新鮮な人〈8〉

文字数 3,540文字

「まさかこんなに早く実現するとはね!」
 助手席に座って――黒猫を抱えながら――得意満面の海府志義(かいふしぎ)
 夜が開けると、香苗(かなえ)には厳重な戸締りを申し渡した上で、ただちに探偵と助手は丘の上の探偵社へ戻った。当面の衣類や美術書等、必要と思われる諸々を大急ぎで積みこむ。   
 再び依頼人宅へ引き返すその車中である。
 宣言した通り、今後は当分、夫人・香苗の護衛を兼ねて湯浅家に寄宿するつもりだ。そして、そこを拠点に失踪した当主の行方探しに全力を注ぐ。
 飼い猫のノアローについては――
 当初、定期的に餌をやりに戻る案を探偵は主張したのだが助手に猛烈に反対されてしまった。
『どうせ僕が行ったり来たりしなきゃいけないんだろ? やだよ、面倒臭い! だったらノアローも連れて行けばいいじゃないか』
 少年は円らな瞳を細めた。
『きっと香苗さんも喜ぶよ。気が紛れるだろうし』
 探偵は抵抗した。
『だが、あいつは人見知りだからなあ……』
『ノアローは人懐こいよ。あれは人見知り(・・・・)じゃなくて――単に特定の人(・・・・)を嫌っているだけさ!』
(クソッ、そんなことは重々承知だ)
 歯をを食いしばる探偵。ほうらな? コイツも悪魔だ。流石に悪魔(ねこ)が懐くだけのことはある!
「……ところで聞きたいことがあるんだが」
 心の中で数字を数えて幾分冷静さを取り戻すと興梠(こうろぎ)は尋ねた。
「いいよ? 何が知りたいの? 猫に好かれる方法かな?」
「違う!」
 思わずハンドルを叩いてから、
「あ、いや、その――どうして昨夜、君があそこにいた(・・・・・・・・)んだ(・・)?」
「ああ、そのこと?」
 少年は肩を(すく)めた。
「探偵小説の話で盛り上がっちゃってさ! 凄いよ、香苗さん、女学生時代に乱歩も木々高太郎も小栗虫太郎も夢野久作だって粗方(あらかた)読破してるんだぜ?」
 助手の声が熱を帯びる。
「それで僕たち意気投合しちゃって、夕御飯食べてけって言うからご馳走になって、そのまま……泊まっちゃった」
 流石に少々バツが悪いのか声を高めて自己弁護した。
「でも、結果的に良かったじゃないか! 僕がいたから大事にはいたらなかったんだぜ!」
「その点は認めるよ」
 探偵は人差し指でハンドルをとんとん叩きながら頷いた。
「しかし……知らなかったな、君にあんな特技があるとは」
「あれ? 言わなかったっけ? 僕のお祖父様は薩摩藩士だったからね。示現流の免許皆伝で、父様も僕も三歳から叩き込まれたんだ。お祖父さまが亡くなってからは父様が引き継いで――中学に入るまでは毎朝鍛えられたものさ!」
 膝に抱いた黒猫を撫でながら少年は付け加えた。
「フフ、どう? 秘密を持ってるのはあなただけじゃない。親しい間柄でも僕たちまだまだ知らないことがあるんだよ」
「僕は別に――秘密なんてないよ」
「あれえ? あんなこと言ってるぞ、お前のご主人は!」
 少年はノアローの耳を引っ張った。そんな真似をしても、ゴロゴロ喉を鳴らしている黒猫。飼い主は驚くばかりだ。
 一方、志義はもっと知っていた。
 猫が何故探偵(・・・・・・)に懐かないか(・・・・・・)
 猫って奴はヤキモチ焼きなんだよ。興梠さん。
 一番でなきゃ嫌なんだ。身代わりはまっぴらだってさ!
 あなたの心の真ん中にいる誰か――
 その人がいなくならない限りこの子はあなたに(なび)かないよ。
 待てよ? 
 でもさ、それって、逆に言えば……この猫はあなたのこと……

「つ」
 
 珍しくノアローが爪を立てた。車がカーブしたせいかもしれない。
 だが、志義は引っ掻かれた手のひらを舐めながら慌てて囁いた。
「OK、わかってるって。僕は黙ってるさ。何も言わないよ。お前にだって秘密はあるもんな? 秘密(ソレ)を守る権利はある」

 ニャアー……
 
         




 ニャー……ニャア……ニャア!

