2 仕草

文字数 22,377文字

 1
 *.:*:.。.: *.:*:.。.:

「こりゃまた――派手にばら撒いたものだな!」
 足元に花を零して乙女は困惑して立ち尽くしていた。
「笑ってくださって結構よ! ええ、私は欲張りなの。だってあんまり綺麗だから……持てるだけ持って帰りたかったの、私の部屋まで」
 半分泣きそうになって乙女は言うのだ。
「私の部屋って、物凄く陰気で暗いんですもの!」
「それなら、これをお使いなさい」
 通りがかったその青年がリュックから取り出したものは――
「スカーフ?」
「風呂敷というんですよ。僕の国の言葉で。ああ、そんなんじゃダメだ、どいて」
 慣れた手つきで青年は散らばっていた花を拾い始めた。ちゃんと花片(はなびら)の部分は外へ出して、くるくると巻いて縛り上げる。
「まあ! なんて器用なの?」
 肩越しに覗き込んで感嘆の声をあげる乙女。
 (さざなみ)のような金の髪と鴉の羽のような青年の黒髪が一緒に揺れた。
「魔法みたい! 何と言ったかしら? オリガミ――そう、折り紙みたい、その布!」
 興奮して乙女は叫んだ。
「私、11年前のパリ万博で見たわ、折り紙のマジックを! 6歳だったけど未だに憶えてる!」
「ああ、そうですか? 連日、鶴や船や風船を折るのが実演されたそうですね?」
 一枚の平たい纸から立体の様々な物体が出現する様を目の当たりにしてパリっ子たちはそれを〈魔術〉と呼んで喝采したとか。それはともかく、
「……さあ、できた!」
 瞬く間に篭に入れたブーケのように仕上がった風呂敷包を青年は差し出した。
「どうぞ! これで大丈夫、 全部おうちまで持って帰れますよ」
「ありがとう。それで――」
 乙女は悪戯っぽく微笑んで見せた。
「刀は何処に隠してらっしゃるの、サムライさん?」
 明るい笑い声が響く。
「西洋の人は皆、それを言うな! 僕たちが刀を振りかざしていたのは大昔ですよ?」
 青年はポケットを探ると、
「しいて言えば――今の僕の武器はこれかな?」
 東洋の青年の手の中にある絵筆を見て乙女はまた目を瞠った。透き通った水色の目。パリの空よりもっと薄い蒼。
「あら、あなたは絵描きさんなのね?」
「いや、今はまだ違います。でも、いつか、きっと……」
 こちらは黒曜石のように濃い瞳を輝かす青年だった。
「そう呼ばれるのが僕の夢です。そのために、僕ははるばる海を渡って来たんですから!」
 乙女は頬を染めて尋ねた。
「じゃ、今は何とお呼びすればいいのかしら?」
「ハァ?」
「だって、〈未来の絵描きさん〉では長くて不便ですもの」
「?」
「名前を教えて、と言っているんです」
「ああ、そうか! 僕の名は……僕の名はね……」

 1911年、春。
 仏蘭西(フランス)はパリを望む、通称〝要塞の土手〟にて。
 
 その日、空は青く澄み、風は甘く二人を摺り抜けて吹き過ぎて行った……


 *.:*:.。.: *.:*:.。.:



「May I help you ?」
「?」
 でなければ
「Est-ce gve je deviendrai pouvior ?」
「WERDE ich macht warden ?」

 先刻より門扉の前で行ったり来たりしている人影に、思い余って志義(しぎ)は声をかけた。
 目の覚めるような長身、赤毛(ストロベリーブロンド)、白い肌に、薄い水色の瞳。年齢は20代半ばといったところ。
 振り返った美青年は少し悲しげに眉を寄せた。
 志義が慌てて、
「英語でも仏語でも独語でもない? じゃ、オランダ語? それともスペイン語ならお分かりになりますか?」
 美青年は首を振って志義の言葉を遮った。
「ありがとう。でも、大丈夫ですよ、日本語で。と言うよりも――僕は日本人です」
「え?」
 吃驚して目を見張る。
眼前の青年はどう見ても〈西洋人〉にしか見えなかった。
 父の仕事の関係上、幼い時から西洋人と交わって育った志義の目を通しても。
「あ、これは、失礼しました。僕は、てっきり、あなたが、そのーー」
 頬を染めて謝罪の言葉を探す少年に、西洋人のような青年は手を振って詫びた。
「こちらこそ、却ってお気を使わせて申し訳ない。間違えるのは君だけじゃないよ。どうも、僕は――」
 青年は赤い髪を掻き揚げた。
「母の血の方を濃く引いてしまったらしい。僕は父親が日本人、母親がフランス人なんですよ。藤木・エミール・雅寿(まさひさ)といいます」
 声をかけてもらって助かった、と青年、藤木は笑った。
「中々、門の中に入って行く勇気が出なくて。君は――この探偵社と関わりのある人ですか?」
 よくぞ聞いてくれた、とばかり志義は中学の制服の胸に手を置いた。
「ええ、僕はここ興梠(こおろぎ)探偵社で助手を勤めている海府志義(かいふしぎ)というものです。何か――探偵に用事でしょうか?」
 門扉を押し開けながら弾んだ声で言った。
「そういうことなら、僕がご案内します!」

 少々誇張があるとは言え、この少年、海府志義がここ興梠探偵社を開業している探偵・興梠響(こうろぎひびき)の助手だというのは事実である。
 少年自身、将来は探偵業に就きたいと熱望している。
 そういうわけで、学校の授業を終えると毎日のように丘の上の洋館、元医院だった探偵社へ足繁く通っているのだ。
 とはいえ、この探偵社、お世辞にも繁盛しているとは言い難いので、たいていどうでもいい話をして時間を潰し、猫に餌をやって、夕方、自宅へ帰るのが日課だ。
 今日、やってきた混血の青年こそ、何ヶ月ぶりかで現れた貴重な、本物の、依頼人らしい。
 志義は制服のポケットの中で拳を握り締めた。
(やったぁ! こりゃ、この依頼人(おきゃく)を絶対に逃すわけにはいかないぞ!)


