最高の絵〈5〉

文字数 3,134文字

「動物はお嫌いと窺いましたが――ものは考えようです。絵の中の生物(いきもの)たちは静かですよ!」

 4回目の訪問日。

 令嬢の自室へ入るなり探偵・興梠響(こおろぎひびき)はそう言って切り出した。
「こんな犬たちはいかがでしょう? お気に召すんじゃないかな?」
「まあ! ボルゾイ犬ね?」
「ご名答! 良くご存知ですね!」
 日本画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の近年の傑作(唐犬図)である。
 実際は屏風絵で二隻から成り、右隻の白と黒の斑(ぶち)の犬を指して薫子(かおるこ)は言ったのだ。
 探偵に誉められて少女は頬を染めた。とても得意そうだった。
 横目で見て、助手は思う。こんなに可愛らしいのにどうしてこうも腹が立つのだろう?
 暗く沈む少年とは対照的に少女は華やいだ声を上げた。
「確かに素敵な絵ですわ! なんて優美なこと……! 私、ボルゾイ犬は馬鹿だって聞いたけど」
 すかさず志儀(しぎ)が問い質した。
「へえ? そんなこと誰に聞いたのさ? 子爵のお父様にかい?」
「ツルゲーネフよ、お馬鹿さん」
「ツ、ツルゲー……」
「ロシアの作家です。まあ、貴方(あなた)みたいな子供は読んだことないでしょうけど?」
「ぼ、ぼ、僕だって読書は好きさ!」
「ふうん? あなたが読むのはどうせ探偵小説くらいのものでしょう?」 
「――」
 図星である。グウの音もでない。
「ほうら、当たった!」
 嬉しそうに手を叩いてから、くるりと令嬢は反転した。
 熱い眼差しで探偵を見つめる。
「あの、ツルゲーネフがボルゾイ犬は馬鹿だって貶(けな)しているんです。本当よ。嘘じゃありません」
「うん。《猟人日誌》でだろ?」
 探偵は髪を掻き揚げて笑った。瑪瑙のカフスがシックだ。
「アレはひどいな!」
「わ、私もそう思うわ。だって、この絵の犬たち! こんなに賢そうなんですもの。ほら!」
 探偵の同意を得て一層瞳を輝かす薫子。 左隻の茶と黒の二匹はグレーハウンドである。
「3匹とも凛として……皆同じ方向を見ている。きっと」
 探偵を振り返って少女は言った。
「大好きな人の声を聞いているんだわ。あ、つまり、この視線の先には大好きな飼い主がいるのね?」
「僕もそう思います」
「ちぇっ」
 今日もまた完全に蚊帳の外に置かれた格好の志儀だった。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで部屋の隅へ行く。
 初めて令嬢の病室に通された時から気づいてはいたけれど、そこにはピアノがあった。
 レーニッシュ社製、しかもアップライトではなくグランドピアノだ。
 手持ち無沙汰の志儀はピアノの前の椅子に座った。
 珍しく、薫子が瞳を上げてそんな志儀を見つめた。
「このピアノは――勿論、君のだよね? 君もピアノを弾くんだ?」
「弾くけど……好きじゃないわ。体力がなくて長く続けられないからちっとも面白くないもの」
 令嬢は問い返した。
「貴方もお弾きになるの?」
「まあね。姉さんよりは下手だけど」
「じゃ――何か弾いてみて」
 志儀は思った。僕の演奏を聞きたいんじゃなくて、試してるんだな?
「OK」
 受けて立とうじゃないか!
 きちんと座りなおして弾き始める。得意の1(英雄ポロネーズ)。ダ、ダダン……
 三位一体の変ホ長調! この力強いリズム! 英雄の調べ!
 が、案の定、モノの5分も経たないうちに令嬢は言った。
「おやめになって。選曲が子供ね? 私、不協和音は苦手よ。せめて、もっと静かな曲にしてくださらない?」
(ほらみたことか!) 
 絶対、僕を誉める気はないんだ。誉めるどころか認める気すら更々(さらさら)ない。
 僕が邪魔で仕方がないから。 何故なら……

