最高の絵〈10〉
文字数 2,989文字
今では見慣れたものとなった子爵邸の荘厳な玄関扉の前で、執事の桐生(きりゅう)は当惑の色もありありと聞き返した。
「一体、御用件は何でしょう?」
「御辛いことのあった折りに、恐縮です。ただ、助手がどうしてもお話しなくてはならないことがあるというので……」
「ですから、何のことでしょう?」
突然やって来た探偵社の面々に険しい表情を向ける執事。
「当邸の主(あるじ)であられる篤胤(あつたね)様は衝撃が甚だしく――別荘の方にお篭りです。こちらには現在、ご家族は誰も残っておりません」
「貴方で結構です」
率直に興梠響(こおろぎひびき)は明かした。
「どうか、助手の話を聞いてやってください。助手自身ひどく興奮していて、とにかく、引き取りたい、の1点張りなんです。それ以上のことは僕にもまだ話せない状態で――」
「桐生さん! 先日、4日前の夜に、僕が薫子(かおるこ)さんにお渡しした〈絵〉のことです!」
志儀(しぎ)は子爵家の執事に飛びついた。
「本当にすみませんでした! 僕が全ていけないんです! ごめんなさい!」
「ごめんなさいとは?」
いよいよ困惑の色を濃くする執事。
「ですから――何についておっしゃっておられるのでしょう? 私には皆目わからないのですが?」
「助手が言っているのは――4日前こちらに持ち込んだ、お嬢さんにお渡しした絵のことです」
取り乱している少年の腕を引いて脇へ立たせると改めて探偵が説明した。
「それをどうしても引き取りたいと言ってきかないんです。あれは間違いだったそうで、よろしければ回収したいと」
「お、お願いします! 持って返らせてください! アレは間違いでした!」
深々と頭を下げる少年。
ところが、執事はきっぱりと首を振った。
「残念ですが、それは出来かねます」
「そんな――」
「あれをお返しすることは出来ません」
忠実な子爵家の執事は厳かな声で言った。
「もはや、ここにはないからです。あれはお嬢様が持って行かれました」
手袋を嵌めた手を握り合わせる。
「そう、あの絵のことでしたら……お嬢様は大層喜ばれて……壁にかけて一晩中眺めておられました」
白手袋が翻って執事の瞼を覆った。
「そして、その夜、ご容態が急変して……」
刹那、指揮棒のようにピンと伸びた背が揺れる。が、すぐに姿勢を正すとしっかりとした声で執事は言い切った。
「発作でお苦しみになっている最中、それでも、はっきりとお嬢様は私にお命じになられました」
―― 桐生、あれを、あれをここへ。
―― これでございますか?
―― そう、それ。ここへ……
執事が取り外した絵を抱えると薫子は更に続けた。
―― それでね、おねがい。
もし、私に何かあったらこのままこれを……
これ、私……持って……行くから……
「ウソだ――――っ!」
志儀は絶叫してその場に崩折れた。
抱きとめる探偵。片や執事は憤慨して言う。
「私、天地神明にかけて嘘など申してはおりません! ことお嬢様のお言葉に関して、何でこの私が偽りなど申しましょう?」
その後、子爵家の執事はまだ何事か続けた。
今回の件で子爵が探偵社の皆様に大変感謝していること。改めて御礼に伺うつもりではあるが、何分、未だ薫子様を失った衝撃甚だしく外出など出来る状態ではないこと。云々……
「僕達のことでしたらどうぞ、お気遣いなく」
興梠は丁重に頭を下げると放心状態の助手を抱えるようにしてその場を辞去した。
子爵邸のドライブウェイに止めておいた愛車まで肩を抱いたまま戻る。
助手席に座らせてから興梠は静かな声で訊いた。
「フシギ君? 一体君はどんな絵をお嬢さんに届けたんだい?」
「……じゃない」
少年の声は掠れて判然としなかった。興梠にもすぐには聞き取れなかった。
「?」
少年は繰り返した。
「絵じゃない。絵なんか……入ってなかったんだ」
「?」
「僕が、あの日届けたのは、額――額縁なんだ……」
『君は絵なんか求めてはいない! 図星だろう?』
もし、あの場であの娘が言い返したら?
僕はもっとはっきりと言ってやるつもりだった。
君はただ興梠さんに甘えていたいだけなんだって。
無理を言って、困らせて、
独占し続けたいだけ。だから――
『そんな君にはこれがぴったりさ!』
絵など嵌まっていない空っぽの額縁。
「僕は取り返しのつかない酷(ひど)いことをしてしまった……! ああ、僕、僕……どうしたら――」
「君は酷いことなんかしちゃいないさ」
「え?」
吃驚して志儀が顔を上げる。
今、興梠さんは何て言った?
