3ー①

文字数 2,757文字

 瀕死の重傷を負った杉原信一刑事が鉾流橋のたもとで発見されてから、すでに五日が過ぎていた。
 もちろん、西天満署員の懸命な努力はずっと続いていたが、残念ながら捜査状況にほとんど変化はなかった。
 最近の杉原刑事の行動に不審点及び不明点が特に見当たらず、また事件当日は杉原が非番だったせいもあって、杉原が何らかの偶発的なトラブルに巻き込まれたのではないかとの考えが捜査員たちの間で主流となり始めていた。しかしこれはあくまで杉原の普段の模範的な刑事としての印象が彼らをその結果に導いているのであって、プライべートの方に目を向けると、実際まだ何の結論も出ていないのだった。

 金曜の朝七時、鍋島は全身酒漬けで出勤した。
 前日は例の休暇の日だった。進まない捜査の状況から、同僚たちは彼が休暇を返上するのではないかと一時は期待もしたが、その気配がまるでないと知るや黙って彼を休ませた。腹が立ったが、同時にこんな労働環境のもとだからこそ彼のその姿勢は貫かれるべきだと考えていたからだ。鍋島自身もそんな彼らの思いが分かっていないわけではなかったし、多少の嫌味も黙って聞いた。
 そして休んだ翌日は必ず、こうして早めに出勤することに決めていたのだが、さすがに今朝はきつかった。
「──巡査部長、昨日はだいぶ飲まれたみたいですね」
 ロッカー室で後輩の刑事に声を掛けられた鍋島は、だらだらとした態度のまま振り返った。
「臭うか。悪いな」
「ずいぶん盛り上がったみたいですね。お祝い事ですか」
「うん、結婚式。昼間からずーっと、夜中の二時まで飲み続けや」
 鍋島は顔をしかめて頭を叩いた。
「芹沢巡査部長も来られてますよ」
「え、もう?」
「ええ。って言うか、ゆうべは泊まりだったみたいですよ。さっきここで会ったとき、うちに帰って着替えてきたって言うてましたから。それで、射撃練習場に行かれましたけど」
「ふうん」
 生意気な奴だ、と鍋島は心の中で芹沢に毒づきながら後輩を見上げた。
「なあ、悪いけど部屋に上がったら課長に俺らが射撃場にいるって言うといてくれへんか。またサボってると思われるとうるさいし」
「分かりました」
 鍋島はロッカー室を出ると拳銃を保管室へ取りに行き、それから所轄署としては設置されていることがめずらしい射撃練習場に向かった。

 練習室では芹沢が一人で標的に向かって銃を構えていた。
 鍋島はゆっくりと近づき、彼の後ろまで来るとそばにあった丸椅子に腰を下ろして腕を組んだ。芹沢も鍋島に気づいていたが、黙って引鉄を引き続けた。射撃の腕にあまり自信はなかったので、三発に一発くらいは弾痕は僅かに中心を逸れた。
「ちょっと上向いてる」
 しばらくして鍋島が言った。芹沢の構える銃口のことを言っているのだった。
「そうか。まだ直らねえか」芹沢は前を見たまま答えた。
「続けて撃つとどうしてもな」
 鍋島は立ち上がり、芹沢に並ぶと自分の銃を抜いた。その手をまっすぐに伸ばし、左手を手首に添えて狙いを定めて撃った。弾丸はほとんど同じ場所に当たり、標的の右肩や頭、左胸には大きな穴が空いた。
「さすが」と芹沢は嬉しそうに言った。「おまえと組んでる限り、少しくらい俺がへたっぴぃでも安心だ」
「俺はおまえの護衛やない」
 鍋島は腕を下ろすと芹沢に向き直った。「……泊まりやなんて、俺に貸しを作ったつもりか」
「何の話だ」
「俺が休んでる分のフォローしたんやろ」
「なんだよ。おまえが休むことがそんなに損失だってのか?」
 芹沢はふんと笑って鍋島に振り返った。「おまえが休もうがどうしようが、その尻拭いなんて俺の知ったこっちゃねえ。フォローが要ると思うんなら、そりゃあ出て来た後のてめえ自身の仕事だろうが」
「じゃあなんで泊まった」
「新しい仕事があったからさ」
「新しい仕事?」
「ああ。それも、かなり面白ぇ仕事だぜ」
 芹沢は椅子に腰掛けた。「五日経っても状況はほとんど同じだ。杉原さんの容態と同じで、良くも悪くもなってねえ。高校生カップルが公園で見たリンチの被害者が杉原さんらしいってことは、現場と発見場所の位置関係からしてほぼ間違いねえけど、はっきりと面割りできてるわけじゃねえ。例のマンションの喧嘩騒ぎとの接点もまだ出てきてねえし、ちょっとした八方塞がりってわけだ」
 鍋島は溜め息をつくと壁に背をつけた。「まあな」
「それでだな。とうとうやらなきゃならなくなっちまった」

か」
「そう」
 過去問とは、この二人の間だけで通じている隠語のようなもので、容疑者なり被害者なり、あるいは事件現場周辺で過去に起こった事件について調べる、という意味だ。この作業が、受験勉強において過去に出題された問題を一つ一つ解き、その出題傾向を見抜いて対策を練るという勉強方法と地味さの点で通じるものがあるので二人はそう呼んでいるのだ。今回の場合、杉原が過去に携わった事件について捜査資料をもとに一つ一つ調べていくということである。
「地取り、鑑取り、敷鑑の初動はずっと続いてる。けどまだ何も出てこねえ。もちろん、結論を出すのはまだ早いけどな。でもさっさと別の可能性にも取りかからねえと、時間がねえんだ」
「いつまでも本部に黙ってられへんってことか」
「そう」
「で、その過去問を振ってこられたんか、おまえが」
「俺と北村と湊さんと──今日からはおまえもだぜ」
「……なるほど。確かに面白い仕事やな」
「夜通し汚ねえ字の資料とにらめっこじゃ、こうやって拳銃の二、三発でも撃ちたくもなるだろ」
 そのとき、壁に掛かっている内線電話のベルが鳴った。
 真下に座っていた芹沢が受話器を取った。「はい」
「課長か」と鍋島は声をひそめた。
 芹沢は首を振り、相手の話を聞いている。「鍋島? いるけど」
 その言葉に鍋島は顔をしかめた。すると、思い出したように二日酔いの頭痛が襲ってきた。
「分かった。すぐに行かせるよ」
 そう言うと芹沢は受話器を戻し、鍋島に振り返った。「上にお客さんだってよ」
「誰や、こんな朝早よから」
 芹沢はにやりと笑った。「野々村さん」
「……え」と鍋島は急に不安げな表情になった。「何の用やろ」
「知らねえよ。ほら、早く行ってこいって」
 芹沢は手を振って追い払う仕草をした。鍋島は頼りなく頷くと、拳銃を持った右手をだらりと下げながらゆっくりと歩き出した。
「鍋島」
「なに」
「おまえ、すっげぇ酒臭ぇぞ」
「へぇ……」と鍋島は心細い声を出した。
「ま、仕方ねえよな」
 鍋島は小さく舌打ちして、疲れたような足取りで出ていった。
 芹沢はその後ろ姿を見届けてから、立ち上がって再び標的に向かった。

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