1 聖月の依頼人

文字数 19,489文字

〈1〉

瀟洒な洋館。
 英国風の切妻の屋根に、かつては純白だったのだろう、今は年月に晒されて灰色になった板壁の、そのくすんだ色がまたいい。
 玄関の重厚な両開きの扉は苔色で、広い前庭を貫いて真っ直ぐに私道(ドライブウェイ)が続いている。
 敷地の周囲にぐるっと巡らせた鉄柵の塀は古城を守る兵士のようだ。
 それなのに――
 掲げられた看板が物凄く違和感を放っている。
  
     
        〈 興梠(こおろぎ)探偵社 〉

 
 古寂びた風景の美しい調和を乱す、その真新しい看板に足を止めて、繁繁と見入っていると背後でいきなりクラクションが鳴った。

 プァプァプァ――ン……!

「邪魔だよ、君? 車を入れるからどいてくれたまえ」
「あなたがここの住人?」
 道を塞いでいる人影が振り返って訊く。
「ねえ? この看板は正しい(・・・)の? 見たところ凄く新しいけど。昨日取り付けましたっていうカンジで違和感が在る」
 フィアット508のその運転手は短く答えた。
「正しいよ」
 動こうとしない人物を見て興梠響(こおろぎひびき)はもう少し付け加えた。
「看板の表示は正しい。だが、取り付けたのは昨日じゃない。三日前だ。更に、君が違和感を覚えるとすれば――この建物が元、医院だったからだろう」
「ふうん。なるほど」
「好奇心が満たされたなら――どいてくれ」
「まだだよ。最初の質問に答えてないじゃないか! あなたはここの住人なの?」
「ああ」
「ってことは……あなたが探偵なんだね?」
「そうだ。さあ、もういいだろう? どきなさい」
 中学の学帽をかぶり、中学の制服にマントを纏った少年は露骨に顔を顰めると、
「なんだよ! そう邪険にするなよ! 依頼人を相手にさ!」
 心の中で十数えてから、探偵は言った。
「ここは本物の探偵社だ。僕は子供のお遊びに付き合う暇はないんだよ」
「お遊びじゃない! 確かに僕は大人じゃないけど――正真正銘の依頼人だよ! お金だってちゃんと持ってる! 一刻を争うんだ! 僕の……僕の大切な姉さまを助けてやって!」
「?」



 洋館の二階。
 応接室と思われる一室。
 片側の窓の一面に四角いステンドグラスが嵌め込まれていて赤、緑、黄色の影を寄木細工の床に零している。
 一応ここが探偵社の事務所らしい。
「ふうーん?」
 ソファに座っても落ち着き無く周囲を見回す中学生だった。
「てんで、らしくないなあ! 僕が想像してた探偵の棲家とは物凄く違ってる! これじゃゴージャス過ぎるよ」
「むしろ、金をかけていないだけだ。探偵社開業にあたって家具や調度品を買い代える程のこともないと思って」
 紅茶のカップを少年の前に置きながら興梠は説明した。
「皆、元々あったものをそのまま使っているのさ」
「それにしても、全然不釣り合いだよ。チェスターフィールド様式の黒革ソファにウェッジウッドのカップなんて……!」
「――」
 また心の中で十、数を数えながら紅茶を啜る探偵・興梠だった。
 そんな探偵にいきなり少年は言う。
「ねえ、 探偵さん? 貴方、昔、少年に(ひど)い目にあったでしょう?」
 ぎくりとする。
「な、何故、それを?」
「実はさ、僕も将来探偵になりたいと密かに思ってて――人間観察に力を入れてるんだ。ほら、ホームズもそうしろって言ってるでしょ?」
 少年は得意そうに胸を反らせた。
「それで、出会ってからずっとあなたを観察してて、気づいたんだ。あなたは服装もお洒落で教養もある。人当たりも礼儀正しいはず。なのに、僕にはやたら冷たい態度だから――きっと過去に僕みたいな年頃の子に酷い目にあったに違いないってわかったのさ!」
 紅茶のカップをテーブルに戻して、
「どう? 簡単な推理さ! 基礎だよ(・・・・)ワトスン(・・・・)!」
「そんなのは推理の内には入らないよ」
 今度ばかりは数を数えずに単刀直入に探偵は言い返した。
「確かに僕は君みたいな〝可愛らしい顔〟で〝探偵小説マニア〟の〝制服姿の中学生〟が大嫌いだ。だが、依頼人だというなら、拒絶はしない。要件を聞こう」
「――」
 肩を(すく)めてから、少年は、一応、姿勢を正して自己紹介した。
「僕の名前は海府志義(かいふしぎ)。中学三年生だよ。依頼したいのはコレ――」
 少年が通学用の肩掛け鞄から取り出した物。
 それは二枚の絵だった。

「?」
 どちらも小振りのカンバス――サイズにして2号くらいか――に描かれている。
 紅茶カップを隅に寄せて志義は二枚の絵をテーブルの上に並べた。
「先月の末から今月に入って送られて来たんだ。ねえ? この絵を見て、どう思う?」
 
 最初に送られてきた絵は肖像画、もしくは風景画。
 画面左に二本の木が描かれていて、右側に人物(男)が描かれている。
 一方、二枚目は静物画と言っていいだろうか?
 どう見ても鈴としか見えないものが二個並べて描かれていた。

