3ー②

文字数 2,623文字

 今のあいつは──芹沢という男は──自分で決めたある一つの目的のためだけに存在している、ただのヒトという生き物だった。目的のためには生きなければならないし、働いて飯を食って、眠って、ときには本能に従って女も抱く。それだけのことだ。だから誰にも、そんな人生は間違っているとか、大切なのは愛だとか夢だとか守るべき誰かだとか、くだらない戯れ言は言われたくない。
 いいか、俺を無視してくれて結構だから──俺に構うな。そういうスタンスで生きているやつだ。
 気に入らないが、確かにそうだった。

 エレベーターホールを過ぎ、もとの廊下を戻りだした鍋島は、さっきは誰もいなかったはずの長椅子の一つに、芹沢が頭を抱えるように前屈みで座っているのを見つけた。
 鍋島はゆっくりと近づいていった。すると、その気配を感じてか芹沢が顔を上げた。そして鍋島がすぐそばの壁により掛かって腕組みしたのを認めると、自分も身体を起こして背を預けた。
「携帯切ってたやろ」鍋島が言った。
「ここ、どこだと思ってんだ。病院だぜ」
「えらい律儀やな」
「常識さ」と芹沢は面倒臭そうに溜め息をついた。「で、誰が呼んでるんだ」
「課長。決まってるやろ」
「俺を外そうってか」
「そんな余裕あらへん。会議室で聞いたやろ、うちだけでやるって。猫の手も借りたい状況のはずや」
「猫の手ね」
「そう。けどおまえ次第では、猫の手の方がましってことになりかねへん」
 芹沢はふんと鼻を鳴らした。「仇なんて討つつもりはねえよ。何があったのか突き止めるだけさ」
「そのあたりのラインがちゃんと引けるのかどうか、おっさんはそれを確かめて釘刺しときたいんやろ」
 鍋島は言ってひょいと肩をすくめた。「俺も一緒に呼ばれてるんやで。どういうわけやねん」
 芹沢は鍋島のとぼけぶりに思わず笑った。そしてようやくその硬い表情を和らげ、懐かしそうな眼で足下の一点を見つめるとぽつりと言った。
「──この街も、あながち悪いとこじゃなさそうだな」
「え?」
「二十歳そこそこで人生ってやつを投げちまった青二才がよ、ここへ来たおかげで何とかまともな生き方を取り戻したんだから。そうだろ?」
 振り返った芹沢を、鍋島は何も答えずに見つめた。

 さっきの話だ。ある一つの目的のためだけに存在している、ただのヒトという生き物。そうなることを決めたのは、芹沢が十九歳のときだった。それまではどちらかと言えばお坊ちゃん育ちの硬派な青年だった彼は、八年近く前のある悲惨な出来事によって一度は死に、地獄へと堕ちた。
 しかし彼はすぐに、それだけは変わることのない甘いマスクの下に、強い毒と哀しく歪んだ精神を潜ませて生まれ変わった。そして相変わらず見続けなければならなくなった悪夢を精算するために、大阪で警官になったのだ。まともな生き方を取り戻したと彼は今、言ったが──そんなのはまやかしだ。鍋島には分かっていた。

 芹沢は再び目を落として続けた。
「……杉原主任には、俺が転属してきてまだひと月たつかたたねえかのうちに、

んだ。いつだったか──宿直の夜に、ふらりと刑事課に入ってきてよ。確かおまえは仮眠室かどっかで爆睡してていなかったけど」
「うん」
「いきなりだぜ。『きみはちょっと病気やな』だってよ。なに言ってやがると思ったけど、他の課の先輩だから相手しないわけにはいかねえと思って適当に返事してたら、あっちは全然真剣でよ。おまけに耳の痛いことをどんどん言ってくるんだ。腹が立ったし、反感も持ったけど、正直言ってちょっと怖くなった。心の中を見透かされたって言うか──かき乱されたんだ。でもそのうち、何だかほっとした気分になってた。びっくりだぜ」
 芹沢は自嘲気味に笑って鍋島を見上げた。鍋島は黙って頷いた。
「それからときどき、仕事の帰りにメシに誘われるようになってよ。刑事って仕事のこととか、俺自身のこととか、十歳近くも年下の俺に、ほんとに生真面目に話してくるんだ。面倒臭えなと思ったけど、その勢いに負けたって言うか、まっすぐな心根にほだされたって言うか、俺みたいな人嫌いが、結局は杉原さんの話だけは全部ストレートに受け入れることができるようになったのさ」
「想像つかんな。普段のおまえからは」
「別に使い分けてるわけじゃねえけど、あの人の前でだけは努力して自分を正常な精神状態に留めておくことができるんだ。そうすることを強いられてたわけじゃなかったけど、自分からそうしたいと思ったんだ。この人の前ではとことんワルにはなれねえって、そんな感じかな」
 杉原主任が少年課の優秀な刑事で、西天満署内で最も人望厚き人物である理由、それはつまり今芹沢が言ったようなことなのだろう。
 芹沢は深く溜め息をついた。今にも怒りで爆発しそうになっているのを必死で我慢しているのが分かった。そして喋ることでそれをくい止めようとしているかのように話し続けた。
「俺がこの街に来た理由はおまえも知っての通りだ。杉原さんだって見抜いてると思う。

をしたからな。だけど、あの人のおかげで、こうしてなんとか踏ん張れてるところもあるんだ ──まともな刑事としてさ。だってそうだろう、本当なら俺は警官なんかとは一番遠いところにいるはずの人間さ。間違いなく商売女のヒモで、いずれは

だ」
「おまえはそんなやつやない。そんなアホやない」
 いやそうさ、と芹沢は首を振った。「そう簡単に、古い悪夢にとらわれてる自分を捨てられやしねえ。でもときどき、何とかこの道でなら立て直せるかも知れない、ここならやっていけるかも知れないって思う自分がいることも事実さ。俺さえその気になれば、やり直そうと考えることだってできるってことを、知らねえうちに杉原さんが促してくれてたんだ」
 芹沢は顔を上げ、窓の向こうに広がる青空を仰いだ。
 そしてゆっくりと立ち上がると、今度は力強い意志で引き締まった顔を鍋島に見せた。いつもの生意気な、得体の知れない男に戻っていた。
「とにかく、ちゃんとやるさ。誰にも文句は言わせねえ」
 鍋島は頷いた。
 まともな生活を取り戻したというのはごまかしではないのかも知れない。廊下を行く芹沢のあとに続きながら、鍋島にはどっちなのか分からなくなってきた。
 でもきっと、当の芹沢にもそれは分かるまい。


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