満身創痍の〈
戦乙女〉を
庇うかのように、〈
娘〉はおおらかな胸へと
抱いた。
ゆっくりと周囲を展望し、状況把握に
努める。
「……何があった?」
静かに低い美声が、誰に言うとでもなく
訊う。
答える者はいない。
「ぅ……ぁぁ……
貴公は? うぅ!」
霞む意識に、ブリュンヒルドが苦悶を
喘いだ。
羽根兜から零れた
銀糸を優しく
撫で
鋤き、〈
娘〉は安心を
促す。
「大丈夫、大丈夫。痛いけど、痛くない」
「ハァハァ……な……何を?」
「母親がこう言うと、子供は〝痛み〟を我慢できる。街の公園で見た。人間は不思議だ」
「……早……く御逃げなさい……
貴公も殺されてしまう……私なんかに構ってはいけない……うぅ!」
「そうか、ありがとう」
「な……何を?」
「心配してくれた」
意思疏通も怪しいままに〈
娘〉はブリュンヒルドを
慰め続けた。
その間抜けた様子に、ウォルフガングが
憤慨を
吠える!
「貴様、何者だ!」
問い掛けに応じるべく、
戦乙女を寝かせて立ち上がった。
「……知らない」
「な……何?」
嘘は言っていない。
素直な返答だ。
事実、これは彼女にとって命題でもあるのだから。
自分が
何者か──フランケンシュタイン城に居た頃から、それだけを追究してきた。
だが、
未だに
答は見えない。
「フン……何処の馬の骨だか知らんが──」
「私には〝馬の骨〟は使われていない。うん、それは確かだ」
「黙れ!」
激昂に
怒気を強める!
別段〈
娘〉は茶化しているわけではない。
ただ無知
故に、
朴訥・
朴念仁なだけだ。
さりながらウォルフガングにしてみれば、
逐一低俗な挑発を返されているようにしか感じられなかった。
常識人の視点からすれば、無理からぬ事ではあるが……。
(それにしても……)
ウォルフガングは持ち前の観察眼で、上から下まで〈
娘〉を
嘗めるように眺めた。
感情に左右されながらも、一方では理知的な分析を
怠らない──彼が
骨髄まで〈科学者〉たる
証である。
(コイツは
何者だ? あの
尋常ではない
縫合痕からして〈怪物〉には違いないだろうが、こんな〈怪物〉は見た事も無いぞ? 別段〈怪物〉に関する雑学を網羅しているわけではないが……)
包囲網の
真っ
只中に居るにも
拘わらず〈
娘〉は焦燥感も動揺も
抱いている様子が無い。ただ無垢な子供のように、周囲の奇異性へと好奇心を向けているだけだ。
「フン……まあ、いい。貴様が
如何なる〈怪物〉だとしても、
我が〈
完璧なる軍隊〉の敵ではない! 不穏分子は排除すればいいだけの事!」
声高に誇示を吐いて、ウォルフガングは右手を挙げた。「コード
V!」
ゴーグル越しの眼が、一斉に不気味な赤を
点す!
悪夢の
再起動!
一転した雰囲気を感じ取り、〈
娘〉は周囲の
科学武装兵士を見渡した。
これから浴びせられる残忍な攻撃を知らぬままに。
「いけない!」
痛みを押して身を動かすブリュンヒルド!
(巻き込んでは、いけない! 無関係な者を巻き込んでは!)
必死な想いで〈
娘〉を射程から突き飛ばす──はずが、その頑強なる
体躯差によって
弾き出されたのは、
自分自身の方であった!
直後、
夥しい
光蛇が〈
娘〉へと
群がる!
「ダメェェェーーーーッ!」
戦乙女の悲痛なる叫び!
射程外へと
免れた彼女の眼前で、
夥しい
光蛇が
贄を呑んだ!
「あ……ああ……そんな……」
結果として救われたのは、またも自分だ。
そして、見ず知らずの彼女を巻き込んだのも自分。
固より〈
戦乙女〉は〝死〟と密接な関係に在る。
勇猛なる戦士の魂を〈英霊〉として〈
北欧神館〉へと迎え入れ、主神〈オーディン〉の戦士として育て上げるのが使命なのだから。
そして、その地に
於いても〈英霊〉達は、日々、
切磋琢磨に
殺しあう。
〈戦乙女〉〈神界の聖戦士〉などと呼べば聞こえはいいが、実質は〈死神〉と
紙一重──血塗られた存在でしかない。
だからこそ、ブリュンヒルドは苦悩してきた。
そんな宿命を
覆そうと
抗い続けてきた。
しかし──「また、私のせいで……」──零れ落ちる
一滴。
自分と関わった者は死ぬ。
かつて神話時代に愛した
英雄──彼を巡った
恋敵──その家系〝ギューキ王家〟──
我が身が
人間であった頃の生家〝ブズリ王家〟──敬愛する兄〝アトリ王〟──総てが〝死の運命〟に取り込まれた。
今度は
彼女だ!