「実は、僕がこちらを訪ねるのを躊躇していたのは――こんなことを依頼していいものかどうか迷ったせいです」
 腰を下ろした探偵社の事務所。
 広い洋館の二階、元、応接室と思われる豪奢な一室である。
 片側の窓には時代物のステンドグラスがはめ込まれていて黄色、緑、赤、美しい光の漣を床に零している。明治時代に渡欧した探偵の祖父の趣味である。部屋の中央、据え置かれたチェスターフィールドの黒革のソファ――こちらは探偵の父の趣味――に赤い髪の青年はよく似合った。宛ら、一幅の絵のごとく。
(さしずめルーブル宮のパルミジャニーノの肖像画だな?) 
 帝大で美学を修めた探偵は心の中で思った。但し、この青年……
「どうぞ、おっしゃってみてください。遠慮はいりませんよ。僕でお力になれることなら喜んでお手伝いいたします」
「――」
 助手が運んできた紅茶に手をつけず、暫く青年は押し黙っていた。
 漸く目を上げる。と、今度は目の前の探偵を食い入るように見つめた。
「?」
 探偵・興梠響は片手を伸ばして促した。
「さあ、どうぞ?」
「え? ああ、わかりました。では、言います。その、つまり――」
 薄い色の瞳が探偵の漆黒の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「母が、不思議な仕草をするんです」

 混血の青年、藤木・エミール・雅寿は言った。
「僕の母、アリッサ・藤木、旧姓アリッサ・レールモントフはパリジェンヌでした。父、藤木雅倫(ふじきまさみち)とは彼の地、欧州はパリで知り合ったのです」
 咳払いをしてから、
「僕の父、雅倫は若い頃、絵画を学ぶためにパリへ留学したんです」
「へえ!」
 部屋の隅に控えていた助手の志義が思わず声を上げた。
「この人のお父さん――そのフジキマサミチって、画家、知ってる、興梠さん?」
 これには、慌てて雅寿は手を振った。
「いえ、ご存知ないと思います。父は結局、画家にはなりませんでしたから」
「というと?」
「僕の父、藤木雅倫は留学先のパリで母アリッサと恋に墜ち、花嫁として日本に連れ帰った後、堅実な生活を選んで、フランス語の語学教師として一生を終えました」
 少年は露骨に落胆の声を上げた。
「なんだ、そうなの?」
「これ、フシギ君」
「筆を折ったことをさほど父は後悔してはいなかったと思います」
 青年の語気が心持ち強くなる。
「その父の決断のおかげで僕たち――母と僕は満ち足りた生活を享受しました。贅沢とは言えないまでも、飢えることなく平穏な日々を送ることができました」
「それは、何にも増して素晴らしいことです」
 力強く頷く探偵。
「それで、ご依頼と言うのは何なんです?」
「そうでした!」
 混血の青年は姿勢を正した。
「父は一年前に亡くなりました。脳梗塞でした。教壇で倒れて、そのまま息を引き取ったんです。あまりに突然の父の死に残された母の悲しみは深く、急激に衰えて――最近では車椅子がないと自分の足では身動きできない状態です。それだけではなく、精神状態もおかしくなって……記憶の方も怪しくなってしまいました」
 雅寿は辛そうに長い睫毛を伏せた。
「それは……ご心労ですね?」
「でも、ここは探偵社ですよ!」
 またまた部屋の隅から少年が声を上げた。
「病院ではないから、その件では僕たちさほどお力にはなれないんじゃないかな?」
「これ、フシギ君」
 眉を潜めた探偵を見て、逆に依頼人は緊張の糸が(ほぐ)れたようだ。
「アハハ……おっしゃる通りです! だからこそ、僕も、こんなこと依頼していいものかどうか大いに迷ったんです!」
 一頻(ひとしき)り笑った後で、西洋人にしか見えない青年は言い切った。
「でも、決心がつきました! お願いします。是非、母の〈仕草〉の謎を解いてください!」
「?」 

 2

「母、アリッサは精神状態がおかしくなって――記憶が混濁している、と言うのはお話しましたよね?」
 一旦決心すると堰を切ったように藤木は語りだした。
「最近の母は僕の問いかけにも反応しなくなって、それこそ、人形みたいに静かにベッドに横たわっていることが多いのです。それは仕方のないことと諦めていました。ところが、今から一ヶ月前の小春日和の日――」

 その日、アリッサは突然ベッドに起き直ると息子の名を呼んだ。
 宛ら、若い頃に戻ったように明るくしっかりした口調だった。
「エミール、エミール、ヒサチャン!」
「僕はここだよ、ママン、どうしたのさ?」
「ツレテッテ……アソコ……」
「?」

「母の言う〝あそこ〟が庭だというのはすぐわかりました。僕の母は庭をこよなく愛していましたからね。母は花が大好きなんです。勿論、父の次に」
「どうぞ、お続けください」
 恬淡(てんたん)な探偵は先を促した。
「それで、僕は車椅子に母を乗せて庭へ連れて行きました。そうしたら、母はそれをしたのです。右手の腕を伸ばし、人差し指を突き出して――」
「?」
「こう」
 雅寿・エミール・藤木はそれをやってみせた。
「それが、僕が、母がその仕草をするのを初めて見た瞬間でした」

