2ー②

文字数 3,446文字

「──何や、今のは」
 鍋島はむっとして目の前の電話を見つめ、指に挟んでいたボールペンで受話器を叩いた。
「いちいち気にすんなよ。そんな電話、ここじゃしょっちゅうだろ」
 デスクに戻ってくるところだった芹沢が、呆れたように言うと席に着いた。鍋島は溜め息をついてボールペンを投げ出し、代わりに煙草の箱を取った。
「阪神薬品の土橋。ちょっと凄んだらあっさり吐いたってよ」
 芹沢は手にしていたコーヒーを一口飲むと言った。
「島崎さんから連絡が?」
「ああ、いま課長が電話聞いてた。会社の方も、怪しいんじゃねえかって内定を始めたとこだったそうだ」
「嘘やな。警察に踏み込まれて、焦ってそんなこと言うとんのやろ」
 鍋島はふんと鼻を鳴らした。
「ま、どっちだっていいさ」
 芹沢は頬杖を突くと目だけで辺りを見回し、最後にその視線を鍋島に留めた。コーヒーのカップを口許に寄せ、鍋島にしか聞こえないような小声で言った。
「それで。女房のことはどうする」
「おまえちょっと、電話してみろよ。杉原さんとこの番号、そこに入ってるんやろ?」
 鍋島は芹沢のデスクにある携帯電話を顎で示した。
「電話してどうすんだよ」
「山口紫乃の名前出して、揺さぶり掛けてみ」
「そんな正面突破でボロ出すかよ。山口紫乃だって、本当のところは何も知らされてないんだぜ」
 芹沢は言うと紫乃の病室での鍋島の様子を思い出した。「おまえ、ほんっとにあの姉弟にいいようにされちまったな」
「うるさい」と鍋島は顔をしかめた。「せや、アケミ姉さんは何か知らんか」
「どうだろうな。あの女は紫乃のことは河村に頼まれて店で預かったりして世話してたみたいだけど、それだけじゃねえのか」
「なんでそう言い切れる?」
「これは俺の推測だけどよ──推測は嫌いなんだぜ──河村は杉原奈津代も自分とつながってるってことを、誰にも知らせてなかったんじゃねえかと思うんだ」
「誰にもってことは──アケミや紫乃にはもちろん、子分たちにも内緒ってことか」
「たぶんな。彼女は特別扱いだった」
「そらまたなんでや」
「彼女が刑事の女房だってことさ。それって本人はもちろん、河村にとっても大きなことだったんじゃねえか。彼女を相手にするにゃ、それなりの覚悟が要る。つまりは誰にでも喋れることじゃねえ」
 芹沢はコーヒーを飲み干すとカップをデスクに戻し、今度は肘をついた両手を組み合わせてその二本の親指で顎を支えた。
「ほな、今でも完黙を貫いてるってのもその影響でか?」
「ああ。てめえがパクられた時点で、紫乃の一件との関連が露呈するのは時間の問題だと考えてただろうが、杉原さんの女房のことはまず俺たちには知れることはねえと思ってるんじゃねえか。現にこうして、彼女に目を付け始めてるのは俺たちだけだぜ」
「そこまでして山口を仲間に引き入れたかった理由は何なんやろ」
「それもそうだが、俺には奴の完黙にはもっと別の理由があると思えてしょうがねえ」
「別の理由?」
「野郎が紫乃や女房に近づいたそもそものきっかけは、山口を組織の仲間に引き入れようとしたことだったかも知れねえけど、あいつ、結局は紫乃とは薬の取引って言ううまい儲け話を見つけだしたみたいに、杉原奈津代とも何か別のところでつながってたんじゃねえかって気がするんだ」
「推測やろ。おまえの嫌いな」
「推測さ。けどそこそこ妥当な推測だと思ってる」
「てことはやっぱ、奴から聞き出すしかないな」
 鍋島は小さく頷いて腕を組んだ。「今度は俺が、そらもう超〜ぉシビアに締め上げたるわ」
「変わり身早ぇな。俺にはやりすぎんなって言っといて」
 芹沢はふんと笑って鍋島を見た。「それにおまえ、そんな体でどう締め上げるって言うんだよ」
「任せてくれ。こっちには武器もある」
 鍋島はデスクに立てかけた杖を指差した。
「マジかよ?」
「ま、それは冗談として──こうなったら背水の陣や」と言って鍋島は両手を頭の後ろで合わせた。「おまえに、山口姉弟にええようにされてるなんて思われたままでは、腹立って夜も寝られへん」
「アホか」と芹沢は溜め息をついて俯いた。
「それに、おまえには別の用事が待ってるみたいやし」
「? なんだそりゃ?」
 鍋島の言葉に芹沢はしかめ面の顔を上げた。鍋島はにやにや笑って顎を上げ、相棒に後ろを見るよう合図した。
 芹沢が振り返ると、少し離れたところに制服姿の岡部美弥が立っていた。
「──いってらっしゃい。イケメン刑事(デカ)
 鍋島は実に嬉しそうに言った。
「……面倒臭ぇな」
 芹沢は小さく舌打ちして呟いた。そして恨めしそうに鍋島を一瞥すると、どうやら諦めがついたらしく潔く立ち上がり、親しみのこもった気軽さを造って美弥に声を掛けた。
「よっ、ひさしぶり」
 それまで不安げだった美弥の顔が、たちまち心から嬉しそうな笑顔に変わった。


