5ー①

文字数 4,884文字

「──昨夜の九時半頃に、五、六人の男たちによる喧嘩騒ぎを蒲生(がもう)署が一件通報を受けている。場所は太閤園(たいこうえん)近くにあるマンションの駐車場。交番から駆けつけたときには、もう誰もいてなかったらしい。通報者はそこの住人や。行ってくれ」

 今日もまたかなり遅めの昼食を摂りに入った食堂で、鍋島と芹沢の二人は席に着いた途端に鳴らされた携帯電話でこの命令一つを下され、流し込むように定食を平らげてこのマンションにやってきた。
 電話を受けてからここへ来るまでの二人はほとんど口を利かなかったが、だいたいは同じようなことを考えていた。
 この二人は一見すると好対照のコンビのようだったが、実際は共通点も相違点と同じくらい持ち合わせていた。
 その代表的なものが、警察官という職業については二人ともどこか冷めた意識で臨んでいるという点だった。
 情熱や感情をあまり表に出さず、勤務中は鍋島はどちらかと言えば淡々と、そして芹沢は冷ややかな態度に終始していた。
 出世欲などはかけらも持たず、かと言って無気力な事なかれ警官でもない。
 普段は周囲に対してできるだけ明るく、剽軽に振る舞いつつも、その一方で消すことのできない絶望感を胸の奥深くに抱き、ともすれば放棄したくなるような地味で危険な刑事稼業に人生の大半の時間を費やしている。これが二人に共通して言えることだった。
 その二人が揃ってさっき、そういった普段の姿勢とは少し違ったことを考えていた。
 警察官といえどもしょせんはサラリーマンである以上、そこそこ出世しないと値打ちがない、なるべくならそれなりの役職について、部下を将棋の駒のように動かしながら部屋のデスクで一日過ごすのもいいんじゃないか、ということだ。