 正直に興梠は言った。
「ちょっと……わからないな」
「貴方、帝大で美学を修めたんだろ?」
「何でそれを?」
「言っただろ? 僕も探偵志願だって。だから、今回の件で誰に依頼すべきかそれなりに調べたのさ!」
 これだから、この手の少年は油断がならない。
 興梠は息を吐いた。
「いくら美学を学んだからって、素人の絵をいきなり見せられては無理というものだ」
 少年は食い下がった。
「でも、絶対、この絵には意味があるはずなんだ! でなきゃ姉さまがあんなに怯えるはずはない! 姉さまはこの絵を見てからというもの落ち着かなくなって……夜もあんまり眠れないみたいで……そりゃ酷く(やつ)れてしまった……!」
 少し優しい声になる探偵。
お姉さんに(・・・・・)送られて来た絵なんだね?」
 思い出したように少年はポケットから生徒手帳を取り出した。挟んである写真を抜き取る。
「これが僕の姉さまだよ。世界で一番大切な人だ。だから、僕は姉さまを(いじ)めるやつを絶対に許さない!」
「――」
 写真の中で微笑んでいる美少女を指し示しながら志義は説明した。
「名前はゆきこ。歳は18歳。今年の春、女学校を卒業した。どう? 勿論、僕の依頼、引き受けてくれるよね?」
「そうだな……」
 じっと見入っている探偵の手から慌てて少年は写真を奪い返した。
 再び丁寧に手帳に挟みながら、
「〝好み〟だった? まあ、姉さまに見蕩れない男なんてこの世にいないけどさ。姉さまのいる処、取り巻き連中の輪が幾重にもできるんだ。だから、探偵さんも恋しちゃダメだぜ? とてもあなたなんかの手に届く人じゃないから」
 改めて探偵は思った。
 〝可愛らしい顔〟で〝中学の制服を纏った〟〝探偵小説マニア〟の、その上、〝肉親にゾッコンの少年〟は大嫌いだ。
 
 この話、断ろうかな?

〈2〉

「この二枚の絵が届いた時の状況をもっと詳しく知りたいんだろ? わかってるって。探偵は必ず依頼人にそれを要求する。だから僕はちゃんと整理してきたよ」
 当の探偵が引き受けるかどうか決断しかねている間に依頼主の中学生は話しだした。
「一枚目の絵が届いたのは先月の末11月30日。その時、父さまは既に秘書と共に会社へ出勤したあとで、僕と姉さまは朝食を食べていた――」

     

「お嬢様? お嬢様宛に玄関にこんなものが届いております。でも、変でございます」
 女中頭のキヨが首を傾げながらダイニングルームへ入って来た。
「宛名にはお嬢様のお名前がしっかりと記されているのに、差出人の名はどこにも書かれておりません。いかがいたしましょう?」
「どれ、キヨ、みせて?」
 切手も貼っていないところからして直接置いて行ったと思われる。
 包みを解くと、中から出てきたのが、〈二本の木と男〉の絵だった。
「へえ? 変わった絵だなあ!」
 志義(しぎ)はマーマレードを塗ったトーストをほおばりながら覗き込んだ。
「それにしても――姉さまの崇拝者の誰かが名前を書き忘れたのかな? こんな妙な絵を描いて贈り物にしたがるような気障(きざ)な男に心当たりはあるの、姉さま?」
「――」
 姉の顔は引き攣って真っ青だった。
「姉さま?」
 志義はトーストを皿へ置くと、改めて絵を手にとって眺めた。
「どうしたのさ? この絵が何か?」
「返して!」
 次の瞬間、姉は弟の手からその絵をひったくった。

     

「普段、穏やかで(しと)やかで……そりゃもう天使のように優しい姉さまが、荒々しく僕の手からその絵をもぎ取ったんだ! ホント、吃驚したよ!」
 醒めた紅茶を飲み干して少年は言うのだ。
「それで、何かおかしいと思ったのさ! そしたら、一週間後の12月7日……」

     

 その日は、少年の姉は父と一緒に得意先のパーティに出かけて不在だった。
 遅く起きて来た志義は廊下で包みを抱えた女中と出くわしたのだ。
 慌てて志義は女中を呼び止めた。
「キヨ! それ、姉さまに来たんだろう? 見せてみろ!」
「え? はい、坊ちゃま。でも――」
「いいから! 姉さまには後で僕から見せるよ」
 一枚目と同じく、差出人の名は記されていなかった。
 自室へ持ち帰って包みを開くと出てきたのが、静物画――〈二個の鈴〉の絵というわけだ。

     

「ね? 最初の絵より、こっちはもっと変わった絵だと思わない?」
「ふむ――」
 興梠(こおろぎ)は訊いた。
「お姉さんには見せたの?」
「そりゃ、勿論! 僕は嘘なんかつかないよ!」
 大いに憤慨して少年は早口に答えた。   ※デコルテ=ドレス
「その夜、パーティから帰るなり、まだデコルテ姿の姉さまに見せたさ! その日の姉さまは青いデコルテでお伽話から抜け出たみたいに綺麗だった! 姉さまは特に青が似合うんだ! そんなお姫様みたいな姉さまが絵を見たとたん震えだした。そのまま溶けてしまうんじゃないかと僕、心から心配したよ」
「君の感情描写はこの際不要だ。お姉さんの反応の方をもう少し詳しく話してくれ」
 明らかに少年は傷ついた様子だった。
「チェ。姉さまは……ただでさえ円らな瞳を更に大きく瞠って……この得体の知れない絵をじーっと見つめていた。それから」
「それから?」
「僕を見つめた。いっぱい涙をためた目で。僕はハッとした。姉さまは僕に何か言おうとしたけど、遂にその花びらのような唇から言葉は出てこなかった……」

     

 口を閉ざす姉に代わって大声を上げたのは志義だった。
「何なのさ!? この絵に何かあるのかい?」
 たまらず姉の、夜会用の長手袋をつけたままの腕を握り締める。
「何か困ったことがあるのなら、僕が力になるよ、姉さま? だから、隠さず言ってみてよ!」
「いいの」
 姉は首を振った。高く結った黒髪。銀のティアラも一緒に揺れる。
「いいえ、わからない。この絵が何なのか、誰が描いたか、私にも全くわからない。でも、いいの。だ、大丈夫よ、志義ちゃん? 多分、何でもないことだわ」
 
 
 何でもないはずはない。
 以来、明らかに姉の様子はおかしくなった。
 夜もよく眠れないようだし、昼もぼんやりして、ため息ばかりついている。
 そうかと思うと――


「僕をじ-っと見ているんだ。僕が気づかないふりをしてるといつまでもそうしている」
「君の思い込みじゃないのか?」
「思い込みなものか!」
 冷徹な探偵の言葉に志義は憤った。
「その証拠に、一度、姉さまがそうしている時、いきなり顔を上げて見つめ返したんだ。そしたら、姉さま、物凄く動揺して……」