 今回の依頼、〈最高の絵〉を探すことより早く、志儀が探り当てた〈真実〉がある。それは――

 きつく唇を噛むと志儀は曲目を《月光》に変更した。そうして、鍵盤から視線を外してベッドの上の二人を盗み見る。楽しげに語らっている二人を。
 少女の細い指が伸びて探偵のチャコールグレイのスーツの肘の辺りを掴んだ。
 そのさり気無い仕草。
「他に動物の絵はあって、探偵さん?」
「勿論ですよ。何がお好みかな?」
「そうねえ……馬がいいわ!」
「ドガが馬の絵を幾つも描いているんですよ! 意外でしょう?」
 探偵が差し出した美術書を眺めた後で薫子は首を振った。
「悪くないと思います。でも、もっと他も見たいわ」
 口調に微塵も嫌味は無い。素直な願望が籠っていた。
「変わった処では――これなどいかがです? 色彩が美しいでしょう?」
「まあ?」
「ポール・ゴーギャンの《浅瀬》」
「青が美しいわ! でも、待って、探偵さん」
 声を上げて令嬢が制した。
「私はこっちの方が好き!」
「そうですか?」
「よく見せて? そう、こちらの方が素敵です。何故、お隠しになったの?」
「いえ、別に。隠してはいませんよ。その絵もゴーギャン。タイトルは《白い馬》です」
「探偵さんて、優しくて嘘が下手ね?」
「はあ?」
 思わず声をあげた志儀にピシャリと令嬢は言った。
「キィを外さないで下さる?」
「くそっ」
 再び探偵に向き直って、
「確かに今、探偵さんはその《白い馬》の絵を隠されたわ。私の目はごまかされません。そして、理由も推理できてよ?」
 令嬢は悪戯っぽく目配せをした。
「きっと、その絵は〈死〉に纏わる絵だからじゃなくて?」
 興梠は頭を掻いた。
「いや、参ったな。降参です」
「だから、〝お優しい〟と言ったんです。私が病弱だからってそんなにお気を使われる必要はありません」
 小首を傾げて探偵を睨む。
「では、罰として――ちゃんと説明して下さい。その絵のこと。とても素敵な絵なんですもの」
「了解しました」
 改めて美術書のその頁を大きく広げると興梠は話し始めた。
「僕もこの絵が好きです。白状すると《浅瀬》よりもね。幻想的で静謐な絵です……」
「で? どんな恐ろしい意味が隠されているの?」
 覗き込む令嬢。
「そんな大した話じゃありません。この白い馬を、聖書で死を象徴する〝蒼褪めた馬〟だと解釈する美術研究家がいる、そのくらいのものです」
「本当に、それだけ?」
 薫子は探偵を真直ぐに見上げた。
 そんな穢れの無い円らな瞳で凝視されては堪ったものじゃない。
 探偵は観念した。ひとつ息を吐き出すと、
「それ以外では――この絵は画家の娘さんが亡くなられた翌年の作ってことかな? ゴーギャンは悲嘆のあまり、自殺を図った。未遂に終わりましたが。そして、一命(いちめい)を取り止めた画家は絵筆を持ってこの絵を描き上げたと言うわけです」
「まあ、お可哀想に……」
「死は時として、本人よりも、残された者の方により深い痛手を与えますからね」
「でも、死だけが喪失ではないわ」
「!」
 ピアノを弾いていた助手は一瞬ギクリとした。
 探偵も耳を疑った。
 人形のように可愛らしい少女の言葉とは思えない。
 だが、確かに、眼前の令嬢は言ったのだ。
「愛を失った時も……人は死と同じだけ……喪失の痛みを覚えるものよ。そうじゃなくて、探偵さん?」
「え? いや、どうだろう。それは――探偵にするには少々難し過ぎる質問です」
 ちょうどここで、銀の盆に紅茶を載せた女中を従えて執事が入って来た。

「お茶のお時間です。お嬢様」


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