「まあ、可愛いこと!」
「アハハハ、ほら、今度は、こっちだ、ノアロー!」
「嫌だ! ノアローったら! あの顔!」
 依頼人と助手(そして飼い猫)が楽しげに上げる声を聞きながら探偵は一人、主のいない書斎に篭って、抱え込んだ謎について考察している。
 まず侵入した〈賊〉について。
 先刻は名前を断定するのは避けたが、尾崎秀樹(おざきひでき)に間違いない。
 足元に猫が(・・・・・)描かれた人物(・・・・・・)
 正直なところ、湯浅夫人が警察へ訴え出なかったのは幸いだった、と興梠は思っていた。
 襲撃者である尾崎秀樹一人を捕らえて済む話ではない気がするのだ。
 新聞に書かれていた通り、今回の一連の騒動が特高が動くほどのスパイに纏わる案件なら、その背後にはただならぬ闇が潜んでいる――
 そのことを察知したからこそ、湯浅輝彦(ゆあさてるひこ)は姿を消したのだ。
(これは、大変な依頼を受けてしまったのかも知れないな?)
 だが、こうなった以上、(あと)へは引けない。
 湯浅輝彦の居場所は勿論だが、最低限、夫人と、それから、未成年の助手の少年の身はどんなことがあろうと守り抜かねば。
 不思議なことに、自分の心が踊っていることを探偵は自覚した。

〈誰かを守ること〉
〈自分の命に変えても〉
 
 忘れていた熱い思いに凍っていた血が(たぎ)る。

「俺だって」
 探偵は呟いた。
 かつては愛した人を持っていたんだ。
 全身全霊をかけて守り抜きたいと思った人を……

「ほんと! 可愛い猫ちゃんだこと!」
「でしょう? こいつ、ホントに人懐っこいんだから」

(猫……か。)
 
 現実に引き戻されて、興梠は開いていた美術書に視線を戻した。
 輝彦さんは俺が美学を学んだと知っていて、美術・絵画に明るいからこそ夫人に俺の名を教えたのだ。
 秘められたメッセージがあるとすれば、それこそ美術の中、絵画や美術史に関してだろう。
 改めて眼前の壁に掛かった絵を凝視する。
 昨日以上に明確になった点。それは――
 描かれている猫が完全な模写(コピー)であること。
 色々照らし合わせてみた結果、ベルナルド・ルイーニの《最後の晩餐》の猫と一致した。
 
 ベルナルド・ルイーニ。
 かの巨星、稀代の天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子とされる。
 とはいえ専門家以外にはさほど知られてはいない。
 最も有名な作品はサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の壁画だろう。
 この教会はルイーニのフレスコ画で埋め尽くされていると言っても過言ではない。知る人ぞ知る珠玉の聖堂。秘密の美術館。
 いつか実物を見たい、と興梠も切望していた。いつか、そうだな、夏休みとか長期休暇が取れる時期に志義と一緒にでも……
 探偵は地図を紐解いた。
 教会はスイス・ティチーノ州ルガーノにあった。
 但しスイスといってもイタリアの国境沿い、ミラノから北へ60kmという近さ。ちなみに画家のルイーノもイタリア人である。
 輝彦が模写した猫の描かれた《最後の審判》はこの教会の壁画の一つだ。フラスコ画である。
 
 さあ、これらから、一体何が読み取れる?
 猫の傍らの友人、尾崎秀樹が〈裏切り者〉だと示唆しているのはほぼ間違いない。
 だが、それだけだろうか? 
 同時にもっと他の、それ以外の意味(・・・・・・・)は含まれていないか?
 夫が愛妻に〈危険人物〉以外に一番知らせたいとしたら……
 それこそ、行き先・居場所ではないのか?

 ―― 僕がいなくなったらその時は興梠探偵社を訪ねるんだ。

 興梠は身震いした。武者震いだ。
 依頼人の夫、湯浅輝彦は俺を頼っている。信頼している。どうあってもその信頼に答えなければならない。
(俺が謎を解かなければ……!)
 ジレの裾を引っ張って今一度考え直す。
 居場所……行き先の暗示だとして、まさか、外国の当地、教会のあるルガーノ(そこ)へ高飛びしたとは考え難い。
 一応、最近出航した外国航路の乗船名簿は当ってみるつもりだが、偽名を使用されていたら探し出すのは容易ではない。それに、その辺りは警察も真っ先に調査しているはず。
 他にもっと、別の視点で何かないだろうか?
 《最後の晩餐》……
 輝彦が香苗に失踪を匂わせたのはレストランのディナー=晩餐の席だった。だが、最後(・・)などと、縁起でもないか。
 微苦笑する探偵。
 それ以外の要素は、宗教画、壁画、フラスコ画……
 待てよ、フラスコ画? フラスコ?
「あ?」

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