2ー①

文字数 3,352文字

 助手席に秋田係長を乗せて運転をしながら、鍋島は今頃会議室で事の顛末を知らされているであろう芹沢の様子を思い浮かべていた。
 きっと頭に血をのぼらせて、植田課長か高野係長あたりに理不尽な怒りの矛先を向けているに違いない。やっぱり、あいつが来るまで待つと言うべきやったかな。それとも、階段で出くわしたときに一緒に連れて来れば良かったかも……。
「けど……まだ信じられへんわ」
 秋田係長は独り言のように呟き、首を振った。
 彼女はごく最近西天満署に赴任してきたばかりの新米係長だった。
 西天満署の管内でも、ここ数年、少女による犯罪や、逆に少女が被害者になる事件が増える一方で、それら少女の関係する事案に対応すべく、遅ればせながらこのほど少年課に特別チームが編成された。捜査員四名は全員女性で、秋田係長はその初代班長である。
 一見したところ、西天満署史上においては少しは華々しいはずのその存在に相応しくないフツーのオバサンで、階級は警部補、四十三歳という年齢から察するところもちろんキャリアではない。彼女自身も十三歳になる娘を持ち、夫は府警本部銃器対策課の警部らしい。
「──誰かて、警官やってたらこういうこともあるかも知れへんっていうの、どこかで覚悟してなあかんもんなんかも知れへんけど……少年課の刑事でしょ。難しいし、深刻ではあるけれど、子供が相手の仕事やのに。どこでどういう恨みを買うてそんなにまでひどくやられたんやろ」
「恨みを買うような人とは違いますよ、杉原さんは」
 鍋島は思わずムキになって言った。赴任して間もない秋田が杉原の人となりをまだよく知らないからそういう発言が出るのは仕方のないことだし、大目に見るべきなのだが、鍋島には聞き流すことができなかった。それはもちろん、決して杉原が半殺しの目に遭わなければならないほど誰かの心に遺恨を残すような程度の低い刑事ではないと断言できたからだが、それとは別に、人間不信の塊のような芹沢が杉原に対しては全幅の信頼を置いているという事実が、鍋島の意識にも波及しているからだった。
「もちろん分かっています。けどね、まったくの逆恨みってこともある。こちらが相手のことを心底考えて、良かれと思って接していた態度や行動が、向こうには正反対の効果を与えていたりすることも、時々あるのよ。そしてそれは、残念やけどこちらにはどうすることもでけへんわ」
「──そうですね」
 鍋島は納得していなかったが、秋田に拗ねた子供を諭すような穏やかな口調で言われると、分かりましたと言うしかないように思えた。どこにでもいるフツーのオバサンに見える秋田が、満を持して誕生した新プロジェクトの初代責任者に任命された理由は、あながちこんなところにあるのかも知れない。
 そして、彼のそんな気持ちが分かっているらしく、秋田は静かに続けた。
「だってね、鍋島くん。杉原巡査部長は救急車に乗せられるとき、あなたのところの湊巡査部長に『これは警官襲撃やない。事件にせんといてくれ』と言うたらしいわ。そのときだけははっきりとした口調で、血走った眼をちゃんと開けて湊さんの顔を凝視して」
「ほんまですか」
 鍋島は秋田に振り返った。秋田は強く頷いた。
「やられた相手をかばってるってことですか」
「どうかしら。あなたが来る前の会議では、あそこまで酷い仕打ちを受けた相手のことを杉原さんがかばうとは考えにくいという意見の方が強かったわ。でも少なくとも、相手のことを知ってるのは確かなようね」
「かばう気がないのに、何で杉原さんはそんなこと言うたんですか」
「そう思うでしょう。それで、別の考え方もできるって声が上がったわ。彼が言いたかったのは、警官襲撃事件としての扱いをしないでくれ、という意味じゃないかということよ」
 鍋島は少しだけ考えて、すぐにその意味が理解できた。そしてこれで、呼び出しが掛からなかったわけと、署内があくまで普段通りの動いている理由が分かった。
 いたずらに騒ぎ立てて府警本部やマスコミに感づかれるのを避けようとしているのだ。
「──本部事件とはしないで欲しいということですね」
 秋田は頷いた。「会議では、そのように解釈しようということになったの」
 警官襲撃事件となると、警察は他のどんな事件よりも最重要扱いする。身内が被害者であることの純粋な怒りが沸くし、警官を攻撃することは警察権力に対する挑戦だととらえるからだ。
 また、そう言う刺激的な事件は報道機関が大々的に取り上げるから、世間の注目を集めやすい。その一方で、治安を守ってくれるはずの警官が被害者になるというショッキングな事実が一般市民の不安を募らせ、検挙が遅れるほど信用も失うという、他の事件にはない悪影響をも引き起こすのだ。
 従っておのずと、捜査一課を中心に大量の捜査員が動員される特別捜査本部事件扱いとなり、はっきり言って所轄の人間は出る幕がなくなってしまう。