 インターホンを押してもなかなか出てこない通報者の住人に苛立ちを覚えながら、鍋島はまたゆうべの麗子の言葉を心の中で反芻(はんすう)し、その意味を推し量ろうとしていた。いくら考えたところで答えの出ないことを暇があればつい思い出し、いつまでもくよくよするのが彼の悪い癖だ。
 そのとき──
「はい」
 とインターホンから男の声がした。
「──あ、お忙しいところをすいません。西天満署のものですが、長沢辰雄(ながさわたつお)さんはご在宅でしょうか?」
「お待ち下さい」
 インターホンの受話器を置く音がしてまた静かになった。十秒ほどしてドアが開き、刑事たちと同年代くらいの一人の男が姿を見せた。紺のジャージ上下にボサボサの髪、白い大きなマスクで覆った顔色が悪い。一目瞭然で風邪をひいていると分かった。
「なんでしょうか」インターホンの声と同一人物だった。
「長沢辰雄さんですか」
「ええ」
 鍋島はGジャンから警察手帳を取り出し、開いて男に見せた。
「西天満署刑事課の鍋島と言います。ゆうべの駐車場での喧嘩騒ぎのことで、お伺いしたいことがあるんですが──構いませんか?」
「……ああ、あのことで」と長沢は頷いた。「どうぞ。お入り下さい」
「いえ、お休みのご様子ですから、玄関で結構です」
 芹沢が言った。どうやら換気の悪そうな部屋に入って、長沢の風邪が感染(うつ)るのを恐れているようだ。
「構いませんよ。というより、立ってるのがしんどくて」
 長沢は首を振ると激しく咳き込んだ。
「……じゃあ、お邪魔します」
 部屋の間取りは2LDKだった。単身者にしてはやや広めだが、二人が通されたリビングの散らかりようから見て、長沢は所帯持ちではなさそうだった。
「さっそくですが、喧嘩の通報をなさったのは長沢さんですね?」
 鍋島が訊いた。聞き込みや取り調べなどで、会話のイニシアチブを取るのはほとんどの場合鍋島の役目だった。二人の間ではっきりとそういう取り決めがなされたことはなかったが、鍋島の方が刑事としての経験が多少は長いこともあるせいか、いつの間にかそうなっていた。ただ、相手が若い女などで、芹沢を選んで話してくるような場合には、応対をするのは自然と芹沢の担当に変わっていた。
「ええ。でも蒲生署にですよ。西天満署じゃありません」
「承知してます。で、その時のことを詳しくお聞かせ願えませんか」
「詳しくって、あまりたいして知りませんけど」
 長沢はソファーで足を組み替えた。「九時前頃に帰ってきて、車を停めて降りたら、駐車場の隅っこに男が二人いました」
「二人ですか」
「ええ、二人です」
「どんな感じの男でした?」
「暗かったし、僕の車から少し離れてたからよく分かりませんけど──若いのと中年の二人連れだったように思います」
「心当たりはありませんでしたか。ここの住人とか、以前に見かけたことがあるとか」
「いいえ」
「具体的に、幾つくらいか分かりますか」
「さあ……。向こうは隠れてるのが見え見えやったし、こっちもあんまりじろじろ見なかったから。何してんのか知らんけど、関わらんとこうと思て、さっさと部屋に帰りました」
 そう言うと長沢は二人を見た。「ほら、おたくらみたいな人かと思たんです」
「刑事ということですか?」と芹沢が顔を上げた。
「ええ。と言うても、具体的に刑事がどんな感じなのか知ってたわけやなかったですけど」
「じゃどうしてその二人が刑事だと?」
「何となくそう思たんです。隠れて誰かを見張ってるように見えへんこともなかったし。でも間違いやったみたいですね」 
 と長沢は肩をすくめた。「印象なんてあてにならへんということですよ。だって実際、おたくらみたいな人が刑事なわけでしょう。悪いけど、お二人とも僕にはとてもそうは見えません」
「別に悪くはないですよ」と鍋島は微笑んだ。「つまり、その二人が喧嘩しているってことではなかったんですね?」
「ええ、違います。喧嘩は──風呂から出てしばらくした頃やったかな。車に仕事の書類を忘れてきたことを思い出して、取りに出たんです。そしたら下からなにやら大声が聞こえてきて。部屋の前の廊下から見下ろしたら、駐車場でさっきの男たちがどこからか現れた別の連中ともめてました。結構派手にやってましたよ」
「別の連中は何人いましたか?」
「四人くらいかな。ちゃんと数えてへんから分からんけど」
「それで通報なさったんですね?」
「ええ。僕の車からそう離れてないとこでやってたし、傷つけられちゃかなわんと思て。新車なんですよ。それに、あのままでは書類を取りに行かれへんから」
「別の男たちの方には、心当たりはありませんでしたか」
「ありません。けど、ちょっと怖そうな連中やなかったかな」
「というのは?」
「言葉遣いが荒っぽかったから。先にいた二人連れがボコボコにやられてたみたいやし。さっきも言うたみたいに、僕はその二人を刑事かなと思てたから、刑事をボコボコにするやなんて、まっとうな人間のすることやないでしょ。それに──」
 と言って、長沢は口をつぐんだ。
「それに、何ですか」
「いや、何でもありません」
「思い当たることは何でもおっしゃって下さい」
「いえ、あまりいい加減なことは言えませんし」
「ご心配なさらなくても、おっしゃったことをそのまま鵜呑みにするようなことはありませんよ。事実関係はきちんと確かめますから」
 長沢は二人の刑事を交互に見比べた。それから大きな咳を一つすると、もったいつけるようにゆっくりと、声を低く落として言った。
「──このマンションに、ヤクザの愛人らしいのが住んでるって」
「愛人、ですか」
 鍋島は内心拍子抜けした。芹沢は黙って腕組みをすると、乗り出していた身体を椅子の背に預けた。彼も同じ気持ちらしい。
「ええ。前にエレベーターで乗り合わせた奥さん連中が喋ってるのを聞いたことがあります」
「どの部屋の住人のことを言うてるのか分かりますか」
「さあ。そこまでは」
「そうですか。ありがとうございます」
「僕が言うた、なんて誰にも言わないで下さいよ。それに、ただの噂かも知れんから」
「分かってます。それで、話は戻りますけど、喧嘩の通報をされてから長沢さんはどうなさってましたか」
「廊下から騒ぎを覗いてました。五分もしないうちにパトカーのサイレンが聞こえてきて、そしたら連中もすぐに逃げていきました」
「どの方向に向かいましたか?」
「みんな散り散りでした。駐車場の塀を越えていくものもいたし、表通りを別れて逃げていくのもいたし。最初にいた二人のうちの一人が結構ひどくやられてたみたいで、足がもつれて何度か転んでましたけど。でもみんな逃げる方が先みたいで、構ってませんでした」
「それは若いのと中年、どっちですか」
「中年の方です。そう、確かその男は表通りを西に行きましたよ」
桜宮橋(さくらのみやばし)の方向ですね」
「ええ。だったと思います」
「若い方はついて行かなかったんですか」
「それが、その頃には僕もパトカーの方に気が行って、よく覚えてないんです。一緒だったようにも思うし、違うようにも思うし」
「で、それっきりだったんですね」
「ええ。パトカーから警官が降りてきて、駐車場を見回ってましたからね。戻って来られへんでしょう。通報した僕もどうしようかなって思ったくらいですから。みんなおらんようになったし、いたずらやなって怒られるんと違うかなって……でも結局は下りて行きましたけど。あれこれ聞かれて湯冷めして、それでこのとおりです」
「それはお気の毒でしたね」
「余計な正義感は損ですわ。書類のためとは言え、おせっかいがとんだアダになった。結局こうして会社を休む羽目になったんやから、仕事なんか持って帰るだけ無駄やった」
 そこでまた長沢は激しく咳き込んだ。「……すいませんね」
「いいえ。こちらこそ」
 ほとんど同時にそう言って、鍋島と芹沢の二人は自分たちの健康のためにそろそろ引き揚げることを考えていた。

