アンファーレン宅の敷地裏には、木造仕立ての納屋が在る。
農作業道具や
薪が収納されているものの、老人自身は盲の
為、滅多に訪れる事がなくなった小屋だ。
そこが〈
娘〉の寝床になる。
そして、最近は同居人が
一人増えた。
戦乙女だ。
中央に山積みとなった
藁が、二人のベッドであった。その量は共有しても余りある。
一応、アンファーレン老の名誉の為に付記しておく。
彼は家屋での睡眠を勧めてくれた。
しかしながら、ブリュンヒルド自身が
丁重に辞退したのだ。
屋内の造りは御世辞にも広いとは言えず、来客用の個室も無い。
そんな環境では、
否応無く〈
娘〉と共に居間で〝
鰻の
寝床〟状態だ。それでは盲目の老人が歩くにも障害物と成り兼ねない。
何よりも先客である〈
娘〉が
頑なに拒み続け、納屋での寝起きに従事しているのだから、新参者の自分がぬくぬくと温床に預かるわけにもいくまい。
「野宿よりマシなのですから、贅沢は言えませんね。それにしても……」
積まれた
藁へと腰を沈めて、ブリュンヒルドは感慨を漏らす。
物憂い宿す視線の先には、
藁束を寝台と整え続ける巨体が在った。
「どうした?」
「あ、いえ」気付かれた
ばつの悪さに、慌てて取り繕う。「意外と柔らかい物だ……と。それに肌触りも、思っていたより不快ではありません」
「うん、
藁はフカフカ」
「ええ、保温性も思っていたより悪くありません」
「
藁は温かい。冷たい洞窟で寝るよりも温かい」
「……そこまで極端な比較はしていません」
「そうか」
相変わらずの噛み違いに困惑するも、ブリュンヒルドは会話に含まれていた違和感に気付く。
「え? 洞窟に? そんな場所で野宿した経験があるのですか?」
「うん」無関心に返事をしつつ〈
娘〉は作業を続けた。「アンファーレンに会う前は、色々な場所で寝た」
「そう……ですか」
「寒かった。そして、固かった」
いそいそと働く巨体を見つめていると、何故だか
侘しい感情が込み上げてくる。
相手は〈怪物〉だというのに……。
(……
随分と苦労したのでしょうか)
神界の戦士として
禁忌とは知りながらも、ブリュンヒルドは〈
娘〉への同情を抑えられない。
やがて就寝準備を終えた〈
娘〉は、真顔を向けて言った。
「ブリュンヒルド、寒かったら言え」
「え?」
「抱っこする。体温、温かい」
「……遠慮しておきます」
並んで横たわる。
ジージーと夜虫が鳴き、天井板の
僅かな隙間が風と月明かりを
誘い込んだ。
倦怠的な疲労感に反して、ブリュンヒルドは寝つけなかった。
横臥に
冴える意識が、
物憂いを巡らせる。
(下界は、ここまで混沌としていたのですか……)
完璧なる軍隊──。
ウォルフガング・ゲルハルト──。
アンファーレン老人と、孫娘のマリー──。
ハリー・クラーヴァル──。
そして、正体不明の〈
娘〉────。
此処数日で、目まぐるしい体験をした。
脳内整理だけでも
一苦労だ。
何よりも日中に体験したばかりの惨劇は、彼女の心に悪夢として刻まれた。
恰も〈怪物〉としての本性を
曝け出したかのような〈
娘〉の姿は……。
(いったい
貴女は、
どちら側なのですか……)
何故だか寂しさにも似た感情に想う。
優しく無垢な〈
娘〉──。
恐ろしくも忌むべき〈怪物〉──。
その両極端な側面を知ってしまったが
故に、彼女は〝奇怪な隣人〟への心象を持て余すのだ。
(もしも、あの〝殺戮の化身〟が彼女本来の姿だとしたら、私は……私が
為すべき事は…………)
己の在り方を自問する。
さりながら
如何なる選択であろうと、自分自身で決断せねばなるまい。
闇暦の彼女は
北欧神界の助力を断たれ、
孤立無援の身なのだから……。
旧暦一九九九年七の月──地上は突如発生した魔界の気〈ダークエーテル〉によって侵食された。
青い生命の泉は奇病に侵されたかのように黒ずんでいき、甦った
死人が人々を襲い喰らう──五感を放棄したくなるような
阿鼻叫喚が繰り広げられた。
前代未聞の
地獄絵図を天界より見ていたブリュンヒルドは、胸が張り裂けんばかりの想いを噛み締める。
(地上が……私の愛する地上が〈魔〉に侵される!)
それは耐え難いものであった。
だから、独断に地上へと降り立ったのだ!