 以来、幾度も自分を呼んでは、〝アソコ〟へ連れて行くことを要望し、そして、その仕草を繰り返すのだと藤木は言った。
「それは――何かを指し示すということでしょうか?」
「多分」
「その仕草をする際、お母様は何か言葉を話されますか?」
 悲哀に満ちた目で青年は首を振った。
「いいえ、一言も。ただその仕草をするだけです」
「そりゃ、不思議な話だなあ!」
 またまた声を上げる海府志義(かいふしぎ)だった。
 一旦少年を見て頷いてから、探偵に視線を戻すと藤木は言った。
「僕がこうしてやって来たのは、母のその仕草の謎を解いていただきたくて、です。引き受けてくださいますね?」
「僕としても、お力になりたいのは山々ですが……」
 探偵の返事は意外だった。
「こればかりは無理だと思います」
 興梠響(こうろぎひびき)は赤毛の青年の依頼を断った。
「えー!?」
 吃驚して叫んだのは依頼人ではなく助手である。
 やや遅れて依頼人が訊いてきた。
「お断りになる理由は何故でしょう?」
「息子さんであるあなた(・・・)が問いただしても、お母様は何もお話にならないんでしょう? それを、赤の他人(・・・・)の僕が聞き出せるとは、到底思えません」
 きっぱりと探偵は言い切った。
「それがお断りする理由です」
「そ、そこを、何とか」
 執拗に藤木は迫った。
「そうだ、では、こうしましょう。時間制で、どうです?」
「?」
「仕草の謎……と言うか、意味を聞き出せたらと言うのではなく、母の傍で、せめて、取り敢えず1時間だけ一緒にいてもらって、その時間内に様子を探っていただけたら……その分のお金をお支払いいたします」
「悪くない条件じゃないか!」
 喜んだのは、勿論、志義である。
 扉近くの椅子から飛び降りると駆け寄って探偵の腕を引っ張った。
「お引き受けするべきだ! 興梠さん! どうせ、暇なんだからさ!」
 その後で、円らな瞳を細める。可愛らしい顔が一変して何やら小悪魔的な表情になった。
「でなきゃ――このままだとますますノアローに嫌われちゃうぜ?」
「ど、どう言う意味かな、志義君?」
 明らかに探偵は動揺した。
「この処、全然仕事がなくて、貴方ずっと家にいるでしょ? そのことがノアローの神経を逆撫でしているって気づかないの? 彼女を少し、自由にしてやるべきだよ!」
「わ、わかったよ」
 内心深く傷ついた探偵。眉間に皺を刻んで興梠は頷いた。
「君がそこまで言うなら――」
 改めて混血の美青年に向き直ると、
「藤木さん、これから、一時間ばかり、お付き合いさせていただきます」
「ありがとうございます!」
 安堵の息を吐いて、紅茶カップに手を伸ばす依頼人だった。
 微苦笑して言い添える。
「探偵さんも? 外国人の奥様をお持ちなんですね? お察しします。気をお使いになられて色々と大変ですね?」
 探偵は即座に依頼人の誤解を訂正した。
「妻じゃない。ノアローは猫です」


 そのまま一同は探偵の愛車、空色のフォルクスワーゲン・ビートルで移動した。
 この夏、発表された話題の新型を、探偵はいち早く購入している。
 助手席に座った依頼人の指示通りに車を走らせ、やがて、到着した郊外の一軒家。

「……」
「驚かれましたか?」
 車を降りながら赤い髪を揺らして藤木は悪戯っぽく微笑んだ。
「いえ、別に」
 如才なく興梠響は言葉を濁したが――
 内心ひどく驚いていた。
 と言うのも、思いのほか立派な家だったので。
 空を突く鐘楼のような塔を持つ洋館。
 鱗模様の外壁はサーモンピンクで、屋根は苔色だ。
 この様子ならパリジェンヌだった夫人が、日本人の夫の次に愛したという庭も相当のものだろう。
 息子の言葉通り、藤木雅倫(ふじきまさみち)が絵筆を捨てたのは懸命な選択だったようだ。
「どうぞ、お入りください」

 探偵とその助手を応接室へ案内すると、藤木はすぐ出て行った。
 階段を駆け昇る音。
 勢いよくドアを開ける音。
「ただいま、ママン! いい人をお連れしたよ!」

 
 藤木が母を起こして連れて来るまで少々時間がかかった。
 その間に部屋を見回しながら少年が率直な意見を述べた。
「可愛らしい家だなあ! まるでお伽話にでてくる家みたいだ!」
 ガレ風のクリーム色のソファ、花瓶やランプは植物をモチーフにしたナンシー風。
 この家の住人はアール・ヌーボーが好みらしい。
 蜻蛉模様の壺を手に取って興味深げに見つめている少年に興梠は囁いた。
「フシギ君、憶えておきたまえ。君の家に比べたら、大概の家は可愛らしい(・・・・・)さ」
 探偵の助手は海外にも広く輸出される人気のレース会社の子息なのだ。
「チェ、そう言う興梠さんだって元大医院の御曹司じゃないか。未だに自分の事務所も持てず、結局は親の残した豪邸から出ていけない、シガナイ探偵のくせに」
「うっ」
 図星である。
 興梠は胸の中で十、数を数えながら掃き出し窓へ寄って庭を眺めた。
 先刻、玄関先で予想した通り、庭は広かった。
 だが、悲しいかな、その広い庭は荒れ果てていた。
 息子は容貌ほどには母の趣味――庭いじり(ガーデニング)――を受け継がなかったようだ。
 アリッサ夫人が元気だった頃は手入れが行き届いて、さぞや美しかっただろうに!
 だが、今は、惨めな様相を呈していた。宛ら、捨てられた恋人のように。
 探偵は顔を顰めた。この表現は却下。好きじゃない。
 悲しい記憶を封印して、改めて庭に視線を戻す。
 野放図に繁茂する宿根草が余計に寂しさを感じさせた。
 目に付いた中で知っている草花の名前を興梠は呟いてみた。
 フジバカマ、エリゲロン、アスチルベ、コバノランタナ、ユリオプスデイジー、ツワブキ……
 おや? あれはなんだ?
「――」
「どうしたのさ? 何をそう熱心に見てるの? 好きな花でも見つけたの?」
「フシギ君、ちょっと来て、見てごらん、あれ――」
「お待たせして申し訳ありません!」
 ちょうどその時、藤木青年がドアを開けて入って来た。

 息子の押す車椅子に乗っているのは小柄な西洋人の女性だった。
 銀の巻き毛、息子と同じ水色の瞳、透き通った白い肌。折れそうな細い体を包む鴇色のガウン。
 どこもかしこも淡い色。秋の午後の光に滲んで、今にも溶けてなくなりそうだ。
 だが、その儚げな印象を裏切るように、小さな唇から声が漏れた。
 瀟洒な家を揺るがす程の叫び声――