 そのあと、鍋島と芹沢は管理人に会ってマンションの入居者の情報を提供してくれるように交渉した。念のため、長沢の言っていたヤクザの愛人らしき人物を調べようとしたのだ。ところが管理人はあっさり突っぱねた。
 駐車場での喧嘩騒ぎだけでも迷惑な話なのに、入居者のプライバシーを侵すような行為にはたとえ相手が警察だろうととても協力などできないということだ。
「──こう言うちゃなんやけど、特に警察は信用でけまへんな」
 と管理人は二人に面と向かって言い放った。鍋島はおっさん、ちょっとそれは失礼この上ないんとちゃうかと思ったが、管理人の義務としては当たり前だし、刑事を目の前にしてもまるで怯まないその職業意識も見上げたもんだ。こちらも令状を取る手間を省こうとしているという弱みがないわけではなかったし、ひとまず二人は引き下がったのだった。

 車に戻り、芹沢は携帯電話で植田課長に報告した。
「──管理人に名簿を提出させるには、令状が必要です。けど──」
《そんな令状が下りるだけの確たる理由は今のところはなしか》
 芹沢の言葉を植田課長が引き継いだ。
「ええ。マンションの駐車場でヤクザっぽい男を含む数人が喧嘩をしていた。このマンションにはヤクザの愛人らしき人物が住んでいるらしい。それだけで名簿の提出に応じさせるにはかなりの無理があります。ましてや令状となると、それなりの証拠が必要です」
《それやったら名簿提出なんかに頼ってるより、自分らで一軒一軒聞き込にまわった方が早いと言うわけや》
「……今から、それをやれって言うんですね」
 芹沢は溜め息をついた。鍋島も助手席のシートに倒れ込む。
《いや、ひとまず帰ってこい》
「会議ですか、また」
《せや。あと十分したら始める。速攻で戻って来いよ》
 そう言い残して課長は電話を切った。芹沢は手の中の電話を見つめながら、
「鵜飼いの鵜だな。情けねえ」
 と呟いて電源を切った。
「今頃気づいたか」
 鍋島は煙草を吹かしながら芹沢を一瞥した。


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