「何? 僕の顔に何かついてる、姉さま? さっきからずっと見てるけど?」
「あ、いえ、何でもなくってよ。ただ、志義ちゃん、大きくなったなあと思って。本当に、あの泣き虫さんが……」
「そうさ! 今じゃ、姉さまの方が泣き虫さんだろ?」
 また姉の美しい瞳に涙が煌めく。
「ねえ、姉さま? 僕は姉さまの言うとおりもう子供じゃない。だから、悩み事があるなら僕に教えてよ? 力になるから。どんなことをしても姉さまは僕が守ってみせる! 安心して! 絶対に僕は姉さまの傍を離れないからね! 永遠に!」
「志義ちゃん……!」


 
「もうあとは言葉にはならなかった。感極まったように姉さまは僕を抱きしめて、ただもう泣きじゃくるばかりさ」
 ステンドグラスから零れた宝石のような影を少年は見つめている。
 一方、探偵はというと、先刻からずっと腕を組んで俯いたままだった。
「そう言う訳で、僕はもう居ても立ってもいられず行動を起こしたんだ!」
 今日は12月20日。
 二枚目の絵が届けられてから、13日目。
 明日でかっきり2週間というわけだ。
 「この間、一日だって無駄にしたわけじゃないぞ。伝手(つて)を辿って絵画に詳しい探偵を探した! そして、遂に行き着いた! あなたのことだよ? 開業したてだってね? じゃ、どっちにとっても幸運だったな? だって、僕は初めての依頼人だろ?」
 矢継ぎ早に少年は言う。
「勿論、姉さまにも美学を学んだ探偵に調査を依頼することは話して了解は取った。姉さまも、絵の意味は全くわからないから、それを読み解いて教えてもらえるならと、凄く喜んでいたよ」
 賑やかな光の床から寡黙な探偵に志義は視線を戻した。
「で、こうして、やって来たわけ。さあ、教えてくれよ? この二枚の絵の意味するものは何? 一体、()が、そして、()が、僕の大切な姉さまを混乱させ、苦しめているんだろう?」

「……わかったよ。依頼を受けよう」

「え?」
 露骨に素っ頓狂な声をあげる少年。
「何だ! まだその段階(・・・・)なの? のんきだな!」
 顔を上げると、少年の言葉は無視して、興梠響は言った。
「依頼を受けたからには、ぜひとも君に聞きたいことがある」
「って? 重要なことは全て話したけど?」
「いや、肝心な点が抜け落ちている」
 ツイードのジャケットの下、モスグリーンのジレの裾を整えながら探偵は言った。勿論、一番下の釦はきちんと(・・・・)外している。ジョージ四世以来の伝統をこのお洒落な探偵は踏襲しているのだ。
「絵を包んであった纸について、だ。君の説明では一切触れられていない。持っているかい? 僕はそれが一番見たいんだが」
「――」
 みるみる少年の顔は蒼白になった。
 次に真っ赤になった。
「まさか、君、『捨てた』とか言うんじゃないだろうね? 絵、本体も勿論貴重だが、それを包んでいた――曰く〝周辺備品〟も謎を解くにあたってはこの上なく重要なモノだぞ」
 少々得意げに、笑いを噛み殺して興梠は言った。
基礎だよ(・・・・)ワトスン(・・・・)
「くそっ!」
 少年は身を翻してチェスターフィールド調のソファから飛び降りた。
「大急ぎで取って来る! 捨ててはいないはずだ!」

〈3〉

 少年が戻って来たのはほぼ1時間後のこと。
  冬の陽はとっくに落ちて辺りは闇に塞がれてしまった。
 しんしんと冷え渡る12月の夜である。
 とはいえ一時間で取って返したという事実は、興梠(こおろぎ)探偵社の建っている地所を思えば驚異的な速さだった。
 多分、往復タクシーを使ったに違いない。
 このことで一応少年の身分に嘘はないことが立証されたが。
 依頼人は紛れもなく上流階級の子息なのだ
 そして、その美しい姉が何らかの理由で脅されている、というのもあながち嘘ではないだろう。

「持って来たよ! 包み紙!」
 
 事務所に飛び込むなり自分自身が往復ずっと走って来たかのように少年は荒い息をして叫んだ。
「二枚めのは僕の部屋に、僕がそこで開けたから、そのまま机に置いてあった! 最初のは――幸運だった!」
 少年は正直にその事実を認めた。自分で言う通りこの子は嘘つきではないようだ。
「キヨ――僕の家の女中だよ、が大切に取っておいてくれたんだ! それというのも――」
 ――包み紙のせいだった。
 絵を包装してあった纸は二枚とも美しい千代紙を貼り合わせたものだった!
 もったいなく思ったキヨは捨てずに持っていた。
「美意識のある送り主だな? 包み紙が千代紙だなんて。この点について君は一言も言及しなかったが」
 また少年は頬を染めた。
「その上、凄く重要な痕跡がここには残されているぞ!」
「え?」
「見たまえ!」

 興梠が指し示した箇所。
 包み紙に張り付けた宛名の箇所。
 明らかに書き直した形跡がある。

 《海府■■ゆきこ様》
 
 ゆきこの上が塗り潰してあって、その下に新たに名前が書かれている。


「どっちが一枚目の絵を包んでいた紙だい?」
「こっちだ! 扇模様の方……」
 ありがたいことに美意識のある送り主のおかげで、千代紙の模様から一枚目か二枚目かは容易に判別できた。 
 そして、両方とも、名前の上に書き直しが認められた。
「これはどう言う意味だろう?」
 上気した頬で少年は探偵を振り返った。
「送りたい相手の名を、しかも、二度も間違えるなんて! そんなことある?」
「普通はありえないな。だが今回はこのことが絵の謎を解く鍵になるかも知れない」
 絵に込められた謎は謎として、絵のレベルは中々のものと興梠は見た。
 これほどの油絵の素養のある者なら一応の教養もあるはず。それなのに一度ならず二度も宛名を書き損じている――
「君のお父さんの商売相手に外国人はいるかい?」
「勿論さ!」
 むしろ外国人の方が多いと少年は即答した。
「海府商会は御祖父さまが明治になるとすぐ設立したレースの製造卸の会社なんだ!」 
 繊細で美しい〈海府レース〉は、国内は言うまでもなく欧州で絶大な人気を博してる。
「当然、取引相手は西洋人だらけさ! だからだよ、今月――西洋で聖月に当たる12月はパーティばっかり! パーティ漬けの毎日だ。父さまも姉さまも招待に応えて出席するだけでそりゃもう大変なんだ!」
「君の大切なお姉さんの取り巻きに西洋人はいる?」
「そりゃ……勿論。だけど、何故そんなこと聞くのさ?」
 不審も(あらわ)に少年が探偵の顔を見返す。
「絵の謎はそっちのけでさ?」
 絵の方は兎に角、と興梠は北叟笑(ほくそえ)んだ。心の中で。
 送り主の方は存外早く判明するかも知れないな?