「マサミチ!」

 銀髪の夫人は車椅子から立ち上がると探偵の胸に飛び込んだ。
「ああ、貴方、帰って来たのね? マサミチ!」

 3

「言い忘れたことをお詫びします」
 藤木・エミール・雅寿(まさひさ)は赤い髪を掻きながら謝罪した。
「…あなたも人が悪いな?」
 冷ややかな声で返す探偵。
「意識的に言わなかったんでしょう?」
「ええ、まあ……そうです」
 混血の青年はあっさりと認めた。
「では、そのことも含めてお詫びします。でもね、このことを先に言っていたら絶対あなたは僕の依頼を引き受けてはくれなかったでしょう? 違いますか?」
「――」
「僕には何も語ろうとしない母が、あなたになら、何事か明かしてくれるのではないかと、一縷の望みを抱いたのは――」
 藤木はきっぱりと言い切った。
興梠(こうろぎ)さん、あなたが若い頃の僕の父に生き写しだから、です」
「えええー!?」
 これは助手・海府志義(かいふしぎ)の驚嘆の叫び声。


 探偵の顔を見た途端、抱きついたアリッサ・藤木夫人。
 漸く落ち着いて、寝入ったところだ。
 とはいえ、完全に眠るまで、自室のベッドの中で探偵の手を握って放さなかった。
 約束した最初の一時間はこのようにして過ぎたのである。

 今三人は一階の応接室にいた。
 探偵とその助手にコーヒーを注ぎ足しながら藤木は説明した。
「ご覧になられた通り、母の意識は混濁している。でも、昔の思い出は鮮明なんです。だから、若い頃の父に瓜二つのあなたなら色々母から聞き出せるのではないかと僕は考えたんです」
「お知りになりたいことは――仕草の〈意味〉ですか?」
「ええ、勿論」
「それとも、〈場所〉なのではないのですか?」
「え? どういうこと、それ?」
 珍しく、今の今まで口を挟まず、おとなしくしていた少年がコーヒーカップから顔を上げた。
 掃き出し窓へと歩いて、庭を見つめながら興梠は言う。
「……随分と掘り返したものだな?」
「流石、探偵だな? 鋭いものだ!」
ドサリ、音を立てて青年は椅子に腰を落とした。 
「いやはや……感服しました!」
「え? え? え?」
 二人を交互に見て首を傾げる少年。
「何を言い合ってるのさ、 興梠さん? 藤木さんも?」
 助手の問いには答えず、興梠は赤い髪の依頼人を振り返ると、
「ねえ、藤木さん? 本当にお知り(・・・・・・)になりたいこと(・・・・・・・)を率直にお話くださるなら、ご依頼を引き受けてもいいですよ。探偵業は綺麗事ばかりの世界ではありませんからね?」
 観念したように藤木は一つ息を吐いた。
「わかりました。では、改めて包み隠さず全てをお話します」
 
 そう言って、藤木・エミール・雅寿が語った話はこうである。

 27年前の1911年。
 画家を志して、欧州は芸術の都・パリに渡った青年・藤木雅倫(ふじきまさみち)が出会った娘・アリッサ・レールモントフは厳密に言えばパリジェンヌではなかった。
 亡命ロシア貴族の娘だったのだ。
 二人は出会った瞬間に恋に墜ちた。
 しかし、アリッサの両親は二人の結婚に激しく反対した。
 当然だろう。相手は名も金もない、芸術家志望の東洋の若者である。
 それ故、二人は手に手を取って、駆け落ち同然で極東の島国へ出奔した。
 激怒したアリッサの両親は娘と縁を切ることを告げ、以来音信不通のまま四半世紀が過ぎた。
 一方、母国へ帰って来た雅倫は世間知らずの美しい貴族の娘と、すぐに生まれた息子を養うために自分の夢を諦め、語学教師の職を得て、人並みの生活を維持するために粉骨砕身した――

「母がフランス人ではないとあなたが何処で気づかれたのか、想像がつきますよ」
 依頼人は苦笑した。
「僕を見て、でしょう、興梠さん?」
 水色の眼が挑戦的に煌めいている。
「そうですね。あなたはご自分で言われたとおり母方の血を濃く引いておられる」
 190近い長身、透き通る白い肌、薄い色の瞳。
 藤木雅寿はフランス人というより明らかにロシア人――スラヴ系の風貌なのだ。
「ロシア人といえば――」
 思い出したように志義が目を細める。
「ロシア――今は、国名はソビエト連邦だけど、その秘密警察幹部のリュシュコフが満州に亡命して来たよね? ほら、夏に東京山王ホテルで記者会見をしたじゃないか! なんだか、おっかない国になっちゃったみたいだな、あそこ?」
 一方その新体制国家に憧れて雪原を踏破して密入国を果たした者もいる。女優の岡田嘉子と演出家の杉本良吉である。このニュースは今年1月、まだ正月気分の抜けきらぬ日本中に衝撃をもたらした。
「ソ連は共産主義……労働者(プロレタリアート)独裁ですからね。母、アリッサの両親は最も速い1900年代初頭に逃げ出した口です。賢明だったと思います。残っていたら貴族階級は皆殺しだったでしょう」
 最近の亡命者は着の身着のまま、命が助かれば幸いと言う状況らしい。その点、早くに国を捨てたレールモントフ伯爵家はそれ相応の財産を持ち出すことが出来た。
「そのことを念頭に僕の話をお聞きください。――さて、このパリで育ったロシア貴族の娘は親元を出奔する際、こっそり持ち出したものがあった」
 藤木は話を本筋へ戻した。
「自身の宝飾品(アクセサリー)を詰め込んだ宝石箱です。僕はそのことを幼い頃、寝る前にお伽話と一緒に聞かされました」

 

 ―― 昔々、ママンはお姫様だったのよ。そして、丘の上で王子様と出会ったの。
     それが、あなたのお父様。
 ―― うっそだー! パパは王子様じゃない、センセイだよ?
 ―― ああ、エミール、ヒサチャン! あなたも、騙されている。
     いいこと? 王子様は悪い魔法使いに魔法をかけられたの。
     誰もその正体がわからないように。
 ―― だったら、カエルが良かったな! 
     パパがカエルならお庭の池で一緒に遊べるよ!
 ―― ヒサチャンったら!
     肝心なのはね、ママンにはひと目でわかったってこと!
     丘の上で摺れ違った瞬間、この人が王子様だって!
 