見ず知らずながらも、身を
呈して救ってくれた〝命の恩人〟だ!
「
所詮〈宿命〉を
覆す事など叶わないのですか……オーディンよ……」
深い失望が心を
抉る。
流れる涙のままに顔を伏せた。
酷い断末魔を正視する事など、到底できない。
が、次の瞬間!
「ば……馬鹿な?」
ウォルフガングの驚愕に、ブリュンヒルドは顔を上げた。
眩く激しい
光球の中核──そこに〈
娘〉は生きていた!
喰らいつかんとする
青光の蛇を、
戯れとばかりに
掌で
掬っている。
やがて次第に電光は弱まり、完全に消え失せた。
その
余韻は、彼女の
身体に小さく
纏われた帯電と生まれ変わる。
何が起きたのか……ブリュンヒルドに解るはずもなかった。
科学者たるウォルフガングが指摘するまでは!
「吸収しただと? あれほどの電撃を!」
「うん、ありがとう」
「な……何?」
「電気をくれた」
何事も無かったかのように、邪気無く答える〈
娘〉。
「ふざけるな! くれてやった覚えは無い!」
「そうか、ごめん。いま、返す」
淡白に結論付くと、右拳に意識を集中した!
体内から涌き出る電流が活性力を
滾らせ、拳を
電塊へと胎動させる!
「ふんっ!」
大地を殴り付つけた!
渾身の拳圧に地面が砕け割れ、そこを起点として放射状に衝撃が走る!
それは同時に、無数の電撃竜を
解き
放った!
先刻までの〝青い
光蛇〟などという
矮小な
代物ではない!
逞しくも荒々しい〝電光の竜〟だ!
電竜は地表を割り進み、余すことなく包囲網を喰らい抜ける!
過剰な高電圧を浴び、次々と機能停止に
陥る
科学武装兵士達!
体内から煙を吐いて、悲鳴を上げるでもなく崩れ倒れた!
「こ……これは! 貴様、これは!」
狼狽に怒りを
孕むウォルフガング!
その
憤慨を無視して〈
娘〉はブリュンヒルドを抱き上げた。
「電気、返した。じゃあ、さようなら」
一応『別れの挨拶』を置いて、地を蹴る!
乱入時と同等の勢いが、今度は逆方向へと効果を発揮した!
「ああぁぁぁーーっ?」
あまりに力強い跳躍!
然しものブリュンヒルドも、思わず声を上げてしまうほどだ!
無理もない。
滞空は御手の物であるものの、彼女と〈
娘〉の
それは対極過ぎる。
ブリュンヒルドを始めとした〈
戦乙女〉は、軽やかに舞うかのような飛翔だ。
それに対して〈
娘〉の跳躍は、暴力任せに宙を射抜くかの如き勢いであった。
黒月の
巨眼に、
獣の影が呑まれ去る!