 岡部美弥を芹沢に任せると、鍋島は内線で留置所に連絡を入れて河村を二階の取調室へ上げるように頼んだ。
 十分ほどして手錠と腰紐をつけられた河村が上がってきた。鍋島はその様子を目の前に積み上げられた書類の間からじっと伺った。
 やがてゆっくりと立ち上がり、少し離れたところのデスクで庶務の婦警と話している芹沢に振り返った。
「無茶すると傷に響くってことを忘れねえようにな」
 芹沢は突き放すように言った。
 鍋島は黙って頷き、右足をかばいながら部屋を出ていった。

 取調室で鍋島は河村に向かい合って座った。
 河村は部屋に入って来るときからずっとぎこちない動きをするこの刑事を面白そうに見つめていた。
「──ああ、分かったぞ。兄ちゃん、あんときあのガキに刺されたんやな」
 無精髭を生やし、芹沢にやられたらしい生傷や青痣を顔中のどこかしこに作った河村は、大袈裟に驚いた表情で言ったかと思うと愉しげに笑い出した。鍋島は黙っていた。
「で、傷の具合はどないや?」
 鍋島はそれには答えず、じっと河村を観察していた。
 暴走族あがりで、思いがけない商才を武器にたっぷりとスタミナを蓄えた上り調子の男。ヤクザとは一線を画しているようで、その実まるで同じような非合法組織を作り、そのてっぺんに自分をのし上げようとしている向こう見ずな野心家。
 目の前の男には、いかにもそんなふてぶてしさがあった。
 しかしそれは、この事件ではある意味狂気じみている芹沢の執拗な締め上げにも屈せず、杉原刑事のことも紫乃のことも、何一つ喋ろうとしない強い意志の男のイメージとはどうしても一致しなかった。

 ──別の顔、というやつか。

 しかし、なぜ今ここでその二つめの顔でいる必要がある?
 相変わらず腹立たしいまでの満面の笑顔で自分を見つめている河村を眺めながら、鍋島は考えた。
 そして、極めて自然に一つの結論にたどり着いた。
 鍋島は顔を上げると、彼もまた清々しい表情でまっすぐに河村を見据え、力強い口調で言った。
「俺はな、何も訊かへん。訊いても無駄らしいし。その代わり一つだけはっきり言うとくわ」
 鍋島の言葉が少し意外だったのか、河村は黙って彼に先の言葉を促すかのように肩をすくめた。
 鍋島は河村の態度を真似るように不適な笑みを浮かべると、腕を組んだまま身を乗り出して言った。
「俺らはな、

にたどり着いてるで」
 河村は僅かに目を細めた。
「あんたがそうやって我が身をなげうってくい止めてるつもりでも、残念ながらもうたどり着いてるんや。時間は掛かったけどな」
「……何の話や」
 河村は迷惑そうに言った。鍋島は構わず続けた。
「ほんで、じきに全部暴き出す」
「……そんなことが出来るんか? 警察のあんたらに」
 河村は低い声で言った。僅かに右目の下が引きつっていた。
「関係あるか。こっちは二人も死にかけとるんや」
 鍋島は凄んだ。「甘く見るなよ。相手がどこの誰やろうと、どうってことあらへん。たかが素人の女一人やないけ」
 そんな彼のただならぬ気配に驚いたのか、それまで入口脇の机に向かってじっと二人のやりとりを聞いていた制服警官がゆっくりと振り返った。
 鍋島は彼と目を合わせると、相変わらず肝の据わった眼差しで射るように見つめ返し、そして告げた。
「おわり」
 思わず立ち上がった河村に振り返ろうともせず、鍋島はできる限りの早さで部屋を出ていった。


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