   漆黒の髪、黒曜石の瞳……
 
 ―― あなたのお父様は遠い異国からはるばるやってきた王子様だった……
 ―― ふううん? パパは剣を振るってママンを悪者から助けてくれたの?
 ―― いいえ。
     でも、魔法使いが意地悪して道にばら撒いた
     ママンの摘んだお花を全部拾ってくれたわ!
 ―― なんだ、そんなことか。つまんないの。
 ―― いいから、最後まで、お聞きなさい。
      悲しいことに、ママンのパパとママン――
      王様と王女様は彼が王子様だということが分からず、
      私たちの結婚を許さなかった。
 ―― だから?
 ―― 王子様とお姫様は二人して、王子様の国へ逃げていくことに決めました。
      そして、その国で、
      いつまでも仲良く幸せに暮らしましたとさ、
      めでたしめでたし!
      さあ、これで今夜のお話はおしまい。早く寝なさい。
 ―― やっぱり、うそだ! 
     パパは王子じゃないしママだってお姫様じゃないよ! 
         もし、本当にママンがお姫様なら、
         その証拠を見せてよ! ねえってば!
 ―― しょうがない子ねえ。じゃあ、ここだけの、秘密よ? 
      他の人には絶対言っちゃあダメだからね?
        ママンは宝石箱を持っていたわ。
        銀細工の、それはそれは素晴らしい品!
        王様がお姫様の誕生を祝って特別に作らせたもので、
     内側は深紅の天鵞絨貼り。
        蓋の表にはアリッサとちゃあんとママンの名前が彫ってある……
 ―― 中には何が入ってるの?
 ―― 宝石箱ですもの、色とりどりの宝石よ! どう、素敵でしょう?



「とはいえ、この話は僕も、長い間、すっかり忘れていたのですが」
 庭で指を指す、母のその仕草を目の当たりにした瞬間、全てが鮮明に蘇ったのだと青年は言った。
 
 お姫様が持ち出(・・・・・・)した宝石の詰まっ(・・・・・・・・)た宝物の箱(・・・・・)……!

「ひょっとして、藤木さん、お母さんがそれを庭に埋めたと考えてるの?」
「これ、フシギ君」
「率直に言えば――そうです」
 長い腕を振って室内を指し示しながら青年は言う。
「何故なら、僕は家の中でそんなもの……宝石箱なんて一度だって目にしたことはありませんからね」
 藤木は改めて庭を振り返った。
「そう言う訳で、僕は母が指し示した場所を片っ端から掘り返しました。興梠さん、あなたがお気づきの通り、あの穴はそれです」
 美しい庭には至る処掘り返されたその無残な痕が残されていた。
 探偵の横に駆け寄って並んで庭を眺めながら志義が訊く。
「でも、結局、宝石箱は見つけられなかったんだね?」
「ええ」
 優雅に肩を竦めるとスラヴの血を引く青年は答えた。
「もうこの上は母に直接、正確な場所を聞くしかないと思いました。その時、雑誌で偶然あなたの写真を見て――」
「ああ、あれか! 《新青年》の(新時代の探偵)特集に乗ったやつでしょう? ウーステッドの背広が気障(きざ)過ぎて僕はあんまり好きじゃないな、興梠さんのあの写真の写り方」
「おい、フシギ君……」
 写真の出来はともかく、興梠探偵社の探偵、興梠響その人が自分の父親の若い頃に酷似していることを知った藤木・エミール・雅寿は、藁をも掴む心境で丘の上の洋館を訪れた、というわけである。
「さっきの母の反応をご覧になったでしょう? 僕の考えは間違っていなかった! 興梠さん、あなたなら、絶対、母から宝石箱の隠し場所を聞き出せますよ!」

 4

:*.;".*・;・;・:

「マサミチ? ひどいわ! こんなに私を待たせるなんて……!」
「ごめんよ、アリッサ。でも、どうしても受けたいデッサンの授業があって――」
「また、そんなことを言って! 私は一生懸命家を抜け出してきたのに」
「ごめんよ? さあ、こっちを向いて、機嫌をなおしてくれよ、アリッサ? そのかわり、これから、どこでも君の行きたい処へ連れて行ってやるからさ! 何処がいい? 学生街カルチェラタンの店を見て歩く? セーヌで船を漕ぐのもいいな? カピッシーヌをぶらぶらしてマドレーヌ寺院まで散策するのも捨てがたい。ブールヴァール・デ・イタリアーノのレストランで美味しいものを食べて――」
「塹壕の土手……あの丘がいいわ!」
「またあそこ? 全く、君はあそこが好きだなあ!」
「あたりまえよ! だって、あそこは……」
「何、アリッサ? 聞こえないよ?」
「あそこは……あなたに出会った場所ですもの……」
「……アリッサ……!」
「マサミチ…」

 マサミチ……

:*.;".*・;・;・:


「え? 埋め戻すの? 掘り返すんじゃなくて?」
 探偵の差し出したスコップを受け取りながら志義しぎは聞き返した。
 三回目の訪問となるその日。
 今日は土曜なので学校は午前だけ。それで、午後も早い内に志義を伴ってやって来た探偵だった。
 藤木家にもあるとは思っていたが、愛車にシャベルを2本積んで来た。その残る1本を自分で掴むと早速、土を掬って空いた穴へ注ぎ始める。
「そうさ。こんなに至る処穴ぼこだらけじゃ、危なかっしくて車椅子も満足に押せない……この機会に二人で少しでも元へ戻しておこう」
「夫人の方はいいの? ほっといて?」
「アリッサ夫人なら――今、眠ってるよ」
 夢の中でも亡き夫と会っているらしい。
 さっき興梠こうろぎが様子を見に覗いた際も夫人は眠りながら幾度となく夫の名を呼んでいた。
「それにしてもさ」
 少年は不満顔で呟いた。
「僕たちいいように使われ過ぎじゃないかな?」
 掘り返された穴に土をかけながら志義はブツブツこぼした。
「おい、おい、この話に乗り気だったのは君の方だろ?」
「最初は面白いと思ったんだけど。あの依頼人――」
「藤木さんがどうかしたのかい?」
「ちょっと怪しい。僕たちにお母さんを任せて出かけちゃったじゃないか!」
 今日、予あらかじめ午後早くからの訪問を電話で告げると、依頼人は勿論、喜んだ。喜びながらも、少々決まり悪げに自分は出かけることを告げたのである。
 実際、玄関先で探偵と助手を迎え入れた藤木雅寿ふじきまさひさはすっかり外出の仕度を整えていた。
「勿論できるだけ、早く帰ってくるつもりですが……僕が不在でもどうぞ、お気になさらないで好きにしてください。母のことはお任せしますので、よろしくお願いします」
 そう告げる間のぎこちなく泳ぐ水色の目。
 日頃から人間観察に余念のない探偵志望の志義が見逃すハズはなかった。
「あんなに急いで一体 何処へ行ったんだろう?」
「探偵は依頼人のプライベートに立ち入っちゃいけないよ、フシギ君」
「そりゃ、わかってるけど」
 少年は口をへの字に曲げた。
「僕が推理するに――きっと、女友達のとこだ! お母さんの世話を僕たちに押し付けて自分は羽を伸ばそうって魂胆なんだ! 僕、ピンときたよ。あんなハンサムなんだもの。きっと凄くモテるんだろうな! 女友達なんて星の数ほどいるはず」
 せっせと地面をならしている傍らの探偵を横目で見る。
「なんだい?」
「少し分けてもらえばいいと思ってさ。興梠さんはこんなに寂しい思いをしてるのに」
「グッ、いいから、僕のことならほっておいてくれたまえ」
 少年の不平は止まらない。
「それにこんな、肉体労働やらなきゃいけないなんて! 僕、探偵業は知能だけでいいと思っていたのに!」
「そうかい?」
 飄々と受け流す興梠だった。 
「しかし、君の尊敬するホームズだって、結構体を張ってるじゃないか」
「〝格闘〟は別さ! これで、興梠さんも、悪漢と殴り合いをするとかなら、僕だって大いに燃えるんだけど」
「馬鹿言っちゃいけない。僕は平和主義者だ。怪我なんかする仕事はしないよ」
「でもさ、生死を彷徨さまよう程の大怪我したことあるんでしょ? 車の事故だって聞いたけど、カーチェイスかなんかやったの?」
「それは――」
 探偵は口篭った。
 あれは――生涯で一番思い出したくない思い出である。
「――」
「言いたくないんなら、いいよ。じゃあさ、その部分は僕が埋めてあげるから!」
「なんだってぇぇぇ――!?」
 シャベルを取り落として驚愕の声を上げる探偵。
「な、な、な、なんてことを言い出すんだ、君!」
 その顔を少年はまじまじと見返した。
「え? だから、そこの穴・・・・は僕が埋めとくって言ったのさ。だから、あなたは行ってやって。ほら、夫人が呼んでる。目が覚めたみたいだよ?」
「……あ」
 その通り。
 二階の窓からレースのカーテン越しに透き通った声が響いていた。

「マサミチ……! マサミチ……!」

 現実にはもういない、最愛の人の名を呼ぶ声。
「何処にいるの? 早く来て、マサミチ! 私はここにいるわ。ここで、ずっと待っているのよ、マサミチ……!」
 興梠は窓を見上げて叫び返した。
「いま、行くよ、アリッサ! だから、待っててくれ……」


「もう! ひどい人! 私をこんなに長いこと待たせるなんて!」
「ごめんよ、アリッサ?」
「どうせ、絵を描くのに夢中になって私のことなんか忘れてたんでしょう?」
「そ、そんなことはないよ」


「ふふ」
 窓越しに聞こえる会話を聞きながら志義は吹き出した。
(声だけ聞いていると本物の恋人同士だな?)
 いや、時間の境目のなくなったアリッサ夫人にとっては、あれは紛れもない真実の会話なのかもしれない。夫人はかつて実際にその言葉が交わされた瞬間の世界に生きているのかも。
「うん?」
 新しい穴を塞ごうとしてスコップを振り上げた時、志義はそれを見つけた。
 少年の目にいきなり飛び込んできた物――
「これはなんだ? 赤い……花?」
 地面に直接描かれたように見える赤い……バラ?




「私はあなたのこと、片時も忘れたことがないのに」
「それは、ありがとう」
「これからだってよ? 将来どんなことがあっても、あなたのこと、あなたと過ごした日々のことは全部憶えてる。永遠に」
「……」
「何故?そんな悲しい顔をするの、マサミチ?」
「いや、悲しい顔なんかしていないさ」
「じゃ、困った顔ね?」
「……」
「分かってる。私はいつも貴方を困らせてばかりいるわね? パパとママに会ってくれって私がせがんだ時も、本当は嫌だったんでしょ?」
「そんなことないさ!」
「ねえ? 私と出会ったこと、後悔してる?」
「まさか! どうして、そんな馬鹿なこと言うんだい?」
「だって、私と出会わなければあなたは自分の夢を諦めずにすんだんですもの。あなたは、絶対、有名な画家になったはずよ?」
「違うよ、アリッサ。僕は画家でなく――君を採ったんだよ!」
「私を? 絵筆ではなく?」
「そう。絵筆ではなく、君を」
「嬉しい! じゃあ、私も! 私も選ぶわ! 貴族の娘ではなく、あなたの――あなただけの花嫁になる。あなたが大切な絵筆を捨てたように……私だって……」
「おい、君、 アリッサ……!」 
 夫人はベッドから飛び降りると開け放してあった窓へ飛びついた。
 窓枠に体ごと乗り出す。
「何をする気だ、アリッサ!?」
 慌てて興梠も飛びついた。咄嗟に細い腰を掴んで支える。 
「危ないっ――」