「ク……クソッ!」
完膚無きまでに私兵を
潰されたウォルフガングには、
忌々しくも
睨み送るしか
術が無かった。
とりあえず雑木林で〈
戦乙女〉を下ろした。
鬱蒼とした樹林には、普段から
人気が無い。
梟が
寂寥と鳴き、小動物が気配を遊ばせるだけである。そうした情景は、
闇暦に
於いても
一際薄気味悪い。
大樹の根に休息の
身体を預け、ブリュンヒルドは〝命の恩人〟へと礼を述べた。
「あ……有難う」
片膝着きに顔を
覗き込んだ〈
娘〉は、素直な思いで応える。
「うん、ありがとう」
「
貴公が、何を『有難う』なのです?」
「ありがとうと言ってくれた。だから、ありがとう」
突飛な理由が返ってきた。
どうにも調子が狂う相手だ……あの〝高慢な将校〟でなくとも。
「痛むか?」
「いいえ、平気です。それよりも、
貴公は一体何者なのです?」
「知らない」
先刻と同じ返答であった。
さりとも、嘘では無いのであろう。
それは
真摯な表情が物語っている。
「何故、私を?」
「うん」
真顔で
頷き、ジッと見つめていた。
沈黙が続く。
「あの?」
「何だ?」
「ですから、何故、私を?」
「うん」
頷く正視に、またも沈黙──。
「あの? 御返答頂けませんか?」
「まだ質問されていない」
その言葉に、ブリュンヒルドは思い当たった──「何故、私を?」──この後に続く文脈を、彼女は待っていたらしい。
徹底した
朴訥ぶりに困惑を覚えつつも、ブリュンヒルドは呑み込んだ。
改めて質問を
紡ぎ
直す。
「
貴公は、何故、私を
救けたのですか?」
「痛そうだったから」
ようやくにして望んだ回答が返ってきた。
想像していたよりもシンプルではあったが……。
「……それだけの理由ですか?」
「うん」
「たったそれだけの理由で、あのような危険を冒したのですか?」
「危険は知らない。でも、誰かが傷付くのは嫌」
肩へと駆け登った
栗鼠に木の実を拾い与えながら、
抑揚乏しい〈
娘〉はそう言った。
小動物になつかれる様に、ブリュンヒルドは思う。
(
悪しき者では、なさそうですが……)
そうは推察するものの
邪な心象が
拭えないのは、やはり見た目の奇怪さ
故だろうか。
左上腕と左手首、右
腿……
長外套の脇から
窺える裸身にも、生々しく
縫合痕が刻まれている。おそらく見えない部位にも、まだ無数にある事は想像に
難くない。
何よりも生理的な
忌避感を誘発するのは、その顔だ。
長い前髪を垂らし隠しているものの、右顔面は表皮がないまま筋肉繊維が
剥き
出している。
落ち
窪んだ目元には前髪がベールと
陰るも、時折ギョロリとした眼球が奥から
覗いていた。
正常に機能する左顔面が聡明な美貌にあるせいで、左右非対称な
醜美が
際立っている。
端的に言えば、
不気味であった。
命の恩人へ注ぐべき感情ではないが……。
その心根が純粋であるからこそ、余計に得体が知れなくなる。
ブリュンヒルドは密かに意識を集中した。
この〈
娘〉は何者か──その正体を探る手掛かりを得たい。
仄かな霊力を青く帯びる瞳。
(これは?)
先刻の〈
科学武装兵士〉とやらに似通っていた。
内在する〝感情の波動〟は稀薄である。
然れども、まったく同じというわけではない。
潜在している〝生命の波動〟は、比にならないほど強烈だ。稲光のように激しく、荒々しく、緩急的な〝
生命力〟が
潮流している……。
(やはり、彼女は──)
忌むべき〈怪物〉の
類──
古より廃絶すべき敵対存在──そう結論着きながらも、ブリュンヒルドは
躊躇した。
仮に〈怪物〉だとしても、彼女が〝
恩人〟である事は間違いない。
何よりも眼前で小動物からなつかれる無垢さは、到底〝邪悪〟には見えなかった。
「くすぐったい」
襟元を遊び場と駆ける
栗鼠を
掬い置くと、再び〈
娘〉は〈
戦乙女〉へと関心を戻す。
「歩けるか?」
「え……ええ」
「そうか。じゃあ、行こう」
のそりと起き上がる巨体。
「行く? どちらへです?」
「オマエの家。送る」
「……在りません。そのような場所は」
寂しくも渇いた苦笑で首を振る。
この
闇暦世界に、彼女の安息地など在りはしない。
帰るべき場所は、永遠の黒雲に閉ざされたのだから……。
「家、無いのか?」
「ええ」
暫く〈
娘〉はジッと見入った。
そして、ややあってから
道程へと顔を上げる。
「そうか。じゃあ、行こう」
「はい?」
呆気に捕らわれるブリュンヒルド。
数秒前のデジャヴを覚える
台詞であった。
意思疏通の不確定さには、そこはかとなく不安を覚える。
「行く……って、私の話を聞いてましたか?」
「うん」
「私には帰る家など無いのですよ?」
「うん」
「では、何処へ連れて行こうと言うのです?」
「アンファーレンの所」
簡潔に言い残して〈
娘〉は歩き出した。
「ど……どなたです? それは?」
聞こえていないのか、大きな背中が掻き分ける枝に消える。
「ま……待って下さい!」
ブリュンヒルドは慌てて武具を拾い、後を追い駆けた。
足場の悪い獣道を〈
娘〉は黙々と進む。
この時、何故追ったのか──それはブリュンヒルド自身にも分からない。
行く
宛が無かったのは事実だ。
自戒的な心構えに野宿を覚悟しながらも、本音では寝食を欲していたのも事実である。
しかしながら〈怪物〉に恩恵を
縋るなどとは、誇り高い〈
戦乙女〉にあるまじき愚行だ。恥ずべき選択だ。
にも
拘わらず、何故?
