3ー②
文字数 2,268文字
そして今、警察にやってきた少年は刑事たちに囲まれてパイプの椅子に腰を下ろしている。部屋は二時間ほど前に芹沢がトルエンの売人を殴って悶絶させたのと同じ取調室だった。中央の机を挟んで少年と鍋島が向き合い、左の壁際に芹沢、そして少年の後ろには米原が付き添うように座っている。大の大人が三人も、たった一人の子供相手に話をするような部屋ではなかったが、刑事部屋は相変わらずゴロツキどもにいいようにされていたし、少年の着替えもまだ用意できていなかったから、とりあえずはここで少年が落ち着くのを待とうというわけだ。
そうは言うものの、少年には決して取り乱した様子はなかった。
心細くなって泣いているわけでもなければ、ことの重大さに恐ろしくなっている様子でもなく、刑事たちに隙を見せまいと虚勢を張っているわけでもない。
ただ静かに、その呼吸さえも静かに、出来るだけ身動き一つしないで座っていることが、何か大きな仕事をやり終えた達成感の中で我が身を休ませる唯一の方法であると確信しているかのような、動かし難い強さのようなものが感じられる。デスク越しに少年を見つめながら、きっと今の彼にはそうする必要があるのだろうと鍋島は思った。あの路地でも彼はその達成感に浸ろうとしていたのではないか。達成感とは何か? 父親を刺した──おそらくそれで間違いはないだろう──その満足感、安堵感。
「あいつ、死んだ?」
身にまとっていた静寂の殻を弾くように顔を上げ、少年が口を開いた。うたた寝からふと目が覚めて、「今何時?」と訊くような無邪気さだった。
「あいつって?」と芹沢が訊き返した。
「
「知ってるのか、きみ」
「うん」
まるでそのことが極めて不本意であるかのように、少年は鼻のふもとに皺を作った。
「生島さんとはどういう関係や?」
ほとんど一つの答えだけを予想して、鍋島が訊いた。ところが少年は怒ったような眼差しを鍋島に返してきた。
「こっちの訊いたことはどうなってんの? 僕が先にあいつはどうなったって訊いたんやで」
些細なことでも手順を踏み越える行為には納得が出来ないらしい。誰が訊く立場で、自分はどういう状況にいるのかなどということよりも、単純に「どっちが先か」の方が大事なのだ。優先順位などは知ったことではないらしい。その辺りがまだまだ未成熟な子供だった。
「生島さんは重傷や。奥さんの
「……なんや」
少年はがっかりしたように椅子に身体を預けた。そして今までとはまるで違った、荒んだ心の若者に特有の挑戦的かつ自暴自棄な眼差しでその場の大人たちを眺め渡し、そして開き直った。
「あいつを刺したんは僕。あいつの息子や」
鍋島は頷いた。「きみの名前は──」
「
「高校生か」
「
「何であそこに立ってた?」と芹沢が訊いた。
「おかんが自分のやったことにするから、あんたは逃げって言うたんや。そんなことしてくれんでも良かったんやけど、おかんは僕を無理矢理追い出して──けど、それでええはずがないやろ? せやから向かいの路地にいたんや。おっさんがどうなったんかも気になったし」
そこまで言うと少年は一度だけ首を振ると、心底悔しそうに舌打ちした。
「……なんや。死んでないんか」
「滅多なこと口にするもんやない。殺す意志があったと取られても弁解でけへんで」
米原が我が子を諫めるように後ろから早口で囁いた。
「かめへん。父親のこと殺してやりたいって思てる子供なんか、めずらしいこともなんともないわ」
そう言うと少年は目の前の鍋島に視線を移して、
「刑事さんらは思たことないのん? ──ま、警察官になるような人はそんなこと思わへんのかな」
と、どうせあんたたちには分からないだろうという諦めの口調で独り言のように呟いた。
それをはっきりと聞いた鍋島は、実は自分が決してそうではないことをこの少年が知っていて、あえて挑発してきているのではないかと思った。
「きみがお父さんを刺した──確かに、自分の意志で刺したと言うんやな」
「うん」
──父親か。その瞬間、この子は父親が憎かったのだ。例えばそこに極めて身勝手な理由があったにせよ、あるいはひどく理不尽な衝動が彼を襲ったにせよ、とにかく彼は父親に憎悪の牙を向けた。あとに残ったのは、父親の死に体と、絶望の淵に突き落とされてもなお犠牲になろうとする母親の姿、そして彼のこの勝ち誇ったような達成感だ。鍋島はこのとき、自分がこの少年に対して純粋な畏敬と羨望の思いを抱いていることを感じていた。
この子は父親に自分の感情をぶつけた。そして、自らの手で父親を断罪したのだ。それが間違ったことだろうが何だろうが、そんなことは二の次だ。
俺にはそれが出来なかった。やろうと思ったが──いや、本当のところはどうだったのか今となっては分からない。
でもとにかく俺は何もしなかった。父親を心から憎んでいたことに間違いはなく、あいつのようにはならないと今でも堅く心に決めていることも事実だが、俺はそれでも何も行動には移さなかった。せいぜい就職と同時に家を出たことくらいだが、それすら警察学校での寮生活が決まっていたからと言ってしまえば、それだけのことだ。
顔を上げてふと気づくと、壁の芹沢がじっと自分を見つめていた。
──ちくしょう、こいつにまで見透かされている。鍋島はやがて、少年と芹沢と、そして自分に対する嫌悪で胸くそ悪くなった。