「大変だよ! 興梠さん!」

 寝室のドアを叩きつけるように開けて飛び込んできた少年。
 その音にアリッサは吃驚して窓枠から指を放した。
「キャッ?」
「うわっ?」
 縺れ合って倒れる二人。
「あ、これは失礼、アリッサ夫人……? 興梠さんも……?」
 床の上で抱き合っている二人を見て助手は硬直した。
 目のやり場に困って、一瞬躊躇したものの、志義は礼儀正しく言葉を継いだ。
「大変な場面にお邪魔して申し訳ありません。でも――大変なんだ! ラブシーンを演じてる場合じゃないよ、興梠さん!」
「これはラブシーンなんかじゃない。聞きたまえ。アリッサ……夫人が……突然窓枠に飛びついたから、それを止めようとして――」
「OK。わかってるよ。〝助手は探偵のプライバシーに立ち入ってはいけない〟でしょ?」
 訳知り顔で志義は頷いてみせた。
「それに、探偵だって恋をするって、江戸川乱歩も書いてたからね? 禁断の恋も、同性の恋も、SMの恋もありだって!」
「君、一体どんな探偵小説を読んでいるんだ? と言うか、いや、だから、これは誤解だ。説明しよう。何故、僕が、僕たちが、こんな格好をしているかと言うとだな、いきなりアリッサが――」
「マサミチ……愛してるわ。ね? もう一度言って。あなたは私を選んだのよね?」
「も、もちろんだよ、アリッサ」
「嬉しい!」
 更に強く探偵の胸にしがみつく元パリジェンヌ=亡命ロシア貴族の娘だった。
 その様子を見てきっぱりと少年は言った。
「説明なんかいらない。未亡人に恋をしようとそれは貴方の個人的な自由だ」
「フシギ君!」
「そんなことより――大変だよ、興梠さん! 今、僕、庭で、不思議なモノを見つけたんだ!」 
「え?」
「地面に描かれた〈花〉のようなモノ……しかも、色は赤だぜ!」


 5

「で? これがそれ(・・)なんですね?」
「ええ」

 秋の日暮れは早い。既に空は夕焼けに染まっている。
 帰って来た依頼人とともに庭に立つ探偵とその助手。
 アリッサ夫人は、今はベッドの中ですやすや寝息を立てている。

「見つけたのは助手の、志義(しぎ)君です。この家の当主で依頼人であるあなたに立ち会っていただくべきだと思って――お帰りを待っていました」
「こんなもの僕は初めて見た! 前に庭を掘り返した時は全く気づかなかったぞ!」
「そうですか」
 淡々と探偵は訊く。
「で? どうします?」
「勿論、掘り返すさ!」
 待ってました、とばかりスコップを突き立てた志義を藤木・エミ―ル・雅寿(まさひさ)は慌てて制した。
「待って、僕がやります! 乱暴にして、万が一にも宝石箱が壊れたら大変だ」
「えー?」
 年相応に不満を抑えられない助手の腕を興梠(こうろぎ)は静かに制した。
「ここは藤木さんにお任せするんだ、フシギ君」
 志義は小声で毒づいた。
「ちぇ! 面白くないの。一緒に掘らせてくれてもいいじゃないか! 僕が見つけたんだぞ?」


 だが――
 地面に直接描かれたような(印)に見える不思議な〈花〉……
 見るからに奇妙なそれをいくら掘り進んでも、何も出ては来なかった。




「いい気味だ! 宝を独り占めしようとしたからバチが当たったんだ!」
 帰りの車中、後部座席で、大いに気炎を上げる少年。
「だって、おとぎ話ではたいていそうさ! 欲張りは願いが叶えられないんだ!」
「おいおい、じゃ、あの庭には宝物を守る妖精が住んでいるってわけか?」
 探偵は苦笑した。
「君の専門は探偵小説だと思っていたが、意外やおとぎ話も詳しいんだな?」
「僕だって」
 心なしか少年の声が柔らかくなる。
「毎晩、おとぎ話を聞かされたからね。藤木さんじゃないけど……」
 主語は省かれた。
 
 どうして?

 バックミラーに映る少年の横顔を見つめながら探偵は胸の中で呟く。
 人は、今はもう傍にいない〈愛しい人〉の名を人前で語りたがらないのだろう?
 口に出した瞬間に、その不在の事実がより鮮明になるから? 
 現在の孤独が決定してしまうから?
 
 最愛の人の名は深く己の胸の底に埋めるべし。

 そして、眠れない夜にだけ(周囲に人がいないことを確認してから)、そっと呟くのだ。
 それこそ、お伽話の呪文のように。
 
 少年もそうするのだろうか?
 遠く欧州に嫁いだ姉を懐かしんで?
 
 探偵も、孤独な夜半、囁く名前を持っている一人だった。
 心底愛しながら遂に叶わなかった思い。
 だが、思い出の中の少女は探偵が呼びかけるたびいつも最高の微笑みを見せてくれる。
 してみると……
 
 アリッサも俺も――志義君だって一緒だな?
 ただ違うのは平気で――昼間でも平気で、
 いつでも(・・・・)、失った人、最愛の人の名を口に出して呼べるかどうかだけ。
 そのことだけが正気と狂気の境界線(ボーダーライン)なのだろうか?

 ―― マサミチ……
 ―― なんだい、アリッサ?
 
―― 興梠さん?
―― 何ですか、■ ■ さん?


 探偵はゆっくりとハンドルを切った。
 既に暮れた夜の街、パーヴメントに灯された街灯がばら蒔かれた宝石のように燦ざめいている。



「ちょっと、これを見てごらん、フシギ君」
 猫に餌をやってから、帰り支度を始めた助手を興梠は呼び止めた。
「何さ?」
 探偵のビーューロの上に開かれた分厚い書物。植物辞典だ。
「あ!」
 少年は声を上げた。
「これは、今日、僕が藤木さんの庭で見つけたヘンテコな――花?」
「厳密に言えば、〈花〉じゃない。〈葉〉だよ。あれはメマツヨイグサのロゼットなんだ」
「ロゼット?」

 メマツヨイグサは、もともとは北アメリカ原産の植物。夏の夜に月光が凝ったような幻想的な花を咲かす。鑑賞用に園芸種として日本に持ち込まれた。
 尤も、あまりに繁殖力が強くて河原などに野生化して在来種を駆逐してしまう勢いなので現在では要注意外来種に指定されている。
 