聞き間違いだろうか?
「君はまさしく〈最高の絵〉を届けたんだよ」
訊き間違いではない。
いつもの、揺ぎ無い探偵・興梠響の声だった。
「執事の桐生さんも、薫子さんは喜んで壁に掛けて眺めていたと証言したじゃないか?」
呆然とする少年に興梠は言った。
「薫子さんはね、見ていたんだよ。君の届けた額の中に彼女自身が求め続けた〈最高の絵〉を」
「――」
そうでなくて、どうして、一緒に持って行きたがる?
「彼女の〈最高の絵〉だから、宝物になったから――持って行ったんだ」
息をするのも忘れて目を瞠みはったまま動かない助手に探偵は言うのだ。
「フシギ君、君は依頼主を満足させた。今回ばかりは僕でもここまで完璧な仕事は出来なかっただろう。僕では不可能だった」
「……興梠さん!」
しがみついて泣きじゃくる助手を探偵は好きなだけそうさせておいた。
やがて――
幾分落ち着きを取り戻した少年にハンカチを手渡しながら探偵は訊いた。
こういうところ、このあくなき探究心こそ、探偵の正しい資質である。
「なあ、フシギ君? ところで、君はどう思う? 薫子さんが見ていた〈最高の絵〉は何だったんだろうな?」
「そんなの――」
涙を拭いながら志儀は答えた。
「簡単だよ! 僕にはすぐわかる。鈍感な興梠さんには無理だろうけど」
少しだけいつもの助手に戻っている。毒舌が復活していた。
「〈初恋の人〉さ!」
「いや、初めてできた〈喧嘩友達〉かも知れないぞ? ライバルは恋人以上に得がたいものだから」
一陣の風が舞って、櫟(いちい)の木の葉を揺らして去った。
そのさざめきが、探偵と助手には、少女のクスクス笑いに聞こえたのだが――
気のせいだろうか?
お馬鹿さん!
私は欲張りなの……!
初恋の人も……喧嘩友達も……
どっちもよ!
額縁の中に少女が見ていた最高の絵は――
3人揃ったの肖像画?
.。.:*・゜*・゜。:.*
少女の冥福を祈って。
〈 薫風や 天駆け上る 少女おとめかな 〉興梠
「一体、御用件は何でしょう?」
「御辛いことのあった折りに、恐縮です。ただ、助手がどうしてもお話しなくてはならないことがあるというので……」
「ですから、何のことでしょう?」
突然やって来た探偵社の面々に険しい表情を向ける執事。
「当邸の主(あるじ)であられる篤胤(あつたね)様は衝撃が甚だしく――別荘の方にお篭りです。こちらには現在、ご家族は誰も残っておりません」
「貴方で結構です」
率直に興梠響(こおろぎひびき)は明かした。
「どうか、助手の話を聞いてやってください。助手自身ひどく興奮していて、とにかく、引き取りたい、の1点張りなんです。それ以上のことは僕にもまだ話せない状態で――」
「桐生さん! 先日、4日前の夜に、僕が薫子(かおるこ)さんにお渡しした〈絵〉のことです!」
志儀(しぎ)は子爵家の執事に飛びついた。
「本当にすみませんでした! 僕が全ていけないんです! ごめんなさい!」
「ごめんなさいとは?」
いよいよ困惑の色を濃くする執事。
「ですから――何についておっしゃっておられるのでしょう? 私には皆目わからないのですが?」
「助手が言っているのは――4日前こちらに持ち込んだ、お嬢さんにお渡しした絵のことです」
取り乱している少年の腕を引いて脇へ立たせると改めて探偵が説明した。
「それをどうしても引き取りたいと言ってきかないんです。あれは間違いだったそうで、よろしければ回収したいと」
「お、お願いします! 持って返らせてください! アレは間違いでした!」
深々と頭を下げる少年。
ところが、執事はきっぱりと首を振った。
「残念ですが、それは出来かねます」
「そんな――」
「あれをお返しすることは出来ません」
忠実な子爵家の執事は厳かな声で言った。
「もはや、ここにはないからです。あれはお嬢様が持って行かれました」
手袋を嵌めた手を握り合わせる。
「そう、あの絵のことでしたら……お嬢様は大層喜ばれて……壁にかけて一晩中眺めておられました」
白手袋が翻って執事の瞼を覆った。
「そして、その夜、ご容態が急変して……」
刹那、指揮棒のようにピンと伸びた背が揺れる。が、すぐに姿勢を正すとしっかりとした声で執事は言い切った。
「発作でお苦しみになっている最中、それでも、はっきりとお嬢様は私にお命じになられました」
―― 桐生、あれを、あれをここへ。
―― これでございますか?