 美しい千代紙と書き損じた宛名……

「確認するが、君のお姉さんの名前……〝ゆきこ〟さんは、漢字ではどう書くんだい? 雪子? 幸子? それとも、由紀子?」
「どれも大外れさ!」
 再び取り戻した得意顔。
 まだあどけなさの残る中学生は探偵の差し出した紙に姉の名を書いてみせた。
 
     《六花子》

「なるほど、姿に違わぬ美しい名だな!」
「言うまでもなく姉さまは12月……しかも24日生まれなんだ! その朝、雪が降っていて父さまは感動に(むせ)んでこの名をつけたって。フフ、父さまはロマンチストで凝り性なんだ。僕の名も、変わってるだろ? 子規(しき)じゃないよ。よく間違われるけど、志義(しぎ)。尤も、姉さまの名の方は、母さまが猛反対したらしい」
「どうして?」
「美しいには美しいけれど儚げな名前だから。すぐ消えてしまうんじゃないかと。それで、音は同じだけど表記は〈雪〉をやめて漢語的表現の〈六花〉とした。とはいえ、儚く消えてしまったのは母さまの方だったけどね。母さまは二度目のお産で――つまり、僕を生みおとすとすぐ、その日の夕方に死んでしまったんだ。僕の誕生日が母さまの命日というわけ」
 少年は長い睫毛を伏せた。
「さっき言い忘れたけどね、僕の名はその夕方……母さまを失った悲しみで父さまの頭の中にはその歌しか思い浮かばなかったからだってさ」
 朗々と志義は歌い上げた。

「心なき身にもあわれは知られけり(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ……」

 言わずと知れた西行の名歌である。
 ロマンチストの父親は息子の方も音だけ残して――鴫を志義として命名した。
 その悲しい話を聞きながら、自分も、早くに母を亡くしたことを言うべきかどうか探偵は逡巡した。
 だが当の少年はすぐに言葉を継いだ。
「だけど、僕は寂しい思いをしたことは一度もない。いつも傍に姉さまがいたから! 姉さまは、母さまが死んだその日から、自分が母さまの代わりになると誓って、どんな時も僕のそばを離れず、守り、育ててくれたんだ! たった四歳しか違わないのに!」
 双眸を青く燃え滾らせて少年は拳を握った。
「だからこそ、今度は僕が姉さまを助ける番だ!」
「君の決意のほどは、充分にわかった」
 探偵は静かな声で促した。
「じゃ、今日のところは、君はもう帰りたまえ。明日から僕は色々調べてみよう。何かわかったら、すぐ連絡するよ」
 先刻、姉の名を書かせたメモパッドに連絡先の詳細を記させると、当然というように探偵は付け足した。
「この二枚の絵は預からせてもらうよ?」



 
 少年を返してから、遅い夕餉をとり、風呂に浸かったあと興梠響は事務所にしている部屋へ戻った。
 パジャマにガウンという、この男にしては砕けた格好。
 ウイスキーのグラスを持って一人がけの椅子に腰を下ろすと改めて二枚の絵を眺めた。
 風景画(或いは肖像画とも言える?)……〈西洋人の男と二本の木〉の絵。
 静物画……〈二個の鈴〉の絵。
「うーん……模写ではないことだけは確かだ。こんな絵は見たことがない」

 カタッ!

 幽かな物音。
 一人暮らしの興梠の室内で?
 
 だが、勿論、興梠は驚かなかった。
「いけない。色々あったんで、今日はまだ餌をやってなかったな?」
 絨毯の上をゆっくりと歩いて来たのは黒猫だった。
 興梠は可愛らしいバラの描かれたカルベール焼きのファイアンスの小鉢に餌を入れると床に置いた。
「さあ、お食べ、ノアロー」
 ノアローと呼ばれた猫は顔を突っ込んで食べはじめた。だが、興梠がそっと手を伸ばすと絶妙の差で体をくねらせる。
「――」
 今に始まったことではないので興梠は慣れていたが。
 そう、実際、興梠は未だに、過去一度も、飼い猫であるこの黒猫に触れたことがなかった。
 嘘ではない。
 拾ったその日さえ、雨に濡れて玄関ドアの前で蹲っていた子猫は、帰宅した興梠がドアを開けてやると、さっさと自分で邸内に入って行ったのである――
 以来、餌の時間にだけ何処からともなく(何しろ元医院だけあって広い邸である)現れて、食べ終わるとまた消え去る。首に巻いた真紅のビロードの紐は飼い始めた頃、獣医に結んでもらった。しかもわざわざこの邸まで来てもらったのだ。自分ではどうやっても、黒猫を捕まえられなくて。
 ひょっとして……と、半ば本気で興梠は考えていた。
 あの猫は実在しない、幻の猫なのかもな? 
 孤独な自分が作り出した〈幻想の同居人〉。
 だから、触れることができないのだ。
 獣医だの餌だの、猫にまつわる事柄は全て己の妄想である。
 それならそれでいい、と興梠は思っている。
 どうやら、自分は人に――特に好いた人間に――嫌われる属性があるみたいだ。
 その上、近づいて来るのは嫌いなタイプばかりとくる。

 今日の依頼人・海府志義(かいふしぎ)

 数年前、自分を地獄へ叩き落とした某少年に似ている――
 だが、ままよ。
 探偵は孤独な人間に似合いの職業である。
 大家族に囲まれた幸福な探偵を君は見たことがあるか? ないだろう?
 