 杉原はそれを望まなかった、ということらしい。

 しかし、それは幹部連中の勝手な解釈ではないのだろうか。
 本部に口を出されたくないから自分たちの都合のいいように処理しようとしているのではないか。鍋島はちょっと疑いを持った。
「でも、何でですか」
「杉原さんがそう言うた理由? それはまだ分からへん。でも、分からへんうちは杉原さんの希望通りにしようということになったの。真相は彼の意識が戻ったらはっきりするやろうし、戻るまでは我々の方でもその理由を探す。もちろん、犯人も挙げる。それが第一よ」
 そこまで言うと秋田は少し苦笑いを浮かべた。「その過程で、場合によっては本部事件になるかも知れないって、署長はつけ加えてたけどね」
 そりゃそうだろう、と鍋島は思った。何と言っても警察は縦社会だ。上層部(うえ)の指示を仰がずに事が最後まで運ぶとは考えにくい。
 たとえ無事に事件が解決したとしても、報告を上げない要注意部署ということで目をつけられるだろうし、事態が悪くなってから本部の知るところとなろうものなら、それはもう、署長以下全幹部たちの責任問題は必至だ。場合によっては西天満署だけの問題にとどまらず、警察全体の威信にまで影響が及ぶことだってありうる。うちの署長がそのあたりのことを考えないはずはない。

「──それはそうと、鍋島くん。前から訊こうと思ってたんやけど、あなたのお父様って、確か──」
「ええ」そら来た、と鍋島は思った。「二年前に退官しました。長堀署長の時に」
「やっぱり」と秋田は少しだけ顔をほころばせた。「赴任してきた頃、あなたの名前を聞いてひょっとしたらと思てたの」
「──父とはどこかで?」
「いえ、私じゃなくて主人がね。お父様とは捜査二課で一年ほどご一緒させてもらったことがあるのよ。お世話になったわ」
「そうですか」
 府警に入ってからの五年半、鍋島は何度もこういった話を聞かされてきた。   
 そしてそのたびに愛想良く振る舞い、相手に対して従順な態度を取ることを強いられてきた。
 息子にしてみれば、家庭人としては最低だとしか思えなかった父の姿が幼い頃から目に焼きついて消えず、そのせいで父に対してはひとかけらの畏敬の思いなど抱いていない彼だったが、そんな気持ちはこの組織の中では相手にされないと分かっていた。だから、彼に父親の話をしてくる相手には、一貫して親の跡を継いだ素直な息子、礼儀正しいジュニアを通してきたのだ。
 そして、早い出世が親の七光りだと陰口を叩かれても、それに対して何の反論も口にしなかった。父親のような警官にだけはならないと固く心に誓って府警に入った以上、父親のことは無視しようと決めたからだ。
 まだ幼かった自分と妹から病気という手段にかえて母親を奪い、仕事というより趣味で犯罪者の検挙に情熱を傾けていたとしか思えない父親とは別人格でいたかったし、誰に対するでもなくそれを強調したかったのだ。

 車は国道を逸れ、林立する高層マンションへと続く脇道を入って行った。
 杉原巡査部長の自宅もその一つにあり、鍋島はスピードを落としてその一つ一つの棟番号を確認しながら進んだ。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み