3ー②

文字数 3,001文字

 アパートの部屋で鍋島は寝転びながら缶ビールを飲み、リモコンでテレビのチャンネルを回していた。
 夜中の一時近くになっているのに洗濯機が回り、はっきり言って近所迷惑なのは分かっていた。今日こそは早く帰って五日分溜まった洗濯物を片付けようと思っていたのに、今日、死にかけの山口紫乃を発見したせいで、現場検証や病院まわりで九時頃やっと署に戻り、十一時半まで会議で足止めをくらっていたのだ。だからと言って洗濯を片付けないわけにはいかなかった。今日を逃すと、今度はいつになるか分かったものではないし、いい加減着る服もなくなってくる。

 山口紫乃は医師の診るところによれば、発見がもう一時間遅れれば危なかっただろうということだった。頭蓋骨の陥没骨折と軽度の脳挫傷がその理由で、浴槽の角で何度も頭を殴りつけられたらしいことは現場検証で分かっていた。左側の頬骨と大腿骨の一本も折れており、とにかくひどい状態だ。そしてその残酷な暴行は、隣室の看護師が彼女の部屋を訪れた午前一時から、看護師たちがマンションの玄関を出入りし始めた午前七時半頃までの六時間半ほどの間に行われたことも分かっていた。その時間に女性が誰かと一緒に部屋にいたとすれば、相手はごく親密な関係の人物と考えて良いだろう。
 山口紫乃は自分の男にやられたのだろうか。それとも杉原刑事を襲ったのと同じ連中の仕業か、あるいは強盗──いや、それは違う。必要以上に部屋を荒らし、ベランダに出る窓を開け、いかにも外部からの侵入者がいたように見せかけていたが、あれは違う。警察にそう思わせるには、ちょっと派手に散らかしすぎたようだ。
 洗濯機のブザーが鳴り、鍋島は面倒臭そうに立ち上がって洗面所に向かった。洗濯機の蓋を開け、中から衣類を取りだしてカゴに入れる。それから大きく欠伸をしながら洗い髪を掻き、籠を抱えてベランダに向かった。
 真夜中の肌を刺すような冷たい外気のベランダに出て洗濯物を干していると、玄関のチャイムが鳴った。
 誰や、こんな時間に。鍋島は部屋に戻り、玄関へ行った。
「誰?」
 鍋島はドアに向かって訊いた。
「……あの、鍋島さんですね?」
 ドアの向こうから気弱な感じの男の声が帰ってきた。
「そう。表札に書いてあるやろ」
「夜分にすいません。あの、ちょっと開けていただけませんか?」
 最初とは別の男が言った。鍋島はその苦しそうな声を聞くと、靴を履いてドアの覗き穴に顔を近づけ、片目を閉じてレンズを覗いた。
 レンズの中では、きちっとスーツを着たサラリーマン風の男が二人、その間にまた別の男を両脇から抱えて必死でバランスを取りながら立っていた。二人とも、反対の手にはコートと鞄を持っている。真ん中で抱えられている男はぐったりと頭を垂れ、顔は見えなかった。
 鍋島はドア・チェーンを掛けたままでゆっくりとドアを開け、顔を出して言った。
「今頃何のセールス?」そして抱えられている男に視線を落とす。「死体やったら、ここへ持ち込まれても困るんやけど」
「あ、あの、僕たち、興和(こうわ)銀行本店営業部の──」
「……ふざけんなよ。銀行屋がこんな時間に非常識な」
 鍋島はむっとしてドアを閉めかけたが、はっと気がついてその手を途中で止めた。
「興和銀行?」
「はい、そうです」
 ドアが開く側に立っていた男が、ほっとしたような溜め息とともに答えた。
「営業部貸付一課の、山本と言います」
「渉外課の青山です」ともう一人の男。
「とすると、こいつは──」
 鍋島は二人に抱えられている男を見下ろした。
「萩原です」と山本が答えた。「ご存じですよね?」
「ええ」
「実は今夜、彼と一緒に飲んでたんですけど、彼、こんなに酔い潰れてしもて。それでタクシーを呼んで家まで送ろうとしたら、突然、『家には帰りとうない、東三国(ひがしみくに)へ行ってくれ』って」
「ここへ?」と鍋島は顔を上げた。「ほんでおたくら、ようここが分からはったね?」
「ええ、係長、タクシーの中では意識もちゃんとしてて運転手に道案内してたんですけど、降りる頃にはまた……きっと車に揺られて気分が悪くなったんやと思います」と青山が説明した。
「あ、そうや、どうぞ」
 鍋島は萩原を抱えた二人を玄関に招き入れた。萩原はそのまま倒れ込んでしまった。
「萩原、おい、萩原!」
「係長、何かあったんですか?えらい荒れてたけど……」
「さあ」と鍋島は首を傾げた。「おたくらの方がよう知ってはるんと違うんですか?」
「俺らはさっぱり」と山本も首を振る。「それより、彼の言うままここへ来たけど、ご迷惑でしたよね、やっぱり」
「いえ、いいんですよ。こいつがそう言うた以上はしゃあないし」
「すみません。僕らも迷ったんですが、何しろ萩原がそう言い張るもんで……」
 そして山本は上目遣いで鍋島を見た。「それに、聞くところによると、あなたは警察官でいらっしゃるとか」
 鍋島は苦笑いを浮かべた。「大トラの扱いには馴れてるってことですか」
「……貧困な発想で申し訳ない」と山本は頭を掻いた。「それじゃ、僕らはこれで」
「ご迷惑かけました」
 二人は丁寧に頭を下げ、半開きのドアを開けて出て行った。
 その直後、鍋島ははっと顔を上げると慌てて表に飛び出し、廊下を行く二人の背中に向かって言った。
「あの、タクシー代……」
 二人は振り返り、山本が顔の前で手を振った。
「あなたからはいただけませんよ。明日、そいつから踏んだくります」
「そうしてやって下さい」
 鍋島は笑顔で言うと頭を下げた。

