4ー③

文字数 4,587文字

 少年課の書類キャビネットを開け、調べ終わった捜査資料と新しい資料を入れ替えていたところへ、うしろでカタリと遠慮がちにドアの開く音がした。
 入ってきた人物はがらんと静まり返った部屋を見て、所在なさげに立ち尽くした。小柄な中年男だった。男のところからは、並んだデスクが死角となってキャビネットのそばに座り込んでいるこちらが見えなかったようだ。
「──はい、何か」
 刑事が立ち上がると、中年男は大きく驚いて後ずさりした。
「あ、あああ、あの……」
「はい。何でしょうか」
 刑事はできるだけ穏やかに言って口許に笑みを湛えた。そしてそのあいだに相手を観察した。身長160cm前後、色黒、白髪混じりの短髪、四十五から五十歳、ダークグリーンの上着に黒のスラックス。いくぶん泳いだ目と何か言いたげに開いた口の明らかに戸惑った表情から、いわゆる悪人の雰囲気は感じられなかった。
「あ、あのちょっと相談が……」
「あいにく、ここの者は全員席を外してまして──」
 刑事は漠然と誰もいないデスクを見渡した。そして手にした資料を脇に挟むとキャビネットの扉を閉め、すぐそばの来客用ソファーを示して言った。
「どうぞ。こちらへお掛けになってお待ち下さい。ちょっと席を外してるだけですから、電話で呼び戻します」
 男はそろそろと足を進めてソファーの前まで来た。明らかに萎縮している。刑事が何度も座るように進めたので、ようやく端っこに腰を下ろした。子供が非行に走って困り果てているのだろうか。それとも家出か、家庭内暴力か。学校や児童相談所に相談してもどうにもならなくてここへやって来たのだろうが、警察に来るのは誰でも勇気の要るものだ。
 刑事は一番近いデスクの前に行き、受話器を取って会議室の内線番号を回した。杉原の事件の捜査チームの『帳場』となっている部屋だった。そこには常時何人かの捜査員がいて、三十分ほど前に彼が顔を出したときにも、少年課の刑事がいたのを確認していた。
 電話が繋がるのを待ちながら、刑事は何気なく男に訊いた。
「どう言ったご用件ですか?」
「はあ。実は」と男は頭を掻いた。「うちの店の従業員が、ここ何日か無断で休んでまして……そのことで、ここの刑事さんに相談しようと」
「その方は未成年ですか」
「いえ、もう成人しています」と男は首を振った。「……昔ちょっと、ここの刑事さんにお世話になったんで」
「そうですか。じゃあその刑事を呼んだ方がいいですね。誰ですか?」

です」
 その瞬間、刑事は受話器を置いた。
「……杉原信一刑事ですね」
「ええ、そうです」と頷きながらも、男は刑事と、彼が切った電話を交互に見た。どうして電話が切られたのかが分からないのだ。
 刑事は男のそんな疑問を十分承知しているというような表情で一度だけ頷き、デスクを廻って来た。
「そのお話、僕がお聞きします」
「あの、でも」
「杉原刑事は長期休暇を取ってまして、ここ数日の間に出て来ることはありませんので」
「……でもおたくは、少年課の方ではないと──」
「そうです。でもお話を聞くことはできます」
 そして刑事は場所を変えて話を聞くことを提案した。男は明らかに躊躇していたが、杉原がいないとなれば、どのみち誰か他の人間に聞いてもらうしかないと判断したのだろう。それが嫌ならここで引き返すしかないのだ。しかし男はそうしなかった。どうせ杉原でないのなら、どこの課の刑事だって同じだ。そう思ったかどうかは分からないが、男は刑事についてきた。

