2ー①

文字数 3,591文字

 京都に来るのは久しぶりだった。
 大学時代は日常の生活拠点が京都にあった。彼女が受講を終えて教室から出てくるのを、パチンコや麻雀で時間を潰していた鍋島と萩原が待ちかまえていた。それからよく三人で北山(きたやま)河原町(かわらまち)界隈に繰り出したものだ。萩原とつき合っていた智子と四人だったこともしょっちゅうだった。
 キャンパスは京都御苑の近所にあったので、時には緑豊かな御苑の芝生に腰を下ろして、鍋島や萩原に試験のポイントを教えたこともあった。
 あの頃は良かったな、と麗子は懐かしんだ。今、自分が仕事場としているのも大学だが、あの頃と今とではそこに身を置く自分がすっかり変わってしまっている。しかも最近までは恋愛──あれが本当に恋愛だったのかどうか今となっては疑問だが──という、本来の自分の目的とはほど遠い関係をそこへ引きずり込み、結局はそれもまたとことんのめり込むまでもいかず、ありきたりの結果を迎えるに至った。いったい自分は何をしに大学に行っていたのだろうか。

 麗子はあの別れ以来、大学にいるのが辛かった。しかし仕事は仕事だ。
 彼女は一年生の基礎演習クラスの他に、後期からは新しく講義を一つ受け持っていた。それだけでも週に二度は大学に行かなければならないし、自分の研究や講師としての諸々の用事をこなすとなると、土日以外はほとんど毎日大学に縛りつけられることになる。
 それもつい最近までは楽しかった。が、今は違う。結局、女ってものは恋愛におけるコンディションが何よりも先に立つ生き物なのかも知れない。自分はそうではないと思っていたのに、なんてことはない、女の典型だったのだ。
 しかも、自分が今取り組んでいる講師としての仕事を勝ち取るために、その「大事な」ものを失ったのだ。
 そのうち、男が別れと引き替えに置いていった土産が今のこの仕事なのだとさえ思えてきた。「勉強が麗子の恋人ね」と言われた大学時代は、その言葉通りに本当に学問がすべてだった。恋愛にしろ課外活動にしろ、彼女にとっては学業と引き替えにするほど魅力のあるものではなかったし、それらすべてをこなせるほど自分は器用ではないと思っていた分、彼女は潔かったのだ。それが今は何だ。麗子はますます落ち込んだ。何とも虚しかった。