―― そう、それ。ここへ……
執事が取り外した絵を抱えると薫子は更に続けた。
―― それでね、おねがい。
もし、私に何かあったらこのままこれを……
これ、私……持って……行くから……
「ウソだ――――っ!」
志儀は絶叫してその場に崩折れた。
抱きとめる探偵。片や執事は憤慨して言う。
「私、天地神明にかけて嘘など申してはおりません! ことお嬢様のお言葉に関して、何でこの私が偽りなど申しましょう?」
その後、子爵家の執事はまだ何事か続けた。
今回の件で子爵が探偵社の皆様に大変感謝していること。改めて御礼に伺うつもりではあるが、何分、未だ薫子様を失った衝撃甚だしく外出など出来る状態ではないこと。云々……
「僕達のことでしたらどうぞ、お気遣いなく」
興梠は丁重に頭を下げると放心状態の助手を抱えるようにしてその場を辞去した。
子爵邸のドライブウェイに止めておいた愛車まで肩を抱いたまま戻る。
助手席に座らせてから興梠は静かな声で訊いた。
「フシギ君? 一体君はどんな絵をお嬢さんに届けたんだい?」
「……じゃない」
少年の声は掠れて判然としなかった。興梠にもすぐには聞き取れなかった。
「?」
少年は繰り返した。
「絵じゃない。絵なんか……入ってなかったんだ」
「?」
「僕が、あの日届けたのは、額――額縁なんだ……」
『君は絵なんか求めてはいない! 図星だろう?』
もし、あの場であの娘が言い返したら?
僕はもっとはっきりと言ってやるつもりだった。
君はただ興梠さんに甘えていたいだけなんだって。
無理を言って、困らせて、
独占し続けたいだけ。だから――
『そんな君にはこれがぴったりさ!』
絵など嵌まっていない空っぽの額縁。
「僕は取り返しのつかない酷(ひど)いことをしてしまった……! ああ、僕、僕……どうしたら――」
「君は酷いことなんかしちゃいないさ」
「え?」
吃驚して志儀が顔を上げる。
今、興梠さんは何て言った?
聞き間違いだろうか?
「君はまさしく〈最高の絵〉を届けたんだよ」
訊き間違いではない。
いつもの、揺ぎ無い探偵・興梠響の声だった。
「執事の桐生さんも、薫子さんは喜んで壁に掛けて眺めていたと証言したじゃないか?」
呆然とする少年に興梠は言った。
「薫子さんはね、見ていたんだよ。君の届けた額の中に彼女自身が求め続けた〈最高の絵〉を」
「――」
そうでなくて、どうして、一緒に持って行きたがる?
「彼女の〈最高の絵〉だから、宝物になったから――持って行ったんだ」
息をするのも忘れて目を瞠みはったまま動かない助手に探偵は言うのだ。
「フシギ君、君は依頼主を満足させた。今回ばかりは僕でもここまで完璧な仕事は出来なかっただろう。僕では不可能だった」
「……興梠さん!」
しがみついて泣きじゃくる助手を探偵は好きなだけそうさせておいた。
やがて――
幾分落ち着きを取り戻した少年にハンカチを手渡しながら探偵は訊いた。
こういうところ、このあくなき探究心こそ、探偵の正しい資質である。
「なあ、フシギ君? ところで、君はどう思う? 薫子さんが見ていた〈最高の絵〉は何だったんだろうな?」
「そんなの――」
涙を拭いながら志儀は答えた。
「簡単だよ! 僕にはすぐわかる。鈍感な興梠さんには無理だろうけど」
少しだけいつもの助手に戻っている。毒舌が復活していた。
「〈初恋の人〉さ!」
「いや、初めてできた〈喧嘩友達〉かも知れないぞ? ライバルは恋人以上に得がたいものだから」
一陣の風が舞って、櫟(いちい)の木の葉を揺らして去った。
そのさざめきが、探偵と助手には、少女のクスクス笑いに聞こえたのだが――
気のせいだろうか?
お馬鹿さん!
私は欲張りなの……!
初恋の人も……喧嘩友達も……
どっちもよ!
額縁の中に少女が見ていた最高の絵は――
3人揃ったの肖像画?
.。.:*・゜*・゜。:.*
少女の冥福を祈って。
〈 薫風や 天駆け上る 少女おとめかな 〉興梠