1ー①

文字数 4,033文字

 午前十一時をまわった頃になって、ようやくその女は部屋に帰ってきた。
 鮮やかな緑の襟が浮いたように見える黒のスーツに長い茶髪、厚化粧とくれば、ちょっと古いが水商売の典型的な装いだ。仕事のあとどこかへ寄って夜を明かし、そこから直接タクシーで戻ってきて、今夜の出勤に備えて今から一眠りというところだろう。怠惰な足取りで階段を上り、右肩でマンションの玄関ドアを押し開けて中に入って行く。
「──昭和風お水の定番ってとこだな。どうやらあれだぜ」
 マンションとは通りを挟んだ斜向かいにあるコンビニの駐車場の一角で、運転席に沈み込むように身体を預けていた芹沢は女の格好を見て言った。
「三十か、そのちょい前」
「店じゃ若手に勢い奪われて、焦りが出てきた頃や。愛人やるのも生き残りの手段の一つってか」
 助手席のシートを倒し、ダッシュボードの上に両足を乗せた鍋島が顔を覆っているスポーツ新聞の下から言った。ついさっきまで寝息を立てていたのに、いつの間にか目を覚ましていたらしい。

 この日の朝、鍋島と芹沢の二人は比較的早い時間から喧嘩騒ぎのあったマンションを聞き込みに回り始めた。
 どの家も出勤や登校を前にした忙しい時間であるのは承知していたし、文句の五つや六つは聞かされるだろうと覚悟もしていたが、揃いも揃って全員にかなり迷惑がられた。中には、文句などという生易しいものを通り越して、因縁をつけてきているとしか思えないような激しいものもあった。その上、皆一様に口が堅かった。刑事たちは、これでは踏んだり蹴ったりだと思いながらもその理由が分かっていた。昨日の管理人との名簿提出交渉の失敗のあと、時間をおいてしまったせいだ。管理人はおそらく昨日のあいだに、入居者全員に箝口令を敷いたのだろう。どこまでも警察は敵に回す決心を固めているらしい。
 それでも何とかねばり強く聞き込んだ甲斐があって、二人は五階に住むホステスらしき女性がどうやら例のヤクザの愛人らしいことを突き止めた。名前は川辺明美(かわべあけみ)。もちろん独り暮らし。マンションには二年ほど前に越してきて、隣近所とのつき合いがほとんど無いのも仕事柄当然。隣の部屋の主婦は、見るからに胡散臭そうな男が女の部屋を訪ねてきたのを何度か目撃しており、その度に怖い目で睨みつけられたと刑事たちに愚痴を言った。男の年齢は三十半ばか、もう少し上のようだったということだ。
「どうする? しばらくは出てこねえだろ」と芹沢は溜め息混じりで言った。
「このまま泳がせるか、直接アタックか」
「待ってられへん。直接アタックや」
「大丈夫かよ」
「フツーの聞き込みで行ったらええんや」
 鍋島は起き上がった。「今回ははじめっからおまえの出番やな。頼むで、男前」
「ああいうのは趣味じゃねえんだけどな」
 芹沢はキーを抜いてドアを開けた。

