4ー②

文字数 2,236文字

 ダイニングに入った鍋島は、テーブルに並べられた料理を見て一瞬驚いたような表情になったが、すぐに厳しい顔に戻るとそばに近づき、その中の一皿とフォークを取って立ったまま一口食べた。
 あとから部屋に入ってきた麗子は彼のすぐ隣に立ち、黙って彼の様子をうかがっていた。
「──まずい。最悪」鍋島は言った。「おまえこれ、途中で味見とかせえへんかったんか? 信じられへんのやけど」
「何よ……」
 そう言うと麗子は鍋島がテーブルに戻した料理を取って自分も食べてみた。みるみるうちに表情が歪んだ。
「お疲れさんでした」
 鍋島は面白そうに言って一礼すると、今度は清々しい笑顔を見せた。
「とにかく、俺の気持ちはそうなんや。それだけを言いに来たんやから、帰るよ」
 麗子は何も言わなかった。まるで寒さをこらえるように両腕で身体を抱え、鍋島に背を向けた。
 そしてドアの閉まる音をその背中で捉えると、また大きく溜め息をついて呟いた。
「……駄目だって言ったのに」

 廊下に出た鍋島は、上着のポケットに両手を突っ込んでふうっと息を吐いた。玄関ホールに戻り、背中を丸めるようにして靴を履いているとき、さっきの料理の味を思い出して思わず小さく眉をひそめた。
 そしてドアの取っ手を引いたとき、麗子の声が叫んだ。
「待って──!」
 鍋島は振り返った。麗子はたった今彼が通ってきた廊下の真ん中あたりで立ち止まっていた。滅多に見ることのない、 行き先を失った迷い犬のように臆病な眼差しで彼を見ていた。
 やがて麗子はぼんやりと言った。
「──九年もの間、気がつかなかったのかしら。あたしたち」
 鍋島は彼女を見つめたままドアを閉めた。
「勝也が、あたしを……?」
「うん」
「この前まで、あんなバカなことしてたあたしを、よ」
「ああ」
「あたし、あんたのために何もできないのよ。ちっとも可愛げがないし、世話を焼くのは大嫌いだし、料理だってあのありさま。真澄とは大違いだわ」
「分かってるよ、そんなこと。おまけに今さらそれをどうしようもないってことも」
「それでどうしてあたしなの?」
「……俺のこと、全部知ってるやろ。違うか?」
「ええ、そうね」
「俺も、おまえのことならだいたい分かる」
 鍋島は言うと小さく肩をすくめた。「理由はそれだけ」
「それだけって──」
「そんなやつ、他に誰がいてる?」
 麗子は首を振った。
「やろ。それでええのとちゃうんか」
「──そうか。それでいいのよね、きっと」
 麗子は小さく笑って頷くと、ゆっくりと廊下を進んできた。
 鍋島もドアから離れて彼女に近づいた。
 俯き加減で歩いてきた麗子には、鍋島がすぐそばまで来ていることに気づくのが遅かった。
 顔を上げると、目の前にはあまり見たことのない、どこか緊張したような表情の彼がいた。
「また駄目やなんて言うなよ」
 そう言うが早いか、鍋島は麗子の頭の後ろに手を回してさっと引き寄せ、キスをした。二人が出会って九年あまり、実に初めてのことだった。
 突然のことにびっくりした麗子は棒立ちになり、そのまま何度も瞬きをして黒目を忙しく動かしていた。
 やがて鍋島が顔を離すと、まるでそれが初体験だった少女のような戸惑った表情で唇に手をやり、鍋島から視線を逸らしたまま言った。
「……驚かさないでよ」
「昨日今日、知り合ったわけやないんや。勢いでないと出来るか」
 鍋島も顔を上げようとはしなかった。
「そうだけど、何だかやっつけ仕事って感じじゃない?」
 麗子はわざと不満げに言った。「……するなら、ちゃんとしてよ」
「え?」
 鍋島は顔を上げた。そこには、いつもの勝ち気な眼差しに戻った麗子が彼を見つめていた。
「真澄のこと、神戸に一人残してでもあたしのところに来たんでしょ? だったらちゃんとしなさいよ」
「え……ああ」
 鍋島は伏し目がちに頷いた。そして小さく笑った。麗子の腕を取り、静かに抱き寄せるともう一度その唇を合わせた。

 九年間の遅れを取り戻そうとするかのような、長い長いキスだった。その間に二人は互いの背中に腕を回してしっかりと抱き合った。
 やがて二人は顔を離し、短く笑った。鍋島はまた軽く唇を合わせた。
「──九年間、気づかなかったんじゃないわ」
 麗子が言った。鍋島を見て、納得したように一つ頷くと彼の肩に額をつけた。
「九年かかって長い遠回りをして、それでやっと戻ってきたのよ。ほんとの居場所に」
「……うん」
「そうやって──(うち)に帰ってきたら、どうする?」
「え?」
 鍋島は麗子から体を離して彼女を見た。
「家に帰ってきたら、何をするかって訊いてるの」
 麗子は顔を上げてにっこり微笑んだ。鍋島は彼女が何を言いたいのかが推し量れず、怪訝そうに目を細めて彼女を見つめた。
「美味しいごはんよ。決まってるじゃない」
 麗子は言うと片目を閉じてまたにっこりと笑った。「作って。お腹空いた」
「……はいよ」
 鍋島は深いため息をついて上着を脱いだ。
 二人はいつものように、それぞれのペースで歩きながら廊下を進んでいった。


                              〈了〉



 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係はありません。
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