〈4〉

「遅いよ!」
 
 繁華街。当世流行りの喫茶店(ミルクホール)
 悠然と入って来た探偵に少年は頬をふくらませて抗議した。

「どのくらい待たせれば気が済むんだ!」
「こっちにも都合ってものがある。そんなに急ぐんなら、君が直接来ればいいだろう?」
 翌日、早速少年に呼び出された探偵だった。
 とはいえ、グレンチェックのコート、お揃いのハンチング、アスコット巻きにしたマフラー、と身だしなみは完璧である。
「あそこは遠すぎるよ! あんな丘の上! そう毎回タクシーってわけにはいかない。この件は父様には内緒で僕が小遣いをはたいてるんだ。それにさ、あんたは愛車を持ってるじゃないか! あれ、フィアット508?」
 興梠(こうろぎ)が何も言わないので続けて志義(しぎ)は言った。
「それからね、依頼人は大切にすべきだぜ? ホームズだって『誰それさんから噂を伺いまして』って芋蔓式に依頼者が訪れてるじゃないか」
「わかったよ」
 心の中で十回、数をカウントするのにはもう慣れっこの探偵だった。
 この年頃と付き合うには言い争ってはダメだ。むしろ寡黙な方がいい。必要最低限の話だけをするべし。
「で? 何の用なんだ?」
「新しい絵が届いたんだ」
「え?」
 正直この展開は予想していなかった。
 では、あの二枚で終わりではなかったのか?
 まだ続きがある?
「今朝、玄関に置かれているのを、今度は執事が見つけた。これだよ」
 少年は喫茶店の重厚なマホガニーのテーブルの上にその絵を置いた。
サイズは同じ。カンバスの2号。だが――
 今度ばかりは、帝大の美学卒の探偵・興梠響にはひと目でわかった。
「これは……模写だよ!」
「え? 本当? 知ってるの?」
「当たり前だ。元絵はあまりにも有名……」
 いや、有名過ぎた。
 竹内栖鳳(たけうちせいほう)の《班猫(はんびょう)である。
 興梠が口を開く前に志義は包み紙を差し出した。
「――」
 受け取って、重々しく頷く探偵。
「ね? 今度は書き損じてないだろ?」
 その通り。ちゃんと〈海府六花子(かいふゆきこ)様〉と記されていた。
「どう思う?」
 興梠は呻いて一言。
「コーヒー!」
「え?」
「僕に濃いコーヒーを!」

 

 コーヒーを運んで来た女給を見て志義が露骨に鼻を鳴らした。
「品が悪い!」
「君の姉様というわけには行かないさ」
 流石に興梠が注意する。
「だがな、彼女たちは生きるために一生懸命頑張っている立派な労働婦人だぜ」
「違うよ。僕が言ったのはエプロンのことさ!」
 自分がオーダーしたアイスクリームを金のスプーンで掬いながら志儀は言った。
「僕の家はレース製造卸だと言ったよね? 直営店の売り子さんは全員エプロンをつけてる。それがユニホームでもあるんだ」
「そう?」
 絵の方をルーペで丹念に見ながら気のない返事を返す興梠。
「ウチのエプロンはあんなものじゃない!もっと清楚で気品があって、そのくせ華やかなんだ! 自社製のレースをふんだんに使ってて、結婚祝いなんかに好まれる人気商品なんだよ」
「へえ?」
「……興梠さん? エプロンなんてどれも一緒だと思ってるだろ? 自分はお洒落なくせにさ」
 アイスについていたウェハースを音を立てて噛み齧って志義が呟いた。
「そんなだから女性にモテないんだよ」
 興梠は絵から顔を上げた。
「僕がモテないってなんでわかる?」
「そりゃわかるよ! あなたの家、まるっきり女っけなしだったもん!」
「ひ、広いからだろ? こう見えても、女友達の一人や二人……」
「広さは関係ない。まあ、謂わば、整い過ぎてるってことかな? わかる? わかんないかなあ? あなたの家にはね、〝華やかな乱雑さ〟がない。〝甘美な混沌〟に欠けている。女友達なんているもんか!」
「クッ」
(1、2、3、4、5……)
「どう?図星だろ? 基礎だよ、ワトスン!」
 高らかに笑った後で少年は身を乗り出した。
「それで? その三枚目の絵からわかったことは何? 今度はあなたが僕を驚かす番だよ?」 


「この絵は竹内栖鳳の《班猫》の完璧な模写だ。違うのは絵のサイズと油絵で描いてある点だけ」
「?」
「オリジナルの《班猫》は日本画だ。竹内栖鳳は我が国を代表する日本画家なんだ」
 帝大で美学を学んだ探偵はざっと説明した。
「今度、事務所へ来た時に、画集を見せてやろう。だが、ほとんど、ここに描かれている通りだ。
 本作は大正13年に描かれた。画家が沼津に滞在中、彼の地の八百屋の猫に魅せられてその場で買い取って描いたそうだ。この」
 パーカーの万年筆で猫を指し示しながら、
「毛並みが反時計回りになってるだろ? それから、猫自身のポーズもまた反時計回り。だから、見る者を終わりのない渦の中、半永久的な空間へと誘う……」
「ホントだ! 吸い込まれる気分になる!」
 油絵に模写しても全く違和感がないのは竹内栖鳳の有している画風のせいでもある、と興梠は思った。
 この画家は若い時、欧州に渡ってコローやターナーの影響を受けた。だから、日本猫を描いても何処か異風の香りがする。
 まさかとは思うが――
 まだ熱心に猫に見入っている少年に、一応探偵は訊いてみた。
「君や君のお姉さんの取り巻き連中、またはお父上の知り合い等、君の家に出入りしている人の中で手に絵の具をつけている人なんかいないだろうな?」
「うーん……ちょっと思い当たらないよ。悪いけど」
「いいさ。こっちもそうスラスラと上手く行くとは思っていない」
 探偵小説じゃないのだから。
「それより――君に一つ頼みがあるんだが」
「へえ? 何? どんなこと?」

        

 興梠はポプラ並木の下の舗道に車を止めて待っていた。
 少し先に少年の自宅――興梠の住む丘の上の洋館に勝るとも劣らない煉瓦張りの豪奢な大邸宅が見える。
 さて、時間にして小1時間。

