつ悪く指で(ぬぐ)い、(つと)めて明るく話題を転化する。
「ところで、先程、本を読んでいらっしゃいましたね?」
「うん」
 素直に(うなず)く〈()〉は、外套(がいとう)の中から対象物を取り出した。
 それは〝本〟ではなく〝手帳〟だ。
 革製の表紙で装丁されているものの、年季からか(いささ)かボロボロになりつつある。
「城から持ってきた」
「城?」
 怪訝(けげん)鸚鵡(おうむ)(がえ)しを(くち)にしたものの、ブリュンヒルドはそれ以上追求しなかった。
 一応、彼女が以前に居た生活環境だと察しはつく。
「これで言葉を勉強してる」
「言葉を?」
「うん」
 預かった手帳を開いてみる。
「こ……これは!」
 閲覧して、すぐさまゾッとした!
 魔術書(グリモワール)ではない。
 しかし、もっとおぞましい代物(しろもの)だ!
 身の毛がよだつ()まわしい書物だ!
 (すう)(ページ)(めく)っただけで、不快な吐き気すら(もよお)す!
 人間を部位解剖した()()に、事細かな注釈が殴り書かれていた!
 (ぜん)(ページ)が、それ(・・)だ!
「これは……これは!」
 悪夢に魅入(みい)られたかのように、ブリュンヒルドは荒く読み進める!
 筋肉の解剖図──眼球の断面図──神経組織の展開図──そして、脳の解体図!
「これはこれはこれはこれは!」
 記述(きじゅつ)されていたのは、狂気ともいえる手記!
 外道(げどう)(きわ)まりない人体実験の記録(・・・・・・・)
「そんな……そんな……そんな!」
「ブリュンヒルド、そんなに面白いか?」
 不意に呼び掛けられ、現実へと呼び戻された。
 途端(とたん)、精気を吸いとられたかのような憔悴感(しょうすいかん)に支配される。
 呆然自失(ぼうぜんじしつ)とした虚脱(きょだつ)の瞳が、憐れな〈()〉を(とら)えるなり(うる)んだ。
「どうした? 悲しいお話だったのか?」
 無垢な好奇心が()を指しているかは理解している。
 ()れど、もはや(ぬぐ)うつもりは無い。
 その(すべ)も無い。
 (ほほ)(つた)う涙を……。
「私も、早く読めるようになりたい」
 未体験の楽しみへと浮かべる微笑(びしょう)
 その愚かしい様に、戦乙女(ヴァルキューレ)は哀しく首を振る。
 そして、心の底から込み上げる激情に突き動かされていた!
 (むく)われぬ魂を……神にさえ見放された魂を抱き締める!
 愛のままに!
 強く!
 力強く!
「ブリュンヒルド、苦しい」
 その胸に(うず)められた頭が、唐突な抱擁(ほうよう)に困惑する。
「この本は……私が預かります! もう……もう絶対に……この本は読まないで下さい!」
 (こら)えきれずに叫んだ!
「ぅ……ぅぅ……ぅぁぁ……」
 噛み殺していた嗚咽(おえつ)()れる。
 汚らわしい無垢なる手が、泣き濡れる頬を優しく()(なだ)めた。
「ブリュンヒルド、大丈夫……痛いけど痛くない」


 如何(いか)なる『魔術書(グリモワール)』よりも、()の『邪神召喚書(ネクロノミコン)』よりも、禍々(まがまが)しき呪われし手記『Fの書』──。


 ブリュンヒルドは理解したのだ……。
 この〈()〉は、死体の繋ぎ合わせ(・・・・・・・・)
 手記に記載されていた()まわしい人体実験の産物!



 黄色く(よど)んだ単眼が見下(みお)ろす夜闇(よやみ)に、無情なる哀しみが痛みを(きざ)んだ。


 それは、決して()には(かえ)せぬ人類(ひと)の大罪であった……。
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登場人物紹介

名前:名前は無い。

   便宜上〈娘〉と呼ばれている。

(NonName/CodeName is〈Daughter〉)


性格:

 朴訥。朴念仁。

 しかしながら、それらは繊細にして博愛的な性格故である。


特徴:

 轟く豪雷から生命を授かったオカルト科学による蘇生死体。

 電気ある限り不滅と言える生命力は、闇暦に於いても稀に見る特性である。

 己のレゾンデートルに苦悩し、それを見極めようと足掻いている。

名前:

 ブリュンヒルド

 (Brunhild)


性格:

 博愛的ながらも気高く勇猛。

 また〈ヴァルキューレ〉としての性質もあってか正義感や義務感も人一倍強い。

 一方で四角四面な愚直さは、時として融通の利かない頑固さへとして現れる。


特徴:

 北欧神話に語り継がれる〈ヴァルキューレ:戦乙女〉。

 主神〝オーディン〟の使徒として〈英雄〉の魂を北欧神界の宮殿〈ヴァルハラ〉へと導く使命に従事していた。

 神話時代の彼女はブズリ王家の王女であったが、壮絶な悲恋の果てに想い人〝英雄シグルズ〟の後を追って自害──ヴァルキューレへと転生した経緯に在る。

名前:

 サン・ジェルマン

 (Saint-Germain)


性格:

 常に沈着冷静で達観的分析観を宿す理知派。

 閑雅な自信にも満ち、実際、それだけの才覚を養っている。


設定:

 史実上にて時代を越えて出没している経歴が真しやかに噂されている怪紳士であり、その特性から〝不死身の男〟とも称される。

 ドイツ・ダルムシュタッドに聳える〈フランケンシュタイン城〉に〝ハリー・クラーヴァル〟の偽名で単身居城しており、主人公たる女性型人造人間〈娘〉を造り上げた創造主。

名前:

 ロキ

 (Loki)



性格:

 邪なる性格に歪んでおり、自己顕示欲と自信が異常に強い。

 突き詰めれば〝幼稚〟とも言えるが、そこに〈神〉としての強大無比さと持ち前の狡猾さが加わっているので、かなり厄介な災厄である。



特徴:

 北欧神話に名高い〈神〉であり、時として善にも悪にも染まる自由奔放なトリックスターとして知られる。

 アース神族の一柱でありながらも、その出生背景は神敵〈霜の巨人〉という特異な背景に在る。


 北欧神話の終末戦争〈神々の黄昏:ラグナロク〉の火種である事から開戦の時まで何処かへと封印され続けていたが、闇暦世界の顕現により確定未来軸までもが変質してしまい独自復活を果たす。

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