4ー④

文字数 3,210文字


 アパートに戻った芹沢を待っていたのは、一件の留守番電話だった。
《──貴志、姉さんです。……また電話します》
 たったそれだけだったが、芹沢には福岡の実家の様子が容易に想像がついた。
 大学を出て大阪に来てからの四年あまり、長姉からの電話というと決まって何か良くない知らせだった。かと言って一刻を争うような重大な問題はほとんどなく、たとえそうだったとしても、彼がそれを知らされるのはすべてが終わったあとで、他はたいてい些細なもめ事に関する愚痴ばかりを彼はこの姉から聞かされているのだった。
 芹沢は自分の方から掛け直すこともせず、風呂から出るとそのままベッドに入った。
 そこへ電話が鳴った。時計を見ると、十一時四十五分だった。
 彼は枕元のテーブルに置いたコードレスの子機を取り、溜め息をついてスイッチを入れた。
「芹沢です」
《──貴志? わたしよ》
「ああ……留守中にも掛けてくれてたみたいだけど」
 芹沢は素っ気なく言った。
《う、うん……仕事はどうやろか? 忙しいやろか?》
「忙しいよ。それよりどうした? こんな時間に」
《父さんが倒れたと》
「何だって?」芹沢は起き上がった。
《あ、心配なかよ。ぎっくり腰やけん》
「……脅かすなよ」
 彼は再び枕に身体を預けた。やれやれ、いつもこの調子だ。
《だけん、母さんがえらい気弱になっとるよ。会社のことばどうしたらよかやろうって……》
義兄(にい)さんがいるじゃないか」
《今日、明日のことやなかよ。力仕事やけん、こん先いつかほんまに体が動かなくなるとよ。そん時に会社ばどうしたらよかか──》
「またその話か。そんなに会社を義兄さんに譲るのが嫌なのか? せっかく一生懸命やってくれてるのに、それじゃあんまりじゃねえか。義理の息子ったって、姉ちゃんの旦那なんだし、赤の他人に譲るわけじゃねえんだから。姉ちゃんもそこんとこを親父にちゃんと言えよ」