 北山通り沿いのこのバーも、学生時代にはよく通ったものだ。ここへは 鍋島とよく来た。黒く、分厚いカウンターもあの頃のままだ。大学を出てからの五年半をすべて乗り越え、自分を昔へ戻してくれるような気がして、麗子は思わず足を運んだのだった。
「麗子」
 店に入ってくるなり、真澄は笑顔で言った。着物姿が入口の格子戸によく似合っていた。
「ごめん、忙しいのに呼び出して」と麗子も微笑んだ。
「ううん、明日からほら、十一月でしょ。『炉開き』て言うてね、茶道の世界ではお正月みたいなもんやねん。その準備をしてただけやから。それより、麗子の方こそ、京都で仕事?」
「違うの。ちょっと懐かしくなってね」
「ここが? そう言えば麗子、学生の頃はここの帰りやて言うてようあたしの家に泊まりに来たっけ」
「そう。遅くなったから終電に間に合わないって」
 バーテンが近づいてきたので、真澄はスコッチのオン・ザ・ロックを注文した。
「真澄は見かけによらず強いのね」
「麗子は見かけによらず弱いもんね」
 真澄は麗子のカンパリ・ソーダを見て言った。「大学時代かぁ。あたし、麗子が羨ましかったわ」
「どうして?」
「だってさ、あたしなんかずっと女子校やったから。こんなとこに男の人と二人で来るなんてこと、なかったもん。せいぜい合コンの流れでカラオケか喫茶店ってとこ」
「あたしが、みんなと同じような学生生活を送ったと思ってるの?」
 麗子は笑いながら言って真澄を見た。
「あ、そうか。勉強一筋」
「まあね。それに、ここへ来るって言っても、好きな男と二人なんてことなかったわよ」
「ほんとにぃ?」
「ほんとうよ。そうね──たいてい勝也とばっかり」
「ふうん……」
 真澄はなおさら羨ましくなった。
「ねえ、真澄」
「うん?」
「あたしさぁ、自分のこと過大評価してたみたい」
「なにそれ?」
 突然の話に、真澄は戸惑った様子だった。
「大学を首席で卒業して、大学院でも夢中でやったおかげで何とか博士号(ドクター)を取ったと思ったら、選ばれた人材だけが可能な留学にさっさと決まって、帰ってきてすぐに今の研究室に呼ばれたでしょ。で、今度は講師。ここまでずっと、止まらずに突っ走ってきたって感じ。振り返ると信じられないけど、どこかでこれがあたしの実力よなんて思ってたわ」
「麗子の実力よ。さっきもうちの母が言うてたわ。『麗子ちゃんはほんまに偉いねぇ』って」
「……おばさま、あたしとの電話でもそう言ってた」
「でしょ? 弟なんか、『姉ちゃんも麗子さん見習えよ』やて」
「違う。あたしなんか、ほんとはみっともないだけの人間よ」
「……何のこと?」
「がむしゃらに仕事して、勝ちに行くことばっかり考えて。つき合ってた男の気持ちなんか察しようともしなかった。相手の浮気を知っても、尾行するようなことしかできないの。取り乱して怒ることも、責めることもしないで、カッコつけてばかり。そのうち男は去っていったわ。疲れて、妬んで、愛想尽かしたのよ」
 吐き出すように一気に言って、麗子はグラスを呷った。
 真澄はそんな麗子をじっと眺めていたが、やがて探るように訊いた。
「麗子、つき合うてたひと、いたん……?」
 麗子はグラスを置くとふうっと息を吐いた。「そう。つい四日前まではね」
「そうなんや……」
「意外?」と麗子は笑って真澄を見た。
「う、ううん。だって麗子は綺麗やもん。いてない方が意外」
「いいのよ、そんなお世辞」
「大学の人?」
「ええ。同じ研究室」
「で……別れたの?」
「そうよ。ほんとはずっと前に終わってたの。他に女が出来たのよ。その相手とじゃ疲れないらしいわ」
 そう言うと麗子はすぐに首を振った。「ううん、違った。その女性には疲れた顔を見せられるし、疲れたって言えるんだって」
「麗子には言えへんってこと?」
「そう。あたしにはそんな甘えが通用しない気がしたって。そのくせ、思ったことを全部言わなきゃならない雰囲気が漂ってたんだって。気を使って嘘をつくことさえ許してくれそうになかったそうよ」
「……そんな風に思うなんて」と真澄は唇を歪めた。「麗子のこと、ほんまは分かってへんのよ。その人」
「真澄──」
「あたしはそう思うわ」
 真澄はにっこりと微笑んだ。暖かい笑みだった。
「ありがとう。でもね、あたしって良く言えばさっぱりしてるんだろうけど、要するにがさつなのよ」
「そんなことないわ」
「自分だけが遠慮や隠しごとが嫌いなのならいいけど、人にもそれを求めちゃうのよね。正面から気持ちをぶつけ合うのは大いに平気なくせに、根回しとか気配りが苦手なの。だから自分と関わる相手にもそうあってもらいたいわけ。アメリカ育ちって言ってしまえば格好いいけど、ただの単純バカよ。相手が今どんな気持ちなのかなんて、事前に慮ることができないのよ。そんな能力持ち合わせてないの。だからフラれたの」
「そこまで言わなくても──」困った真澄はグラスを見つめた。
「勝也にも言われたのよ。分かり易すぎてあさはかやねん、って」
「勝ちゃんに?」
 真澄は驚いて麗子を見た。ここで鍋島の名前が出てくるとは思いもよらなかったからだ。
「そう。あいつのひとことは的確なのよね」と麗子は苦笑した。
「……麗子、勝ちゃんに会うたの?」
「ええ。酔っ払ってあいつの部屋に押し掛けて、気分悪くなったからトイレに駆け込んで──考えてみたらこれも無神経よね ──そしたらあいつ、水一杯飲ませてくれた後にすぐに帰れって言ったわ」
 真澄はじっと麗子を見つめた。すでに胸中穏やかではなかった。
 そんな彼女の気持ちに気づく気配すらない麗子は続けた。
「親友だからって、いちいちあたしの相手なんかできないって。仕事で疲れてて誰とも話したくないときだってあるんだって。当たり前よね。あいつの方が肉体的にも精神的にも数倍過酷な仕事してるのに、あたしったらいつもの調子であいつに甘えて。何年経っても変わらないと思ってるのよ。あたしとあいつの間の空気は」
 麗子は言うと小さく首を振った。「──無神経な女」
「麗子……それ、いつ?」真澄は静かに言った。
「いつって、勝也に会ったのが?」
「うん」
「五日前よ」
「何時頃?」
「……よく覚えてないけど、確か十時半頃だったかしら。でもどうしてそんなこと──」
 そこまで言って、麗子ははっとして真澄に振り返った。

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