2ー③

文字数 2,768文字


 刑事部屋の来客用ソファに美弥を座らせ、芹沢は彼女のために庶務担当の婦警に頼んでホットココアを入れてもらった。
 婦警の私物らしきテディ・ベアをあしらったクリーム色のマグカップを持ち、芹沢は美弥の前にやってくるとまたあの笑顔で言った。
「どうぞ」
「あ──どうも」
 美弥は両手で芹沢からココアを受け取った。芹沢は美弥の向かいに腰を下ろし、個別包装されたクッキーの袋を二つ差し出した。
「食べる? 誰かの差し入れらしいんだけど」
「ありがとうございます」
 美弥は俯いたままクッキーを受け取った。
「どうしちゃったのさ、あらたまって」と芹沢は少し訝しげに美弥を見た。
「いやあの……この前と、だいぶ感じが違うから」
「俺が?」
「うん」と美弥は頷いた。「なんかその、眼鏡掛けてるし、髪とかも伸びてて──違う人みたい」
 なんだそんなことか、と芹沢は軽く笑ってソファに体を預け、ココアに手を差し伸べた。
「冷めないうちに飲みなよ。外、寒かったろ?」
 美弥はこくんと頷くとまた両手でカップを取った。
「今日は一人? 本山茂樹くんは?」
「ゲーセンで遊んでて喧嘩に巻き込まれて、停学くろてん。それでとうとう親がカンカンに怒って、家から一歩も出られへんようになってしもて」美弥は不満げに口を尖らせた。「(どん)くさいにもほどがあるわ」
「そりゃ災難だな」と芹沢は苦笑した。「それで、今日はどんな用件で来たの?」
 頼むから面倒な話はやめてくれよと思いながら、芹沢は訊いた。
「あたし──実は、ちょっと思い出したことがあって」
「何を?」
「この前、交番で見せられた写真の男の人のことなんやけど──あたし、 あの人を別の場所で見たことがあるのを思い出したんです」
 美弥は表情を堅くして言った。
 交番で二人に見せたのは杉原刑事の写真だ。
「警官の制服着てた人のこと?」
「そう。その人」
「どこで見たって?」
「それが──」
 美弥は口ごもって俯いた。警察の方から彼女を呼びつけたわけではないのだ。自らの意志でここへ話をしに来たはずなのに、明らかに言い淀んでいるようだった。
 その様子を見て、芹沢にはピンときた。と同時に、まさかそんなはずはと自分の考えを疑った。それでも彼は訊いた。
「……ラブホ?」
「うん、そう」
 芹沢は溜め息をついた。「……本山くんと一緒だったの?」
 美弥は大きく首を振った。明らかに迷惑そうな表情をしていた。どんなときでも自分と茂樹を一括りにして考えられることが不満なのだろう。
「──

が部屋から出てきたとき、向かいの部屋のドアが急に開いて、女の子が大声で泣きながら飛び出して来たん。びっくりしてその部屋の中を見たら、上半身裸の中年の男が、ぽかんとした顔でこっちを見てて──慌てて後ろ向いたけど、あたし、何でか知らんけど、その人の顔が忘れられへんっていうか、ものすご記憶に残って。それであたし──」
「いつ頃のこと?」
「日にちは覚えてないけど、夏休みやったと思う」
「じゃあ、交番で写真を見せたときには気づいてたってこと?」
 美弥は黙って頷いた。
「さっき、思い出した、って言ったのは間違いなんだ」
「あ、うん……そう」
「つまり、交番では本山くんと一緒だったから、言えなかったんだね。別の相手とホテルに行ったのがばれちゃうから」
「……うん」と美弥は俯いた。「ごめんなさい」
「まったくだよ」と芹沢は額に手を当てて溜め息をついた。そしていささか冷めた目で美弥を見た。
「だけど、どうしてひと月もたった今になって話そうと思った?」
 美弥は考えるようにして首を傾げていたが、やがてひょいと肩をすくめると言った。
「茂樹が家から出られんようになったから」
「だから内緒の話もできるって?」
「そう。それに最初は別にたいしたことやないって思ってたん。けど一ヶ月のあいだに考えて、何かちょっと、それも違うかなあって。おっさんの警察官がうちらとそう変わらへん年頃の子とラブホにいてるやなんて、ひょっとしたら普通やないのかもって」
「……なるほどな」
 芹沢は呆然と言ってソファに身体を預けた。美弥がまだ何か喋っていたが、そんなことはもうどうでもいいような気分だった。
 杉原刑事が若い女とホテルに。それが本当だとしたら、状況から考えられるのは援交というやつか。少年課の刑事である杉原が知り合うとすれば、相手はやはり──
「──それにあたし、茂樹とは別れるつもり」
 美弥がそう言って、芹沢はようやく我に返った。
「へえ、そう」と芹沢は生返事をした。「彼が停学になったから?」
「それもあるけど、うちらもう高二やもん。そろそろ本気で受験勉強せなあかんし」
 美弥はもっともらしく言って自分の言葉に頷いた。
「進学するんだ」
「もちろん」
 美弥は言って芹沢を見つめた。彼がなぜそんな言い方をするのかが不思議なようだった。
「親は短大で十分やて言うけど、あたしは四大に行きたいねん。短大は単位取るのが忙しいてあんまり遊ばれへんらしいから、そんなん嫌やもん」
「ふうん」
 芹沢は頷くとゆっくりと立ち上がった。「岡部さん、ありがとう。貴重な話が聞けて良かった」
「あ──はい」
 美弥は意外そうに芹沢を見上げた。もういいの? とでも言いたげな顔だった。しかし相手の表情に容赦のない素っ気なさを感じ取ると、仕方なく席を立った。

 美弥と一緒に廊下に出ると、芹沢はまた最初の親しげな笑顔に戻って彼女に振り返った。
「じゃあまあ、勉強頑張って」
「……はい」
 美弥は名残惜しそうだった。合コンでお目当ての相手に自分をアピールするときのように、わざとらしいさり気なさで芹沢に熱い視線を送っていた。
「それから、本山くんと仲良くな」
「えっ?」
 きょとんと目を丸めた美弥に、芹沢は口の端に嫌味たっぷりの笑みをたたえて彼女を見下ろし、言った。
「あいつ、いいやつだぜ。きっときみにはもったいない」
 美弥の顔がカッと赤くなった。それを見られるのが恥ずかしくて、俯いて唇をぎゅっと噛んだ。勝手な妄想を膨らませ、心躍らせてここへやって来た自分と、そんな彼女の気持ちをまるで顔の周りを飛ぶ小さな虫を追い払うかのようにあっさりと台無しにした芹沢に腹が立った。
 何かひとこと言い返してやろうと思い、顔の火照りがおさまるのを待って美弥は顔を上げた。
 しかし、そこにはもう芹沢はいなかった。
 泣きそうになるのをこらえて周囲を見回すと、廊下と部屋を仕切るカウンター越しにココアを入れてくれた婦警と談笑している彼の姿があった。彼はまたあの胸がキュンとなるような笑顔で婦警を見つめていた。
 美弥は廊下を帰っていった。


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