仲間達の制止を振り切ってまで……。
だが、ブリュンヒルドの降臨から数時間後、地上は完全に〝闇の世界〟と変わり果ててしまった。
新世界の法則と
蔓延する
魔気は神界との交流を
遮蔽し、絶対的支配者と君臨する
黒月が救世の停滞を
促す。
そして、
闇暦世界が完成した。
彼女
独りを〝
篭の
鳥〟と堕とし……。
俗に〈
終末の日〉と呼ばれる大災厄の体現であった。
北欧神界へと帰る
術を失った。
故に、
流浪を続ける。
さりとも、目的を
抱かぬままに
彷徨する事を
善しとしていたわけではない。
主神の加護が地上に及ばぬのならば、
自らが〝加護〟と成れば良い。
この現世魔界に
於いて
嘆き苦しむ人々を守り、その剣と成りて〈怪物〉達から救えば良い。
それが、彼女の
宛無き
旅路の目的と化した。
如何に現世魔界に身を置こうとも、自分は誇り高き〈
戦乙女〉なのだ──その自覚を
拠とする現実逃避だと、薄々気付いていながらも……。
とりとめのない黙想に、どれだけの時間が経過したであろうか。
やがて背中合わせの巨体が、のそりと身を起こした。
(こんな夜更けに? 何を?)
ブリュンヒルドは緊迫の中で、
寝入る
芝居に
徹する。
内心は穏やかにない。
昼間の暴走ぶりが悪夢と
想起され、彼女の胸中に戦慄と警戒心を呼び起こしたからだ!
(まさか? いえ、
やはり人知れず悪行を?)
闇夜を味方した不審な行動が、情に殺していた敵対視の方を傾かせた!
はたして、それは殺人であろうか?
はたまた人食いであろうか?
(やはり〈怪物〉は〈
怪物〉! 同情など
抱くべき対象ではなかったのです!)
自らのアマさを
悔いた!
狙いは、盲目の老人?
いや、もしかしたら、この瞬間に我が身へと襲い来るのやもしれない!
(私は〈
戦乙女〉……偉大なる
主神の戦士! みすみす
殺られなどしません!)
高揚が確信を
煽り、失望が
虚しさを刻む。
失望?
何故?
相手は〈怪物〉だ。
この
闇暦で人々を支配し、苦しめ、その命すら軽んじる〝神の敵〟だ。
(
如何に善良の仮面で
擬装しようとも、
所詮は〈怪物〉──ようやく本性を
曝けだしたに過ぎないだけ!)
なのに、何故……こうも胸が冷たくも痛い?
触れれば壊れる繊細な氷細工ように……。
上体を起こした〈
娘〉は、
暫し隣の
戦乙女の様子を観察していた。
背中一杯に視線を感じ、
鼓動が早鐘を打つ!
が、
熟睡していると感受したか、ゆっくりと寝床から起き上がった。
いよいよ来る──ブリュンヒルドが予測するも、その展開は一向に訪れない。
(何故?)
警戒心を裏切るかのように〈
娘〉は表へと出て行った。
両手に軽く分けられる程度の
藁束を抱えて……。
距離は
左程ではない。
歩いて一〇分程度の
道程だ。
とはいえ、不確かな
獣道しかない悪路は
歩き
難い。常人であるならば……だが。
闇暦特有の暗さは
夜闇の祝福によってますます深く染まり、
雑木林を
魔樹の森と
繁らせていた。
その中を黙々と進む〈
娘〉は、追跡に気付いた様子が無い。
適当な間合いを取って──
或いは、樹の陰へと身を隠しながら──ブリュンヒルドは追った。
無論、鎧装束は装着済みだ。
(一体、何処へ?)
晴れぬ疑念に洞察する。
そう、
未だ潔白が証明されたわけではない。
確かに自分を襲いはしなかった。
アンファーレン老も……。
さりとも、彼女が悪行を働かぬという立証にはならない。
尾行は続いた。
更に一〇分といったところか。
完全に街からは
外れ、領域外となっている。
足下に
泥濘する
黒霧が、その立証だ。
この魔気〈ダークエーテル〉は、人工領域には侵入出来ない。
ダルムシュタット内部に〈デッド〉が発生しない理由が、
それだ。
裏返せば、こうも黒い霧が発生しているという事は、それだけ街から離れたという事でもある。
いつ〈デッド〉と遭遇してもおかしくない。
そんな
危うい環境で、
二人の追跡劇は続いた。
もっとも
万ヶ
一〈デッド〉に襲われたとしても、両者にとって敵ではないが……。
(例えば、あの
藁束を種火と使って、山火事を引き起こそうと
企んでいるとしたら? 何よりも、皆が寝静まったこんな
夜更けに、
見計らったかのような行動は
怪し過ぎます!)
