4ー③

文字数 2,096文字


 ベッドに横たわり、静かに寝息を立てている杉原刑事を立ったまま眺めていると、一瞬だったが八年前のあの悪夢の日が蘇ってきた。

 あのときも俺はぼんやりと突っ立ったまま、土の上に倒れていた彼女をただじっと見下ろしていた。頭は真っ白で、身体中がすっかり空洞になっていた。
 前日まで輝くような笑顔と、心地よい音楽以上に癒される柔らかな声で俺を包んでくれていた彼女。その彼女の血まみれの死体。
 恐怖と悲しみで大きく見開いた瞳が俺を見つめていた。
 どうして助けてくれなかったのと、そう言って俺を責めているようだった。

 ──そう。いつだって誰一人助けられない。

 目を閉じて一度だけ首を振ると、芹沢は病室を出ていった。
 杉原に振り返ることはしなかった。

 ほとんどの照明が落とされた一階のメインロビーまでやってくると、たっぷりと間隔を取って並べられたソファの一つに鍋島が座っていた。両腕を背もたれにまわして身体を預け、右足の膝をゆっくり曲げたり伸ばしたりしている。
 後ろから近づいてくる芹沢に気づいているのかいないのか、やや俯き加減で足を見つめていた。
 その隣に腰を下ろしたところで、芹沢は言った。
「どうやってここまで来た」
「歩いて」
「嘘つけ」
 鍋島は自分の足を見ながらふん、と笑った。「タクシー」
「嫌がられただろ。ワンメーターにもならねえ距離だ」
「何のためのバッジや。文句言いよったら公務執行妨害や」
「やる気もねえくせに」と芹沢は笑った。
「──で、どうやった」
 相変わらず熱心に足を動かしながら、鍋島は杉原の様子を訊いてきた。
「眠ってた」
「ある意味ラッキーやったな」
 まあな、と言って芹沢は両手で顔を拭い、鍋島に振り返った。
「聞いたか。彼女が使ってた携帯、杉原さんのだったらしい」
「らしいな。河村が川に投げ込む前に杉原さんの上着から持ってきたのを、彼女が食い下がって取り返したって」
「なんでそんなことしたんだろ」
「分からん。なんかヤバイ証拠でも残ってて、それを隠すためか、それともただ夫の身の回りの品を持っていたかったか」
「──ったく、たいしたタマだぜ」
「ああ。山口紫乃に弟のこと頼まれて、すぐに自分の人脈をフル稼働させて北海道行きを手配したんやもんな。か弱そうに見せといて、実はかなりの筋金入りや」
「北海道に誰がいるんだ」
「友達の先輩夫婦やて。最初にクスリの味を教えた、あの友達の先輩がとりあえずは山口だけでも預かってくれるって言うたらしい。それで今夜、連れて行くつもりやった」
「そりゃありがたいこった」
 ため息混じりに言った芹沢に振り返って、足を動かすのをやめた鍋島は神妙な面持ちで言った。
「──なあ、何で河村は完黙を通したんやろ」
「……何が言いたい?」
「山口紫乃には平気であんな残忍な仕打ちのできる男や。しかも山ほどの容疑でパクられて、逃げ場はなくなってる。それでも黙ってるなんて、他に理由があると思うか?」
「やつが本気で杉原奈津代に惚れてたって言うのか」
「俺にはそう思えてしゃあない」
「ロマンチストだねえ。鍋島巡査部長は」
 芹沢は呆れたように口もとを緩めて言うと立ち上がった。「俺に言わせりゃ、あいつは女の敵だ。俺が言うのも何だけどよ」
「ああ。説得力ゼロ」と鍋島は頷いて彼も立ち上がった。

 玄関を出た二人は駐車場に向かって歩き出した。鍋島はすぐに煙草を取り出して火を点けた。
「──そうや。彼女、杉原さんが夏頃からますます家に寄りつかんようになったのを、きっと自分の秘密に気づいて探り始めたんやとか言うてたけど──」
「援交にハマり出したからだろ。捜査で知り合った女子高生と」
「おまえもそう思うか」
 芹沢は頷いた。「……今さらどうしてそうなっちまうんだ」
「ほんまにそうやと思うか? ホテルにいたのは、何か別の理由(わけ)があったんかも知れんやろ」
「あったところで、それを証明できなきゃな。言い訳は立たねえ」
「……まあな」と鍋島は煙を吐いた。
「そうやって、あの人でさえ自分から墜ちていったってのにな」
「片や、いつの間にか歯車が狂てしもた女もいてる」
「どっちにしたって、結局は最後まで思い直すことができなかったんだ」
「どうや。落ち着いたら、休み取って福岡に帰れよ」
「ああ、そうだな」
「けど辞めるつもりはないんやろ?」
「しつこいな。吹っ切ったって言ったろ」
 芹沢は振り返った。「それに、おまえみたいに身体張ってやってねえからな、俺はまだ」
「こんな風に身体張ってもしゃあない」
 咥え煙草の鍋島は吐き出した煙に目を細めながら自分の右足をちらりと見た。
「確かにな」
 芹沢はふんと笑うと車のドアを開けた。運転席に乗り込むと、助手席の鍋島がドアを閉めるのを待ってエンジンを掛けた。
「──杉原さんも、身体張って彼女を守ろうとしてたことには間違いはないんだよな」
 そう言った芹沢を鍋島はじっと見つめると、両手を頭の後ろにまわしてにやりと笑った。
「おまえかてなかなかのロマンチストや」

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