 刑事課の来客用ソファーに座り直して、男は部屋を見渡した。
 部屋には多くの人間がいたが、刑事ばかりではないようだった。明らかに犯罪者と分かる人相の悪いのもいた。目が合うと、何を見てるんだと言わんばかりにガンを飛ばしてくる。男は慌てて目を逸らした。やっぱり少年課で話をすれば良かったと思った。
 さっきの刑事は窓際のコーヒーメーカーの前で簡易型のカップにコーヒーを注いでいた。別の刑事が彼に話し掛け、しばらくそれを聞いていた彼はカラリと短く笑うと相手に何か言った。その様子からはまるで緊張感が感じられない。さっき自分が杉原の名前を口にしたときのあの鋭い表情は何だったのだろうと男は考えた。
 やがて刑事はコーヒーを二つ持って男のもとへやって来た。
 刑事は向かいに腰を下ろし、コーヒーを男の前に置くと、上着の内ポケットから名刺を差し出した。
「申し遅れました。刑事課の芹沢です」
原田(はらだ)と言います。十三(じゅうそう)で中華料理の食堂をやっています」
「それで、原田さん。従業員の方のことで杉原に相談したいというのは?」
「うちの従業員が……ここ五日間、黙って店を休んでるんです。アパートに電話をしても誰も出ないし、他の心当たりも当たったんですが、なしのつぶてで」
「その従業員の方は えっと、名前をお訊きしておきましょうか」
 芹沢は手帳を取り出した。
山口泰典(やまぐちやすのり)と言います。今年で二十歳です」
「山口さんは、杉原とどういう関係ですか」
「昔、ちょっとやんちゃしてましてね。警察に捕まったことがある子で──そのとき杉原さんのお世話に」
 原田は言うとコーヒーに口をつけた。「暴走族に入ってたことがあるんです。その仲間と盗みの真似ごとみたいなことをやっては逃げる途中で事故を起こして。逮捕されたときはまだ十五歳でした」
「逮捕したのは杉原ですか」
「はい。ほんまにお世話になりました。私はあの子ら──いえ、姉がいるんですけどね。その両親とは旧知の間柄でした。同じアパートに住んで、隣同士やったんです。けどあの子が八歳のときに母親が事故で死んで、父親はそのあとすぐに蒸発したんです」
「それで原田さんが親代わりに」
「いえ、父親が蒸発してすぐに姉弟は母方の親戚に引き取られて行きました。それからしばらく会うことはありませんでした。けど泰典が逮捕されたときに、どういうわけか私のところに連絡が入ったんです。同じアパートに住んでた頃から、私は今の場所で店をやってましたから」
「親戚の方というのは?」
 原田は首を振った。「……泰典が暴走族みたいなもんに入ってしもたのも、その親戚のところが嫌やったからでしょう。杉原さんがそう言うてはりました」
「親戚は親代わりにはなってくれなかったんですね」
「ええ。その二年ほど前に姉が中学出て看護学校の寮に入るためにその親戚の家を出たんです。泰典はそれも寂しかったようです」
 原田は大きく溜め息をついた。「よう我慢した方やと思います」
「それで、泰典くんは逮捕のあと──」
「鑑別所に入りました。一年ほどで出てきて、うちで引き取りました。店でも働くようになったんです。けど半年ほどでふらっとおらんようになって──また逆戻りです。今度は一人で強盗ですよ」
 芹沢は黙って聞いていた。
「独り暮らしのお年寄りの家に忍び込んでは少額の金を盗んでたんですがね。ある日入ったとこで家人に見つかって、脅しのために持ってたナイフでお婆さんを切りつけたんです。お婆さん、指の大事な神経が切断されて、動かんようになった」
「今度は少年院ですか」
「もちろんです。十七でした。十七で本物の悪人になってしもたんです、あの子は」
「杉原はその事件も?」
「いえ、それは違いました。よその警察に捕まったんです。でも心配して何度も足を運んで下さいました。警察にも裁判所にも、少年院にも」
「少年院を出てきたのはいつですか」
「去年の春です。出てきたときは、今度こそ真面目になるって、私と家内とあの子の姉と、それから杉原さんの前で誓ったんです」
「それが駄目だったんですか」
「いいえ。ずっと真面目でした。今度こそ心を入れ替えたんです。店を手伝う姿勢も前のときとは全然違いました。それで、そろそろ仕込みを手伝わせてもええかなと思い始めてたんですから」
「なのに突然、店に出てこなくなったと」
 芹沢は言って原田を見た。「お姉さんに心当たりは?」
「ないようです。でも看護師ですから、勤務時間が不規則で普段からあまり会えてないみたいでした」
「本人は一人で住んでるんですか」
「ええ。半年ほど前に私のところを出しました。自立させるのも大切やと思たんです。杉原さんに相談したら、それがええと言わはって、部屋を借りるときの保証人になってくれはったんです。おかげで、それに見合うだけの立ち直り方をしてくれました」
「交友関係はどうなってました?」
「……そういう経歴がありましたから、ほとんど友達はいないようです。少年院を出てきた直後に昔の友達のようなのが何度か店に訪ねてきたことがありましたが、杉原さんが知って話をつけて下さったんです。そしたらその連中も来なくなりました」
 芹沢は溜め息をついた。杉原の尽力ぶりに、今さらながら頭が下がる思いだった。たった一人の暴走族上がりの少年をここまでフォローしているとは。今まで関わった子供の全員に対しても同じなのだろうか。じゃ、みんな合わせるとどうなっちまうんだ。芹沢にはほとんど信じられない話だった。同時にこの二日間、ひたすら面倒だと思いながらおざなりに捜査資料を目で追っていただけの自分が世界一のアホに思えてきた。──なあ若造、書類を読んで何か特別なことが分かったか?
「それじゃあ、いなくなった理由がまるで分からないと」
「ええ。何かの事故に巻き込まれたんやないかと思うほどです。新聞やニュースを気にして見てますが、あの子の名前が出てくるようなこともなければ、それらしい身元不明の死人が出たって言うこともありません。それで、杉原さんに相談しようと思ってここへ」
「そうでしたか」
「杉原さんはどう言う事情で休暇を?」
「それはちょっと、申し上げるわけにはいきません」
「……そうですか」
 と原田は俯いたが、すぐに顔を上げて芹沢を見た。「でも杉原さん、そんなこと何も
 おっしゃってませんでしたよ」
「えっ?」
「あの人、普段から自分のこといろいろ話される人でしょう。最近うちの店によう来られてましたけど、長期休暇のことなんか何も言うてはらへんかったけどね」原田は言うと首を傾げた。
「最近、お店によく来られてたんですか?」
「ええ。普段は月に一、二回顔を見せてくれはるんですけどね。ここ十日ほどは二日に一回くらい来られてました」
「二日に一度?」と芹沢は聞き返した。「多くないですか」
「ええ。せやから泰典のことも何か知っておられるんと違うかと思たんです。あの子が最後に店に出てた日も、来られてましたし」
「それはいつです?」
「六日前です」
「十月二十六日ですね」
「え、ええ」
 原田は芹沢が日付を即答したことに少し驚いていた。
 芹沢は黙って頷くと、軽く頭を下げて立ち上がった。自分のデスクに行き、電話を取ってもう一度さっきの会議室につながる内線番号を押した。
 受話器を耳に当てて顔を上げたとき、鍋島が帰ってきた。
 鍋島は間仕切り戸を開けて部屋に入ってきた。そして電話をしている芹沢と目が合ったとき、芹沢が小さく頷いて言った。
「ちくしょう、ビンゴだ」

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