鼓舞めいて、自分へと言い聞かせる。
相手は
狡賢い〈
怪物〉……情に
絆されて気を許しては、
姦計を見抜く事など出来ない!
だが……そうだとしたら、この後ろめたさは何だというのであろうか?
揺らぐ。
(私は……本当に正しいのでしょうか)
その自失に注視を
逸らした一瞬、
忽然として〈
娘〉が消えた!
「しまった!」
慌てて〈
娘〉が居た場所まで駆け出し、周囲を見渡す!
「ど……何処へ?」
滞る
黒霧は視界を
霞ませ、
覆い
繁る樹々が〈
娘〉の味方と
索敵を
阻んだ。
「……た……て……だ……ある……て……」
微かに聞こえた〈
娘〉の発声を頼りに、ようやくブリュンヒルドは居場所を突き止めた。
気取られない程度の距離で、
繁みへと隠れて様子を
窺う。
岸壁を行き止まりとする
拓けた場所であった。
周囲は樹々の緑に囲われながらも、そこだけは土肌に
禿げている。
そこに〈
娘〉は居た。
拾った枝を
薪として
暖を取り、その前で地面に直接座っている。
彼女の奥に見えるのは、岩壁を
抉った浅い穴。一見には
祠にも見えた。
はたして自然に刻まれた物か、はたまた〈
娘〉が怪力任せに砕いたのか……それは判らない。
ただ、その中には納屋に劣らずの量で
藁が積み上げられていた。おそらくコツコツと持って来ていたのだろう。だとしたら、
寝床だ。
他にも古びた鍋やら斧やらが無造作に放置され、貧しくも荒れた生活臭を演出している。
(隠れ家……なのでしょうか?)
状況から、そう推測した。
(もしかしたら、此処で人間に反旗を
翻す算段を画策しているのかもしれません)
そんなブリュンヒルドの疑念を知る
由もなく、当の〈
娘〉は焚き火の明かりを頼りとして本に
読み
耽っていた。
「……た……か……が……の……」
先程から聞こえてきた意味不明な発声は、どうやらコレの朗読である。
まだ難解な文面は解読できないようだ。
(いったい何を読んでいるのでしょう?
呪文書の
類ではなさそうですが……)
というよりは〝魔術〟などという高等知性的な技能を扱えるとは思えない。
どちらかといえば〈魔獣〉と同じく〝生態として備わった魔力を行使するタイプ〟だ。
いや、それ以前に……。
(彼女からは、いわゆる〝魔力〟というものを感じないのですよね……近しい
禍々しさは感受するものの…………)
不思議な感覚であった。
怪物──魔物──
人間為らざる者────そうした存在には間違いない。
にも
拘わらず、この〈
娘〉からは前提条件たる〈魔力〉が感知出来なかったのだ。
「……から……で……」
奇妙な音読は続く。
(本当に、一体何を?)
好奇心に突き動かされて身を乗り出す。
それが
抜かりであった!
手前の足場が段差となっている事に気付けず、ブリュンヒルドは滑り落ちる!
「きゃ!」
短い悲鳴に尻餅をついた!
「いたたたた……!」
自分の間抜けさに苦笑したくも、
摩る尻の痛みが涙を誘う。
と、
自らに
被さる暗さで、ブリュンヒルドは
慄然とした!
眼前を見上げれば、白い月明かりを背負った
巨躯の影が!
「あ……あ……」
威圧的なシルエットに戦慄する!
完全に不意を突かれた!
応戦しようにも万全の状態に無い!
武器は転げ落ち、腕を伸ばしても届かない位置に有る!
圧倒的に不利な体勢で発見されてしまった!
「ブリュンヒルド、来た」
「あ……あの……こ……これは……!」
大きい
掌がユラリと迫る!
(
殺られる?)
恐怖に
瞼を
綴じ、
竦む
身体を縮めた!
