2ー②

文字数 2,876文字

 ドアを開けた瞬間、杉原の妻は何かが起こったのだと覚悟したように見えた。
「早朝から失礼します。杉原さんの奥様ですね?」と秋田が言った。
「ええ、そうですけど……あの、どちらさまですか」
 彼女の瞳は不安と困惑で一杯になり、突然現れた二人組が名乗るのを待っている。長い髪をきちんと後ろで束ね、幅広くカットした丸襟の胸元にリボンがついた千鳥格子のワンピースを着ていた。歳は三十前後といったところの、小柄な美人だった。
「申し遅れました。西天満署少年課の秋田と申します。先程来ずっとお電話を差し上げていたのですが、あいにく繋がりませんでしたのでこうしてお伺いしました。それからこちらは──」
 ただ同僚を紹介するだけなのに、秋田はその先を続ける勇気がないとでも言うように頼りない表情で鍋島に振り返ったので、鍋島は俯いて目を伏せ、すぐに小さな溜め息とともに顔を上げて言った。
「刑事課の鍋島です」
「刑事課の方──」
 そう言った瞬間、彼女の瞳は大きく開き、秋田と鍋島に代わる代わる視線を移しながら、まるでうわごとのように言った。
「……あの人が

んですね」
 秋田は鍋島と視線を交わし、すぐに逸らした。結局全部こっちに言わせるつもりだな、と鍋島は秋田のここ一番の頼りなさを恨めしく思いながら、杉原刑事の妻に言った。
「──杉原巡査部長は昨夜から未明に掛けて何らかの事件もしくは事故に遭遇したらしく、今朝六時頃、重傷を負った状態で署の近くで倒れているところを発見されました。今は病院で手当を受けていますが、その……意識が無くて重篤な状態だそうです」
 杉原刑事の妻は口もとに手をやった。
「何があったのかは今のところ分かっていません。僕と秋田係長は奥さんを病院までお連れするために伺ったんです」
「すぐに支度なさって下さい。私たちはここで待っていますから」
 秋田が申し訳程度につけ加えた。
「それから──大変申し上げにくいことですが、知らせておきたいお身内の方などがおられるなら、今の間に連絡しておかれた方がいいかと思います」
 杉原刑事の妻は鍋島が話すのをじっと聞いていたが、突然小さな嗚咽を一つ漏らすと、ゆっくりと首を振り始めた。
 唇の震えが肩に伝わり、指先、膝へと移っていくさまは、まるで絶望と恐怖がものすごい早さで全身を駆けめぐっていくのを見ているようだった。その勢いに身体を支えきれなくなったのか、やがて彼女はふらりと一歩よろめいてドアに手をついた。
 今にもその場に崩れてしまいそうで、秋田が思わず彼女の肩を支えたほどだ。そして秋田は鍋島に振り返って、咎めるように囁いた。
「鍋島くん。何も今そんなことまで──」
「あとで後悔するよりましでしょう」
 鍋島も小声で答え、杉原の妻を見た。「お急ぎになって下さい」
 秋田が眉をひそめて鍋島を凝視していた。

 支度を整えた杉原奈津代(すぎはらなつよ)を乗せて病院に向かう途中、鍋島は後部座席で秋田に抱えられるようにして座っている彼女に訊いた。
「奥さん、昨日杉原刑事は非番のようでしたが、どこかに出掛けられたんですね」
「ええ」
「何時頃お宅を出られましたか」
「朝のうちです。非番ではありましたが、仕事で何か用事があるのだと思いましたから」
「ということは、具体的な用件や行き先を告げて出掛けられたわけではないんですね」
「……何も聞いていません。でも戻ってこなかったので、てっきりそのまま署に泊まったのかと……」
「途中、何の連絡もなかったわけですか」
 奈津代は鼻をすすりながら首を振った。「もともと、こまめに連絡を入れてくるような人ではないんです。仕事で遅くなるときも、非番に用事で出掛けるときも」
「普段からよく一人で出掛ける方なんですか」
「ええ。でもそれでは困るって、仕事が仕事なんやから、もしも何かあったとき──それは、つまり……急に呼び出されるようなことがあった場合のことなんですけど──そんなときに所在をはっきりしておいて欲しいって、何度も言うてたんです。そしたら、最近やっと携帯電話を持つようになったらしくて、仕事のときはそれがあるから連絡が取れなくなるようなことはないんやって、そう言うてました」
「仕事のときはというのは?」
「主人は携帯が嫌いで……でもこれだけ普及すると、どうしても持たないわけには行かなくなったようでした。それでもまだ馴れないせいで、つい職場に置きっぱなしにして帰って来るんです。自分で番号すらまだ覚えてないらしくて。ですからまだ私も教えてもらっていないんです」
「係長、けさ杉原さんは携帯を持ってましたか」
 秋田はルームミラーの鍋島に首を振った。「ロッカーにも、デスクにもなかったそうよ」
「どういう用件で出掛けられるか、それもおっしゃらないんですか」
「ええ。でもたいていは仕事で関わったことのある子供たちの様子を見に行ってたようです。事件を起こした子供だけやなくて、被害に遭うた子供とか。そのどっちでもないけれどもあの人なりに気になる子がいたら、その子に会いに行ってちょっと話をしてみたり」
「そういう大人がいてくれると、子供は救われるわ」秋田がしみじみと言った。
「そういう子供たちの中で、杉原さんを良く思ってない子がいたのかも」
「鍋島くん」と秋田は露骨に嫌な顔をした。
「──すいません」
 被害者の家族の前で言うことではなかった。分かっているはずなのに、つい口をついて出ていた。身内の気安さがあったのかも否めないが、被害者が身内だからこそ、そんな目に遭わせたやつが許せなかったのだ。
 だから本当はこうして被害者の家族を病院に送っていくことなんかよりも、地取りでも識鑑でも、あるいは資料を調べることでも、何でもいいから容疑者を追いかけたかった。
 焦ってしまっていた。
「──私も、ほんまのこと言うと、あの人の身に何かあったときのことを心配してたんです。でもそんなことが現実に起こったらと思うと、怖くて口にできなくて──それで──」
 その先は言葉にならなかった。杉原奈津代はしぼり出すようにうめいたかと思うと、堰を切ったように激しく泣き出した。
 秋田が彼女の背中をさすり、自分も顔を歪めている様子がルームミラーに映っている。奈津代の気持ちが痛いほど分かるのだろう。彼女の夫も警察官だから。

 鍋島はいたたまれなくなって車を舗道脇に寄せて停めた。
 もちろん、自分の不用意なひとことが彼女を不安の淵に突き落としてしまったことに対して猛反省していたからだが、本能的にというか何というか、女性に泣かれるのが怖かった。女の涙を見ると、遠い日のある一日が蘇ってきそうで、それを押さえることに意識を取られてしまい、何もできなくなるのだ。たかが車の運転ですら駄目だった。
 やがて奈津代はハンカチで鼻をすすると、小さな声で言った。
「ごめんなさい」
「……俺の方こそ、申し訳ありません」
 鍋島は完全に意気消沈していた。


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