 コツコツ……

 窓ガラスを叩く音で読んでいた本から顔を上げる。
「お待たせ!」
 興梠がドアを開けると少年は冷たい風と一緒に助手席に滑り込んだ。
「ご要望通り――持って来たよ、ほら!」
 運転席の興梠の膝の上にバラバラと投げ出された数枚の写真。
「目星いヤツを粗方アルバムから剥いで来たんだ」
「悪いな。見終わったらすぐ返すから、待っててくれ」
 本来なら自分の足でやるべきことなのだが、今回は時間がない。
 少年が家から持ち出したもの――探偵が依頼人に求めたもの――とは、姉・六花子の熱烈な崇拝者たちの写っている写真だった。
 謎の絵は三度とも直接玄関先に置いてあったのだから、ある程度家の事情に詳しい者、出入り可能な人間である。と、そこまでは興梠は読んでいた。
 一緒に写真に写るくらいの仲。
 そして、三枚目の絵を見て決定的になったもうひとつの〈特定要因〉とは――

 興梠は素早く写真を繰って行った。その様子を少年は助手席のシートに凭れてぼんやりと見ていた。
 年頃の美しい娘とそれを取り巻く青年たちの写真。
 思いのほか多かった。
 パーティ会場に夏の高原。
 ロッジ、スキー場のゲレンデ、薪の燃える暖炉の山荘、湖の畔。
 それから、これは何だ、植物園の温室? 音楽会の会場。劇場のロビー……
 二、三枚の写真を残すとそれ以外を少年に返した。
「そっちはもういい」
「何? 気になるものを見つけたの?」
 おおよその顔ぶれは絞り込んだ。
 六花子の周囲にはいつも大勢の取り巻きの青年がいた。(少年の言ったことは誇張ではなかったのだ。)
 それも当然のこと、と興梠は思う。
 幼くして母を亡くしたとはいうものの苦労知らずに育った資産家の美しい娘。
 だが、美しいだけではない。
 興梠は素直に認めた。
 その娘の持つ――何だろう? 何と言えばいい? 
 涼風? せせらぎに足をつけた刹那、感じる清冽さ? 
 そして、なにより、溢れるような……溢れるような光の粒子。
 光の国に住む乙女だった。
 男たちはこの種の娘に魂を鷲掴みにされる。
 一生涯守り抜いてやりたいと心に誓うものだ。
 自分自身が毎日、一番近くでその芳しい光に照らされたくて……!
 かく言う自分もかつて一度その光に照らされ、そして、取り逃がしたことがある。
「泣いてる? 興梠さん?」
「まさか」
 孤独な探偵は親指で頬を擦った。
「悪いけど、姉さまは誰とも結婚なんかしないよ!」
 容赦なく少年は言った。
「そんな風にたくさんの男どもに取り巻かれてるけどね? でも誰とも結婚なんてしない」
「何故?」
「だって、その中の誰一人も好きじゃないから!」
「どうしてそう言い切れる?」
「そ、それは」
 言い淀む少年。だが、きっぱりと言い切った。
「直接、僕に姉さまがそう言ったから! どんな男も好きじゃない。一生、誰とも結婚なんかしない。ずっと僕と一緒にいるって」
「それはいつの話? それを聞いたのはいつだい?」
 少年の目が怒りに燃えた。だが、ここは探偵が押し切った。
「それをお姉さんが君に言ったのはいつ?」
「……5年前」
「なあ? 5年も経てば人は変わるよ」
 特に少女は――
「君だってそれはわかってるだろう?」
五月蝿(うるさ)い!」
 探偵の言葉を少年は遮った。
 爪を噛む。
 寂しい魂がここにも一つ。
 二人の代わりに空が涙を零してくれた。
 
 鉛色の空から雪が降り始めた。

〈5〉

「そこに写っている人のことをできるだけ詳しく教えてくれないか?」
 舞い落ちる雪を見つめながら、気を取り直して探偵が訊いた。
「いいよ。これがチャリー・マーチ、イギリス人。倫敦(ロンドン)の出身。と言っても、日本で生まれたから母国語と同じように日本語を喋れる。姉さまや僕の幼馴染だ」
「瞳の色は何色?」
 変なことを聞くなあ、という顔を少年はした。
「えーと、青かな」
「じゃ次、この人は?」
「それはエリク・ヴェルナー。オーストリア人。首都の維納(ウィーン)から4、5年前両親と日本へやって来た。その親御さんがうちの商売相手というわけ。目の色は緑」
 少年は次々に説明していく。
「デビット・トターン、フランス人。故郷は巴里(パリ)だって言ってた。とはいえ、この男も日本で育ったから日本語は堪能だよ。瞳の色は茶色。それからこっちがペーター・ホルト。 莱府(ライプツィヒ)出身のドイツ人。留学生で現在、帝大へ通ってる。瞳の色は……彼も緑だ!」
 ここで少年は気づいたことを率直に尋ねた。
「日本人はいいの? 西洋人ばかり訊いてるけど?」
「まあね。ほら、君のお姉さんを常に一番近くで取り巻いてる人たちだからさ」
「そりゃ、西洋人は積極的だからなあ!」
「例外はこの人だが」
「ああ? (るい)さんか? 彼は仕方がない。通訳だから」
「このペーター・ホルトは、まださほど日本語はできない。それで、累さん――小峯累(こみねるい)って言うんだけど、その人、帝大のドイツ語専攻だからいつも狩り出されるんだよ」
「ホルトさんのご学友というわけか?」
「それもあるけど。累さんは元々アルバイトで僕の父さまの仕事上の通訳もやってたし、僕の家庭教師もしてくれてた」
「〝くれてた〟っていうことはもうやめたんだね?」
「僕の父さまと累さんのお父さんが学生時代の友人だったんだ」
 記憶を手繰り寄せるように鼻の頭に皺を寄せて少年は説明した。
「でも、累さんのお父さんは若死にして、累さんは苦学して帝大へ入学した。父さまは気にかけてずっと援助して来たけど、今春、無事卒業して外務省に就職したからもうアルバイトの必要はなくなったのさ!」
「これは?」
 通訳の青年を挟むようにして立っているもう一人の男。長身の西洋人を興梠(こうろぎ)は差した。
「それはギルベルト・リンデン。ドイツ人だよ。出身は漢堡(ハンブルグ)だそう。姉さまの取り巻きの中では一番新しい。昨年日本にやって来たばかりだから。でも、流暢な日本語を話す。実際、流暢過ぎるほどだ。それで、ここだけの話――」
 志義(しぎ)は神妙な顔で声を潜めた。
「日本の内情を探りに来たスパイじゃないかって他の取り巻き連中は影で囁いてる。きっと嫉妬や妬みからだろうけど。ご覧の通り、物凄くハンサムで背も高い。絵に書いたように金髪碧眼(きんぱつへきがん)でさ! 他の男どもなんてとてもじゃないけど太刀打ちできないよ!」
「金髪碧眼ってことは彼も?」
 探偵は念を押した。
「うん。瞳の色は――そう、リンデンさんも緑だ!」
「ありがとう。凄く参考になったよ。こっちの写真は暫く持っていてもいいかい?」
「かまわないけど?」
「じゃ、失敬」
「え? え―? ちょっ……」
 さっさと少年を車外へ押し出すと雪空の下、フィアット508は走り去った。
 興梠響は助手席に少年を乗せるのを好まない。悪夢が蘇るから。

