1ー①

文字数 2,942文字

 翌朝八時に出勤してきた鍋島は、刑事部屋に入った途端にその空気の異様さに気がついた。
 西天満署二階の北西部分、フロア面積の約三分の一を占めている刑事課は、壁で区切られた独立した部屋ではなく、フロアの中央を通る廊下とはやや低めの間仕切りカウンターで区別しただけの、比較的開放感のある部署だった。
 つまり、二階に上がって廊下を半分ほど進めば、誰もが刑事課の前に立つことになる。
 廊下を挟んで向かい側には四つの取調室があり、所轄署ではめずらしく独立した課を形成している少年課との共用だ。フロアには他に生活安全課とその取調室もある。しかし少年課にしても生活安全課にしてもごく普通の独立した部屋であるのに対し、どういうわけか刑事課はまるで銀行の支店のようだった。理由は分からない。
 その刑事課が、いつもの出勤時の様子とはまるで違っている。
 もちろん部屋のレイアウトなどにはまったく変わりはなかったし、そこにいる刑事たちにも目に見えた違いが現れているわけではなかったのだが、二年近くもこの部屋に通っている鍋島は、カウンター端の間仕切り戸の前に立った途端にその張り詰めた気配を察することができた。
 部屋にいる刑事は四人で、うち一人は低い声で電話を掛けていた。
 残りの三人はみな、自分の席に着き、それぞれに押し黙って書類仕事をしているようだった。全員、まるで尻が椅子に張り付いているかのように誰一人立つことなく、じっと俯いてデスクに向かっていた。そしてその誰もに、ひどい重荷を背負っているような暗い深刻さ、悲愴さが感じられた。
 また、普段ならこの時間にはすでに二、三人はいても良さそうな容疑者や参考人、それらの身内などの外来者もいない。
 そして、何より決定的におかしなことは、部屋に常時一人や二人いるはずの役席の人間が、課長を始め誰一人見当たらないのだ。
「何かあったんか」
 鍋島はすぐ前の四係のデスクにいた池田(いけだ)という巡査に声を掛けた。 
 彼も同じようにデスク・ワークをしていたのだが、よく見ると他の刑事たちほどの緊迫感はなく、ただみんなに合わせておとなしくしている、という感じだった。
 領収書の計算をしていた池田巡査は驚いたように顔を上げると鍋島に気づき、それから周囲を見回しながら、
「あ、ええ──どうもそんな感じです」
 と言って目の前の先輩刑事に振り返った。その目は、鍋島に対して助けを求めているかのように不安げだった。
「どこにいてるんや」
 鍋島は課長たちの所在を池田に訊いた。
「たぶん署長室だと思いますけど」
「自分、何時に来たんや」
「十五分ほど前です。そしたらもうすでに皆さんこんな感じで」
 池田は声をひそめて答えた。「僕が挨拶しても、誰も返事してくれへんのですよ。気づいてさえもらってないようでした」
「おしっこチビりそうやったやろ」
 鍋島は着任してまだ二ヶ月あまりの後輩に同情した。そして自分の所属する一係のデスクには誰もいないことに気づいた。
一係(うち)は俺が一番なんかな」
「いえ、係長と(みなと)主任が来てます。さっき一瞬だけ戻ってきて、非番の島崎主任のとこに電話してましたよ。それからまたすぐに出て行かれました。おそらく他の皆さんと一緒に署長室にいてるんやと思います。ここにいる皆さんは、それぞれの班の待機番……みたいな感じやないかと思うんですけど」
「いったい何やろ」
 と鍋島は首を傾げた。しかしまだ他の刑事たちの深刻さが今ひとつ彼には伝わりきっていないらしく、連中を訝しげに眺めながら自分の席へと向かった。
 途中、三係の刑事の後ろを通るときに「おはようございます」と挨拶すると、その刑事はこちらに背を向けたままで口を開いた。
「──腕、磨いといたほうがええかもな」
「はい?」
 佐々木(ささき)という巡査長はゆっくりと顔を上げて鍋島を斜に見た。
「あんたの腕や。腕と言うたら──分かるやろ」
「──真誠会(しんせいかい)ですか、東条組(とうじょうぐみ)ですか」
 鍋島は管内に拠点を置く指定暴力団の二大勢力の名を挙げた。
 先輩刑事の言った彼の『腕』とは、射撃の腕前のことだ。
 所轄署の一捜査員としてはめずらしいことだったが、鍋島は府警内で定期的に行われている射撃の競技会で常に上位に入る実力の持ち主である。警察学校に入った当初から、柔道や剣道といった武道はその体格がハンデとなるせいかあまり上達が見られず、いつも同僚に負かされてばかりだったため、彼はこれらについては早々に見切りをつけた。そして、代わりに射撃の訓練に力を注いだのだ。
 成果は上がり、今や所轄署の強行犯係にいながら、本部四課が時折行う管内の暴力団関連施設への大がかりな踏み込み捜査などでは、所轄署からの応援要員として四係の捜査員とともに借り出されるようになった。
 実際、その腕を発揮するような事態には滅多とならなかったが、それでも一係よりははるかに拳銃携帯の有難味を思い知らされるのが暴力団関連の部署なのである。鍋島のこの発言も、そういう経緯に裏付けされてのことだった。
「せやない。ヤァ公とは違うんや」と佐々木は言って顔をしかめた。
「とにかく、早よ署長室へ上がり。相方が出て来たら行くように言うとくから」
「分かりました」
 鍋島は巡査長の苦痛とも見て取れる表情に不吉なほどの悪い予感を抱きながら席に着いた。

 ゆうべのうちに何か重大な事件が起きたことは推測できた。
 しかし、その時点で呼び出しは掛からなかったし、今現在、マスコミが騒いでいる様子もない。それに、少なくともこの周囲に限って言えば本部の連中の姿も見当たらない。こうして普段通りに出勤してきて、先に来ている者からそれとなく緊迫した状況にあることをほのめかされているだけだ。中には池田のように、まるで何も知らされていない者もいる。こんなことは普段ありえない。
 つまりそれほど深刻な事態だということなのだろうかと鍋島は思った。
 だからこそ自分も部屋に入ってすぐにその空気を感じ取ったのだ。
 佐々木の言うとおり、拳銃の携帯許可が出るかも知れないなと思いながら係長のデスクにある出勤簿に判を押すと、鍋島は部屋を出て署長室に向かった。
 途中、少年課の前を通り過ぎるとき、鍋島は少しだけ開いていたドアの向こうから「何でです?」という、怒ったような 若い捜査員の声を聞いた。
 昨日の傷害事件は、鍋島たちが病院を訪れて母親に事情聴取を行った際、彼女の口から息子の犯行であるとの供述を得ることができた。そしてその段階で少年課と話し合った結果、事件は刑事課の手を離れたのだった。
 生島修は最初に鍋島たちが取り調べて以降はずっと口を閉ざしているらしいが、子供の相手は少年課の専門だから、詳しい動機などはいずれ明らかになるだろう。要するに父親失格、社会人失格の男がその審判を下されただけのことで、やったのがたまたまその息子だったに過ぎないのだ、と鍋島はできるだけ自分の内面に(うごめ)く暗い感情を少年のそれとオーバーラップさせないようにと意識しながら、四階までの階段を上った。


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