しかし──「え?」──彼女の予測を裏切り、大柄な手は優しく頭を
撫でる。
その挙動に添えられた言葉は、
穏やかな抑揚であった。
「大丈夫。痛いけど痛くない」
「な? 何を?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「い……いえ」
「尻、
摩ってやる」
「結構です!」
「では、此処は
貴女の
新しい家だと?」
「うん」
パチパチとはぜる
焚き
火の前に
座り
込み、二人は事の真相を語り合った。
「……いずれ出ていくつもりだったのですか? アンファーレン老人の所を?」
「うん」
膝を
抱えて
座る〈
娘〉は、踊る炎を眺めながら答える。
ブリュンヒルドは、茜の陰影を遊ばせる横顔を見つめ続けた。
相変わらず感情の
機微は無い。
だが、物悲しそうにも映るのは、ブリュンヒルド自身が憐れみの念を
抱いてしまったせいだろうか。
不覚にも、この
怪物に……。
「いつまでも居てはいけない。私が居たら迷惑」
「アンファーレン殿は、そんな風に思っていないのでは?」
「うん」
「でしたら、もう少し考えてみては……」
「ダメ。私が居たら、きっと不幸を呼ぶ」
「不幸を?」
愁いたかのような
眼差しで
闇空を
仰いだ〈
娘〉は、胸中に秘めた想いを
吐露する。
「私は〈
怪物〉だから……」
「ッ!」
「〈
怪物〉は、人間と一緒に居てはダメ。いつか不幸にしてしまう。誰も傷付けたくない」
「あ……
貴女は……」
胸が締め付けられた。
己の
偏見を
恥じた。
どこまでも
無垢で、優しく、寂しい〈
娘〉……。
どこまでも憐れな〈
娘〉……。
ブリュンヒルドは初めて知った。
こんな〈怪物〉もいるのだ……と。
ふと
我へ返ると、こちらをジッと見つめる〈
娘〉の視線に気付く。
「な……何です?」
「ブリュンヒルド、まだ痛いか?」
「え?」
「泣いている」
指摘されて、ようやく自覚した。
自分の頬を
伝う
雫に……。
「い……いえ、これは……目にゴミが……」
ばつ悪く指で
拭い、
努めて明るく話題を転化する。
「ところで、先程、本を読んでいらっしゃいましたね?」
「うん」
素直に
頷く〈
娘〉は、
外套の中から対象物を取り出した。
それは〝本〟ではなく〝手帳〟だ。
革製の表紙で装丁されているものの、年季からか
些かボロボロになりつつある。
「城から持ってきた」
「城?」
怪訝に
鸚鵡返しを
口にしたものの、ブリュンヒルドはそれ以上追求しなかった。
一応、彼女が以前に居た生活環境だと察しはつく。
「これで言葉を勉強してる」
「言葉を?」
「うん」
預かった手帳を開いてみる。
「こ……これは!」
閲覧して、すぐさまゾッとした!
魔術書ではない。
しかし、もっとおぞましい
代物だ!
身の毛がよだつ
忌まわしい書物だ!
数頁捲っただけで、不快な吐き気すら
催す!
人間を部位解剖した
挿し
絵に、事細かな注釈が殴り書かれていた!
全頁が、
それだ!
「これは……これは!」
悪夢に
魅入られたかのように、ブリュンヒルドは荒く読み進める!
筋肉の解剖図──眼球の断面図──神経組織の展開図──そして、脳の解体図!
「これはこれはこれはこれは!」
記述されていたのは、狂気ともいえる手記!
外道極まりない
人体実験の記録!
「そんな……そんな……そんな!」
「ブリュンヒルド、そんなに面白いか?」
不意に呼び掛けられ、現実へと呼び戻された。
途端、精気を吸いとられたかのような
憔悴感に支配される。
呆然自失とした
虚脱の瞳が、憐れな〈
娘〉を
捉えるなり
潤んだ。
「どうした? 悲しいお話だったのか?」
無垢な好奇心が
何を指しているかは理解している。
然れど、もはや
拭うつもりは無い。
その
術も無い。
頬を
伝う涙を……。
「私も、早く読めるようになりたい」
未体験の楽しみへと浮かべる
微笑。
その愚かしい様に、
戦乙女は哀しく首を振る。
そして、心の底から込み上げる激情に突き動かされていた!
報われぬ魂を……神にさえ見放された魂を抱き締める!
愛のままに!
強く!
力強く!
「ブリュンヒルド、苦しい」
その胸に
埋められた頭が、唐突な
抱擁に困惑する。
「この本は……私が預かります! もう……もう絶対に……この本は読まないで下さい!」
堪えきれずに叫んだ!
「ぅ……ぅぅ……ぅぁぁ……」
噛み殺していた
嗚咽が
漏れる。
汚らわしい無垢なる手が、泣き濡れる頬を優しく
撫で
宥めた。
「ブリュンヒルド、大丈夫……痛いけど痛くない」
如何なる『
魔術書』よりも、
彼の『
邪神召喚書』よりも、
禍々しき呪われし手記『Fの書』──。
ブリュンヒルドは理解したのだ……。
この〈
娘〉は、
死体の繋ぎ合わせ!
手記に記載されていた
忌まわしい人体実験の産物!
黄色く
淀んだ単眼が
見下ろす
夜闇に、無情なる哀しみが痛みを
刻んだ。
それは、決して
無には
還せぬ
人類の大罪であった……。