        

「見事に当てが外れたな……」
 一人呟く探偵だった。
 〈絵〉の意味を読み取るより、それを描いて届けた〈人物〉を探し当てる方が早いと読んだのだが。
 予想に反して、暗礁に乗り上げてしまった。
 少年に大体のプロフィールを聞いて、翌日から(くだん)の西洋人5人について調査を続けている。
 だが決定的な特定には至っていない。
 三日目の今日も、一日を虚しく費やして戻って来た。
 事務所に足を踏み入れた瞬間、冷水を浴びたように凍りついた。
「!」
 明かりもついていない冬の夕暮れの薄闇の中、ソファの上にいたのは――


「君? 志義君?」
「ん? いけない! ついウトウトしちゃってた……」
 のっそりと起き上がる。
「ど、何処から入った? いや、そんなことより――」
 探偵に衝撃を与えたのは、少年の膝に乗っているモノ。
「ノアロー!」
 眼前の探偵の、尋常ならざる動揺の理由が少年には理解できなかった。
「ど、どうして、その猫がそんなところにいるんだ? と言うか、どうやって、そいつに触った?」
「え? ああ、この子?」
 探偵の目の前で少年は猫を抱き上げると頬ずりをしながら言うのだ。
「人懐っこい猫だなあ! 一階の裏のね、トイレの窓が少し空いてたんで、そこから侵入したら、こいつがすっ飛んで来てさ。ずっとそばを離れないんだ。どうかした? 大丈夫だよ、あなたの家の物は、誓って、何一つ壊してなんかいないからね、僕」
「――」
「あそこがこの子の通り道――通用門だったのかな? ふふ? 勝手に通ってごめんよ、猫くん?」
 脱力感でいっぱいになって(いや、敗北感か?)興梠は近くの椅子に倒れ込んだ。
「あれ? 興梠さん? どうかしたの?」
「いや、何でもない」
「この子、何て名だって? ノアール?」
「……ノアローだ。だが、まあ、ノアールでもいいよ。同じことだから。(フランス)語だと語尾の発音はぼかされるからな……」
「ノアールー? ノアロー? 〈黒〉って意味だよね?」
 くすぐったそうに少年は笑った。
 事実、くすぐったかったのかも知れない。あんなに猫に顔を擦りつけられては。
「全く、あなたらしい、てんでヒネリのない、面白みのない命名だなあ!」
(い、1、2、3、4、5……)
 漸く一番肝心なことを思い出して探偵は訊いた。
「ところで、何しに来たんだ、君?」
「また、届いたんだよ」
 少年は猫を抱いていない方の手でソファの横に立てかけてあったカンバスを手繰り寄せた。
「ほら?」
「!」

 四枚目の絵。
 それは今までで一番、奇妙な絵だった。
 二本の木に鳥――鷹のようだ――が描かれている。
 そして、真下に置かれたカード。


「全くわけがわからない!」
 少年は肩を(すく)めてみせた。
「今朝、また玄関先に置かれていた。見つけたのは、今度も女中のキヨ。包み紙はやっぱり千代紙で――宛名は、今回も完璧に記されていた。ほら、持って来た。これだよ」
 探偵に渡しながら、
「どう思う? 何とか言ってよ?」
「――」

《海部六花子様》

正確に書かれた包み紙の宛名を確認してから、その四枚目の絵に視線を戻して、つくづく見つめる興梠響。
 今度のは、風景画ではない。静物画でも、いわんや、動物画でもない。
 一番当て嵌るとしたら――抽象画……心象風景?
木が二本描かれている。その前を翼を拡げて鷲が飛んでいる。鷲の真下に一枚のカード……
「このさ、カードが一番、意味深だよね? トランプ? でもそれにしては絵柄が奇妙だ」
「!」
 少年の言葉にハッとする。
「違う、これはトランプじゃない。タロットカードだ!」
 絵を少年に預けると机へ飛びついて引き出しからそれを取り出す。
 孤独な探偵は手慰みに少々タロット占いをした。
 絵の中の1枚と同じ絵柄を抜き取る。
「カード番号はⅩ(10)、〈運命の輪〉」
「意味は?」
「タロットには表と裏、常に両義の意味がある。この〈運命の輪〉の正位置の意味は、転換点、幸運の到来、変化、出会い、解決、定められた運命」
「じゃ、逆位置の意味は?」
「別れ、すれ違い、アクシデント……」
 志義はため息を吐いた。
「なるほど。カードの意味はなんとなくわかったけど。でも、絵全体の意味はまるっきりわからない……」
 興梠にとっても、それは同感だった。
 
 〈6〉

 二人は今までに届けられた四枚の絵を床に順に並べて眺めてみた。
 四枚全部で何かひとつの意味を表しているのかもしれないと思ったからだ。
 その間も黒猫はずっと少年のそばを離れなかった。それについては、興梠(こうろぎ)は無視することに決めたが。

二人はいろいろな観点で四枚の絵を見比べてみた。
 まず、共通点。
 一枚目と四枚目の〈二本の木〉。
 生き物ということなら一枚目の人間(男)、三枚目の〈猫〉、4枚目の鳥(鷹)。