 鍋島は萩原を抱え上げて部屋に入れ、彼が相変わらず眠り込んでいる間に、途中になっていた洗濯物を干し終えた。
 やがて鍋島は水を入れたグラスを持ってキッチンから出てきた。
「……ほんま、迷惑な酔っ払いが……」
「鍋島ぁ……ここに泊めてくれるんかぁ……」
 ネクタイを緩め、ズボンからワイシャツの裾を出して大の字になっている萩原は寝言のように言った。鍋島は彼のそばにしゃがんだ。
「ほら、これ飲め」
「──ほっといてくれ──」
「あっそう」鍋島はむっとした。「ほんなら俺は寝るからな。明日は勝手に行けよ」
 グラスをテーブルの上に置き、鍋島は立ち上がると隣の部屋に向かった。
「ちくしょう、俺は許さんぞぉ……」
「え?」と鍋島が振り返る。
「……美雪は俺の娘や……」
 鍋島は戸口に立ったままで萩原を見下ろした。
「……ど、どこの馬の骨か分からん男に──」
 萩原はごろりと寝返りをうった。「美雪の……父親になられてたまるかって言うん……や……」
 鍋島は重い溜め息をついた。
「──そうか。智子が再婚するんか」
 すると突然、萩原ががばっと起き上がった。
「おい、鍋島勝也」
「何や」
「ええか。おまえなぁ」
 呂律が回らないながらもそう聞き取れる言葉を吐いて鍋島を指差し、睨みつけた萩原の目は完全にすわっていた。
「よぉ聞け。おまえはやなぁ」
「俺がどうした」
 鍋島は呆れたように言うと腕を組んだ。
「おまえは、麗子を離すな」
「……へ?」
「離すなよ。つかまえとけ」
 そう言うと萩原はまたひっくり返って大の字になり、すぐに大きないびきをかき始めた。
「……なんじゃそりゃ」
 鍋島は首を傾げながら寝室に消えた。

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