この〈
娘〉が純朴だからであろうか?
信用に足る相手だと感じたからであろうか?
否、あってはならない。
相手は〈怪物〉──
忌むべき〈魔物〉なのだから。
そして、自分は〈
戦乙女〉──気高くも誇り高い〈
北欧神館の聖戦士〉だ。
大いなる〈
主神〉の名に
於いて
廃絶する使命こそあれ、心許す事などあってはならない!
では、何故?
(これは監視です……そう、彼女が
如何なる〈怪物〉であるかを
見定め、人間達に実害を及ぼすのを
未然に
防ぐ
為の……そう、
監視ですとも)
己へと言い聞かせる。
ややあってブリュンヒルドは、先行する〈
娘〉へと質問を向けた。
「
貴公、御名前は?」
「無い」
「御冗談を? この世に〝名前〟の無い者など在りません」
「そうか。ありがとう」
「何がです?」
「教えてくれた」
「はい?」
どうやら「ありがとう」は、彼女の
口癖のようだ。
しかし、それが
朴念仁ぶりに拍車を掛け、
悉く話題を
明後日の方向へと空振りさせてしまう。
どうにも苦手な相性かもしれない。
「ま……まあ、いいでしょう。それで、
貴公の御名前は?」
「無い」
振り出しへ戻った。
「では、私は
貴公の事を、何と呼べば良いのです?」
質問に足を止めた〈
娘〉は、
暫らく相手の顔を眺めつつ思索へと浸る。
そして、馴染みある候補を思い浮かべた。
「〝娘さん〟」
「……それは〝名前〟ではありません」
「〝お姉ちゃん〟でもいい」
「……御断りします」
「ただいま」
ようやく帰った〈
娘〉が扉を開けたと同時に、アンファーレン老は待ち侘びた様子で出迎えた。
「おお、娘さん! 無事で良かった!」
「うん」
盲目の手を優しく引き、元居た席へと連れ戻す。
「少々遅く感じたのでな、心配しておったのじゃが……いやはや、本当に無事で良かった」
「うん、ごめんなさい」
「いやいや、無事ならばそれで──おや、珍しい。お客さんかい?」
閉ざされし闇に
培った鋭敏さが、もう
一人の気配を感じ取った。
「突然に来訪して申し訳ありません。私は〝ブリュンヒルド〟という者で、そちらの〈
娘〉さんに連れて来られまして……」
穏便
且つ丁寧な物腰に名乗る
戦乙女。必要以上に
畏縮させない
為にも、
敢えて素性は伏せる事とした。
「ふむ?」
白い
顎髭を撫でつつ、物見えぬ目が観察意識を傾ける。
真っ暗な視界に浮かび上がる白く
眩い光──それは
神々しくも感じられ、老人は軽い
畏敬すら覚えた。
と、唐突に〈
娘〉が説明を
挟む。
「
寝床が無い」
「ふむ?」
撫でる
顎髭が、声の方へと振り向いた。
「食事も無い」
「ほう? だから、連れて来たのかい?」
「うん」
「そうかい、そうかい」
何故だか喜ぶかのように納得する老人。
が、〈
娘〉は自身の不手際を思い至る。
「勝手に連れて来た……ダメだったか?」
「ダメなもんかい!」シュンと沈む抑揚に、老人はわざと明るく声を張った。「娘さんは、放っておけなかったんじゃろう?」
「うん」
「だったら、泊めてあげなさい。食事も構わんよ。娘さんが『してあげたい』と思う通りに……な」
「うん、ありがとう」
嬉しそうな
微笑。
盲目の老人と〈怪物〉──まるで〝
父娘〟のように
微笑ましい関係ではある。
しかしながら、
傍目のブリュンヒルドには、奇妙で不自然な関係性にしか感じられなかった。
(まさか? 人間と〈怪物〉が和解? 到底、信じ
難い……有り得ない……)
だが、
現実として、眼前に展開している。
これは、どういう事なのであろうか?
そんな彼女の困惑を
他所に、老人は勝手な解釈に
頷きだした。
「そうかい、そうかい……娘さんに〝友達〟が出来たかい……」
「あ、いえ……私は……」
しどろもどろになる
戦乙女。
直後〈
娘〉が簡潔に説明した。
「違う。拾った」
「違いますけどッ?」