 芹沢の実家は四代続いた老舗の酒販会社だった。しかし五代目の芹沢が会社を継がずに警官になったため、五歳年上の姉と結婚した義兄が脱サラをして、父親と一緒に会社を切り盛りしているのだった。
《父さんも母さんも、ほんまはあんたに帰ってきてもらいたかとよ》
「親父の勝手だよ。だいいち、俺はこうして──」
《分かってるとよ。父さんたちも、あんたが警官になりよった理由はよく分かっとるよ、つまらなか意地は感心できなかとは思っとるけど。今や刑事にもなりよったけん、そぎゃんあんたに返ってきてくれとは言えなかのよ》
「………………」
《だけん、こんままうちの人に会社ば渡して、そんあとでもしあんたが帰ってきたらって……》
 芹沢には姉の言いたいことは分かっていた。父や母が自分に家業を継いでもらいたいという気持ちでいることは仕方ないとしても、もし彼自身の口からはっきりとその気のないことを告げさえすれば、結局は諦めるだろう。そして会社を義兄に譲るに違いない。姉はできれば芹沢にそう言って欲しいのだ。芹沢もまた、自分は警官を辞めるわけにはいかないと思っていたし、家業にも故郷にも魅力を感じていなかったから、そう言うのは簡単だと思った。
 しかし、どういうわけかいざとなったら、何となく気後れしてしまうのだ。
 ひょっとすると自分の中で、小さいながらも株式会社の社長の地位と、それに伴う財産やちょっとした名声を惜しむ気持ちがあるのだろうかと考えもした。でもそう考えるとただ笑ってしまう。
 結局は、九州の旧家の長男として生まれ、創業百年をゆうに越える大店の跡取り息子として育った経験から、家や会社を守ることの重要性を肌で理解することができたし、また警察官という職業が本当に自分に合っているのかどうかの確信もきちんと得られているわけでもなかったから、だから、落胆するに決まっている両親を前にして、いまだにはっきりと言い切ることが出来ないでいたのだ。
「……姉ちゃん」
 よく考えろよ貴志。本当にそれでいいんだな。
《──貴志。あんたの気持ち、うちにはよう分かっとるつもりよ》
「ああ」
 そうだ。おまえには刑事になった目的があるんだろ?
《……近いうちに、いっぺん帰ってきてくれなかかいな?》
「俺は……」
 一生警官をやって行くんだな。
《お金がなかいなら、飛行機代ば送るけん》
「いや、そうじゃないんだ」
 酒屋が嫌で東京の大学に行ったんじゃなかったのか。
《……やっぱり、忙しいのかいな》
 姉の溜め息が彼にも聞こえた。その途端、急にこの姉の喋る博多弁や、電話の向こうの実家が懐かしく思えてきた。
「──分かったとよ。来月の連休にでも休みば取って帰るけん、そいでよかか」
《ごめんね、無理ばっかり言って。じゃ、切るよ。とろか時間から悪かったね》
「おやすみ」
 電話を切った芹沢は、しばらくの間手に持った受話器をぼんやりと見つめていた。
 ちょうどそのとき部屋のドアが開いて、真新しいバスローブに身を包んだ湯上がりの女性が入ってきた。
「──あれ、やだなぁ。誰かと電話?」
 濡れた長い髪をタオルで拭きながら、女はベッドの端っこに腰を下ろした。
「妬けちゃうなぁ。どこの誰?」
「そんなんじゃねえよ」と芹沢は受話器を戻した。「実家からさ」
「ホント? こんなに遅く?」
「嘘なんかつかねえよ。だいいち、俺、あんたに嘘つかなきゃならねえ理由でもあったっけ?」
 そう言うと芹沢は女をじっと見つめた。
 二時間ほど前に行きつけのバーで声を掛けられたとき、すぐに誰だか思い出せなかった女だ。よく話を聞くと、三週間前に同じ店で知り合って、そこそこいい雰囲気になったらしい。確か、どこかの企業の社長秘書だとか言っていた。
「──別にないけど」
 女は少し不機嫌になった。
「ならいいだろ」
 そう言うと芹沢は女の手を取ってそばに引き寄せた。
 それ以上うるさいことを言えないように自分の唇で相手の唇を塞いで、バスローブの紐を緩めると、女はすぐに従順になった。
 彼は言いようのない自己嫌悪に陥った。
 しかし、やがて忘れてしまった。


 冷たい夜の、漂う水面(みなも)に、男は浮かんでいた。
 死んでいるわけではなかったが、確かに死と直面していた。
 頭を何度も殴られて、骨のどれかがずれているようだと、遠い意識の中でぼんやり考えていた。肋骨の数本は確実に折れているし、右手の薬指もさっきからぐらぐらして、感覚などとうの昔になくなっている。
 それから、焼けるような痛みが背中を風呂敷のように覆って離れない。顔は水の中で、割れた西瓜のようにあらゆる汁だらけだ。
 完全にやられてしまった。
 

はどうなったのか。
 今夜、自分たちが連中のところへ行くことを、奴らは完全に分かっていたようだ。誰かに連絡を受け、自分とあの子があの時間に現れることを知っていて、だからあそこで待っていたのだ。
 考えられることは二つ。──

か、あの子の姉か。
 あの時、誰かが通報してくれたのだろう。サイレンの音で連中が逃げた際に、自分とあの子も必死で走った。散々痛めつけられて言うことを聞かなくなった身体をもつれる足で何とか前に運び、そして転がるように河に落ちたとき、もうあの子はいなかったように思う。
 その直後に全身を切り裂くような痛みに襲われ、自分は一瞬気を失った。
 ところが、溺れそうな恐怖感で息を吹き返して、河から這い上がったとき、目の前にはまた奴らがいた。
 そこからは再度の地獄。
 気がつくと、ここまで流れていた。
 水の流れに身体が揺れ、時折顔が水面上に出た。
 ほとんど視覚を失いつつあったが、まだ消えずに残っている見慣れたビルの灯りやネオン看板がぼんやりと見え、その位置関係でどの辺りを漂っているのかを何となく認識することができた。
 とにかく、今死ぬわけには行かない。それだけは駄目だ。
 あと百──いや二百メートルも流れれば、何とか管内に入ることができるだろう。それまでは……

 それまでは、絶対に死ねない。

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