「組み合わせはまだあるよ! 二枚目の〈鈴〉と三枚目の〈猫〉!」

 足元に擦り寄って甘える黒猫を抱き上げると志義(しぎ)は指摘した。
「ほら、〈猫に鈴〉って言うじゃないか!」
「ふむ?」
「鈴と言えば、気がついたんだけどさ。この二つの鈴は微妙に違うよね?」
「どこがだい? 言ってみてくれ」
「こっちは西洋の鈴だ。教会の鐘楼に吊るされてる、或いは、そう! 身近なところではXマスのモミの木に飾られるベルの形。で、こっちは日本の鈴。神社や、それこそ、猫の首につけるのはこの形だよ!」
「なるほど。言われてみればその通りだ」
 共通点なら――
 少年の腕の中で甘く喉を鳴らす(そんな声を初めて聞いたぞ?)猫を横目で見ながら興梠は心の中で思った。
 実はまだ他にある。決定的なヤツが。
 三枚目の絵を見せられた段階で、実は探偵はそのことに気づいていた。
 それこそがこれらの絵を読み解く突破口だと――合鍵(マスターキィ)だと思った。
 だが確証を得るまで依頼主には黙っていたのだ。
 それこそ――

     《緑色の眼》
 
 班猫(はんびょう)は明らかに(まだら)の日本猫であるにもかかわらずその瞳は緑色をしていた。
 そして、一枚目の人物もまた、よく見れば瞳は緑色なのだ。

「なあ、君、この人物をどう思う? 君が思ったままを言ってみてくれないか?」
「え?」
 腕の中のノアローを撫でながら少年は一枚目の絵に近づくと繁繁と眺めた。
「男。壮年。紳士」
「他に気づいたことはないかい?」
「西洋人だ。緑の眼……」
 少年はパッと振り返った。
「あ! だからか? だから、興梠さん、姉さまの西洋人の取り巻きを執拗に調べてたのか!」
「ご明察。かなりの確率で行き着いたと思ったんだよ。包み纸に千代紙を使う。いかにも西洋人のやりそうなことだ。そして、最初の二回、宛名を書き損じた点」
「どういうこと?」
「たとえかなり流暢に日本語を話せても書くとなると別だ。特に漢字はね」
 思い当たって少年は眉を上げた。
「そうか、姉さまの〝六花子(ゆきこ)〟……それが書けずに、手こずったのがあの塗りつぶした跡なのか! そうして、遂に諦めて平仮名にした?」
「その通り。で、描いた本人を突き止めれば絵の意味もわかると僕は思ったのさ。だが、現実に、〈緑の目を持つ人物〉は三人いて――」
「うん、ヴェルナーとホルトとリンデンだね?」
「結局、今日までの段階では確証を得られなかった」
 ここで柱時計の音が鳴り響いた。

 ボン・ボン・ボン・ボン・ボン・ボン……

「いけない!」
 少年は慌てて床に猫を下ろした。
「もうこんな時間なの? じゃ、僕は帰るよ。姉さまが待ってる! 憶えてる? 今日は姉さまの誕生日だから、毎年、家族だけ、水入らずでお祝いするんだ!」
 自分の前を素通りして去って行く黒猫を目で追いながら興梠は言った。
「僕の車で送って行くよ」
「そうだ、忘れるところだった!」
 玄関の扉の前で少年は振り返った。
「明日のパーティは興梠さんも来てよ? 姉様に、あなたを招待してほしいって頼まれたんだ」
「明日? パーティ? ……なんのパーティだい?」
 驚いて聞き返す探偵。
「やだな! Xマスじゃないか!」
 もっと驚いて、志義は答えた。
「明日はうちの海府家が主催だからね! 毎年、親しい取引先やその家族を招いて盛大に行うんだ。『今年はぜひ、お世話になっている探偵さんもお誘いしなさい』って姉さまが言うんだよ。ホント、僕の姉さまは聖母マリアみたいに優しい人だからなあ!」

            

 
 少年を自宅へ送り届けてから、邸へ帰って来た興梠響。
 いつものように一人で夕食を食べ、風呂へ入り、ウイスキーのグラスを片手に事務室へ戻った。
 何一つ片付けられていない。
 やるせなさでいっぱいだった。
 絵の意味もわからない。描いた人物も特定できない。
 やはり、こんな奇妙な依頼は受けるべきではなかった。
 もっとありきたりの――浮気や使い込み、結婚を予定している相手の正確な所得等、普通の調査をするべきなのだ。探偵小説ではないのだから!
 それを、よりによって〝不可思議な絵〟の謎解きだと?
「やれやれ、初仕事だというのに……ん?」
 その時、嘆く飼い主の姿など見えないかのように颯爽と黒猫が目の前を通り過ぎた。
 ちょうど四枚並べた謎の絵の前を右から左へ。
 右から左(・・・・)

 ところでカンバスは右から順番に、一枚目・二枚目・三枚目・四枚目と置いてあった。
 何気なく興梠は猫の移動するままに目で追った。


 人物(男/西洋人)、二本の樹、鈴(西洋の鈴)、鈴(日本の鈴)……
「!」

 まてよ?

 先刻の少年の声が蘇る
『この二つの鈴は……違うよね? 西洋の鈴と日本の鈴だ!』
 それから今しがた自分が漏らしたぼやきの言葉。
『普通の調査をすべきだった! 探偵小説ではないのだから!』

 探偵小説(・・・・)

 何だろう? 何が引っかかるんだ?
 少年のせいか? 
 依頼人の海府志義(かいふしぎ)は二言目にはホームズを引用し、自ら探偵小説ファンだと公言している。
 それにしても――
 あの三枚目の班猫の緑色の眼(・・・・)……
 そして、全く理解不能な暗号のような(・・・・・・)4枚目の……

「あ!」

 探偵は椅子から転げ落ちた。
「何だ!そういうことか!」
(そんな簡単なこと――)
 次の瞬間、興梠は叫んだ。
「おい、ノアロー! 褒めてやるぞ! おまえのおかげで謎が解けた! ご褒美をやるからおいで!」
 勿論、黒猫は振り返りもせずに廊下へと走り去った。
「こら! ノアロー! 俺の――飼い主の言うことは聞けないのか? ったく、 戻って来い! 戻って来いったら、ノアロー……!?」

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