 マンションの中に入り、二人はエレベーターがこれから目指そうとしているのと同じ五階から下りてくるのを待った。開いたエレベーターは空だった。
 五階に着いて廊下に出たとき、初老の男がずっと前を歩いているのが目に入ってきた。
「ちょい待ち、あれは──」
「管理人や」
 二人は咄嗟にエレベーターホールに引っ込み、そこから廊下を覗き込んだ。
 管理人は突き当たりから二つ手前のドアの前に立ち、インターホンを押していた。そこは川辺明美の部屋だった。
「どういうこった」
「いずれ俺らが行くのを分かってて、また要らん口止めをしにきたんやな」
 芹沢はチッ、と舌打ちした。そしてエレベーターとは廊下を挟んで反対側にある階段に目をやると言った。
「向こうの階段にまわって、何を言いに来たのか聞いてやろうぜ」
「盗み聞きはようないんとちゃうかぁ」
 鍋島は言いながらも、廊下から顔を引っ込めると自分たちが今降りてきたばかりのエレベーターに戻ってコールボタンを押した。
 一つ上の六階で降りた二人は廊下を進み、突き当たりの階段を足音を忍ばせながら下りた。小さな踊り場の手前でしゃがみ込み、コンクリートの手すりの向こうで管理人がドアを叩く音を聞いた。
「川辺さん、川辺さん──」
 管理人は声を上げた。「帰らはったばかりでえらいすまんこっちゃけど、ちょっと顔出してぇな」
「ずいぶん気安そうだぜ」
 芹沢は小声で言った。鍋島は黙って頷いた。
 その時、ガチャンとドアの開く音がして、姿を現した川辺明美らしき女の声が言った。
「──なに」
「ああ川辺さん、ちょっとええかいな。話があんのやけど」
「管理人さん、うち、今帰ったとこなんよ」
 川辺明美は明らかに迷惑がっていた。
「えらい悪いな。それを承知で訪ねさせてもろたんや」
「ツケのことやったら、別にまだええよ。ママに言うたら、アケミちゃんとこの管理人さんやったらしゃあないなぁて言うてたし」
「──なんや、ツケの延長の頼みか」と鍋島が呟いた。
「そ、それもあるんやけど、あのな、そのうちここへ警察が来るんや。それで──」
「何で警察がうちとこへくるのん?」
「ゆうべ、ここのガレージで喧嘩騒ぎがあったんや」
「喧嘩?」
「せや。男が六人ほどで騒ぎよった。それで、うちの住人が警察に通報したんや」
「それがうちと何の関係があるのん?」
「──いや、あんた、ほれ……。なんでも、その喧嘩を見たもんが言うには、喧嘩の首謀者というか、一緒にいた他の若いもんに喧嘩をけしかけとった男が一人おって、それが、その……ヤクザみたいやったと言うんや」
「ふうん」
「それでな。ちょっと言いにくいんやが……あんたんとこに時々来る男の人、あの人がその──」
「その喧嘩のヤクザやとでもいうの?」と明美は笑った。「あほらし。うちの人はヤクザと違うよ。それに、そんな子供みたいな真似せぇへんわ」
「そ、それは分かってるんや。けど警察は何でも疑ってかかる。せやからあんたのとこに来て、いろいろ訊くかも知れんと思てな」
「それでわざわざ言いに来てくれはったん? 管理人さん」
「ま、まあな」
「──余計なことを」と芹沢。
 そこでまた明美はカラカラと笑った。明るい声だった。
「だいじょうぶや。うちは何も悪いことしてへんのやから、誰が来てもかまへんわ。宗右衛門町(そえもんちょう)『ドルジェル』のアケミ姉さんと言うたら、ミナミではちょっとは知れた顔や。ここらの交番の巡査なんか相手にせぇへんし、安心してぇな」
「交番の巡査と違う。刑事や」
「刑事?」
「せや。おまけに、西天満署とか言うとった」
「西天満署? 天満の? 裁判所の横の」
「ああ。あそこの刑事や」
「何でそんなとこの刑事がここの喧嘩に首突っ込んでくるんやろ」
「それがよう分からへんのや。うちの入居者名簿を見せてくれて言うてきよったけど、断ったで。んなもん、そんな権限あらへんのやから、断られて当然や。せやけどなんや、昨日の一件をただの喧嘩騒ぎやと思てないらしい」
「刑事が来るってことは、そういうことやろね」
 いささか興奮したような管理人の口調とは対照的に、明美の声は落ち着き払っていた。水商売で愛人稼業の彼女が自分を『ミナミではちょっと知れた顔』と表現したその言葉が正しいとしたら、彼女のこの平静さは至極当然のことだろう。むしろ現時点では何一つ狼狽する要素などないはずだ。
 そして──
「管理人さん、その刑事、西天満署の何課やて言うてた?」
「何課? そら刑事課とちゃうか。捜査課て言うのかも知れんけど」
「刑事課でもいろいろあるんやわ。盗み専門とか、ヤクザ専門とか」
「さあ。でやったやろ」と管理人は考えている様子だった。
「事務所に名刺が置いてあるし、それ見たら分かるで」
「まあええわ。どうせうちとこ来るのんやったら、そのときに分かるし。ヨコさん、おおきに」
 明美は初めて管理人をそう呼んだ。横山(よこやま)のヨコさんだ。
「えへ、えへへへ」
 さぞにやけているだろう管理人の嬉しそうな笑い声がおさまらないうちに、バシャンとドアの閉まる音が廊下に響いた。真顔に戻ったに違いない管理人が立ち尽くす様子が、厚いコンクリートの手すりの反対側にいる刑事たちにも容易に想像できた。
 やがて管理人が廊下を行く靴音がして、そのうち遠ざかっていった。
「──これで彼女の部屋には行けなくなったな」
 階段を下り、踊り場に腰を下ろして芹沢が言った。
「ああ。少なくとも今日はやめといた方がええ」
 踊り場の壁にもたれた鍋島は煙草に火を点けた。「あの管理人、ツケを待ってもらいたいがために要らんことしよる」
「喧嘩があったって知らなかったみたいだな。じゃあやっぱりあの女の男じゃねえってことか」
「ただ偶然知らんかっただけかも。ゆうべの九時頃いうたら、どうせ店に出てたんやろし」
「もしあの女の男がやったんだとしたら、その時間になんでここにいたんだ? 女は留守なんだぜ」
「昼間からずっと一緒に部屋にいたとかな。夕方に出勤する女を見送って、自分はここに残った。そのうち若い衆が集まってきた」
「ま、そんなところか」芹沢は立ち上がって鍋島を見た。「どうする? これから」
「メシにしよか」
「いいのかよ、そんな悠長やってて。そのうちおっさんからまた電話だぜ」
 芹沢は言うと自分の左胸を叩いた。上着の内ポケットに携帯電話が入っているのだ。
「せやから今のうちに食うとくんや。それに、知りたい情報はちょっとは手に入ったで」
「宗右衛門町の『ドルジェル』か。けどそこに乗り込むわけにもいかねえだろ」
「それは任せといてくれ」
 鍋島は言うと短くなった煙草を足下に落として踏み潰した。「車、心斎橋(しんさいばし)まで廻ってくれへんか。メシはそっちと済ませるわ」
 芹沢はじっと鍋島を見た。彼の言葉の意味を理解したからだ。
「分かった」


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