「この花の冬越しのスタイルがロゼット(・・・・)と呼ばれるそれ――特異な形なのさ」
 葉を放射線状に地面の上に広げるのだ。しかも、気温の低下に伴い鮮やかな赤色となり、それ故、地面に〝描かれた花〟に見える。ロゼットの語源は〈バラの花〉から来ている。
「じゃ、興梠さんは知ってたんだね?」
 思い当たって志義は頬をふくらませた。
「そうか、だから、あんまり興奮しなかったんだ。僕や、藤木さんほどには。あれは特別の〈印〉なんかじゃないから、その下をどんなに掘り下げたところで宝物なんて出てこないってわかってたのか!」
「いや、そこまでは僕だって断定はできなかったさ。実際、ロゼットの真下に何か埋めてあるとも限らないからね?」
「原点へ回帰せよ、だな!」
 少年はため息をつきながら植物辞典を閉じた。
「謎に行き詰まったら、最初に戻れ、ってことさ。基礎だよ、興梠さん」
 ベイカー街の名探偵さながらに顎に手をやって頷いてみせる。
「で、この場合の謎とは――やっぱり、アリッサ夫人の〈仕草〉と、漏らした言葉〈(ルージュ)〉だ!」

 赤…赤…
 rouge……

 庭に出て見える赤とはなんだろう?

 


 翌日も依頼人の家へ車を走らせながら頻りに探偵は考えていた。
 日曜なので、昨日より更に早い、午前中の訪問だった。勿論、助手の志義も同行している。
 突然、車窓を(よぎ)る赤に気づく。
 昨日までは気づかなかった赤だ。
「?」
 そう、この季節、突然出現する〈赤〉は、何も昨日のロゼットだけ(・・・・・・)ではない(・・・・)
 (原点回帰せよ、か……)
 色と仕草。
 それよりもっと遡った、その原点(はじまり)は何だった?
 興梠は思い出した。
 不可思議な仕草を見せたアリッサ夫人が、それをやる前に言ったのは
『アソコ ツレテッテ』
 母国語ではないから拙い、限られた日本語でそう言ったのだ。
 それに対して、息子は即答した。
『母の言う〝あそこ〟が庭だというのはすぐわかりました。僕の母は庭をこよなく愛していましたからね。勿論、父の次に』

 ちなみに、興梠はアリッサとはフランス語で会話している。
 
 (今日は、もっと積極的に試してみるか?)

 6

 藤木邸に着くと、この日も依頼人は外出の支度をして二人を出迎えた。
「申し訳ない。僕は今日も、その、ちょっと、外に用事があって……」
 気まずそうに目を逸らして西洋人にしか見えない青年は言った。
「そう言う訳で、母のこと、よろしくお願いします」
「わかりました」

「何時に帰るかくらい確認すべきだったんじゃないの?」 
 雅寿(まさひさ)がそそくさと出て行ってしまうと例によって志義(しぎ)は不平を漏らした。
「いくら、時間制とはいえ、これじゃ僕たちテイのいい便利屋か家政婦みたいだ」
「別にいいさ」
 探偵は答えた。
「どうせ他に抱えてる仕事はないんだし。君が言った通りノアローだって僕がいないほうが存分に羽をのばせるだろう?」
「ちぇ」
 口の中で呟く志義。
「案外根に持つタイプなんだよな、興梠(こうろぎ)さんて? きっと自分を振った女の人のこと一生涯憶えているクチ……」
「なんか言ったかい、フシギ君?」
「いえ、ナーンにも!」

 
 興梠がノックして寝室のドアを開けると、夫人はとっくにベッドに起き上がって待っていた。
 わざと怒ったふりをして腰に両手を置いて口を尖らせるいつものポーズ。
 いつも? 不意に興梠響は思った。
 いや違う。夫人がこれをやったのはもう四半世紀も前のこと。しかも、自分ではない(・・・・・・)、最愛の恋人の前だ――
「マサミチ! ひどいわ! こんなに私を待たせるなんて!」
「あ、ごめんよ、アリッサ」
 夫人の言葉に我に返る。
「今日も、その、授業が長引いてしまって……」
 アリッサは銀の髪を揺らして笑い声を上げた。
「いいわ、許してあげる。あそこへ連れて行ってくれるなら」
「……あそこって?」
「嫌だわ、忘れたの? あそこって言ったら、あそこしかないじゃない?」
「――」
「意地悪な人? からかってるのね?」
「――」
 一旦息を吸ってから、興梠は言った。
「またあそこ? 全く、君はあそこが好きだなあ!」
「あたりまえよ! だって、あそこは……」
「何、アリッサ? 聞こえないよ?」
「あそこは……あなたに出会った場所ですもの……」
「……アリッサ……!」
 さあ、ここだ! 今こそ肝心な処――
「ねえ、アリッサ? お願いだから、言ってみて。あそこ(・・・)って何処かな? 僕は君の口から聞きたいんだよ」
「もう! あそこは……あそこはね…」



「フシギ君! 志義君!」
「ど、どうしたのさ? いきなり……しかもその格好?」
 毛布ごと婦人を抱きかかえて階段を駆け下りて来た探偵を見て、庭にいた志義は仰天した。
「僕は昨日の続きで地面の穴を埋めてるとこだよ、それを一体――」
「そんなことはいい! 出かけるぞ! 君は車椅子を車に積み込んでくれ。入らない? だったら、トランクに括り付けたまえ、急いでくれよ?」
 シャベルを放り出して志義は後に続いた。
「そりゃ、いいけど。何処へ行くの? 藤木さんには断ったの?」

 


 車椅子はトランク(蓋を開けたまま)に括りつけた。夫人は助手席、志義を後部座席に乗せて新型のビートルは颯爽と走り出した。
「ねえ? 一体何処へ行くつもりなのさ?」
「取り敢えず、ここから一番近い木々の生い茂った〝丘の上〟だ」
 ハンドルを切りながら探偵は助手に説明した。
「ひょっとしたら夫人の言っている〝あそこ〟とはそういう場所かも知れない」
「庭じゃなく? でも、変だよ、それ」
 早速、異議を唱える探偵助手である。
「庭じゃなかったら、宝石箱を埋めて隠すことなんかできないでしょ? 自分の土地でない場所に宝物なんか埋める人はいないよ。興梠さんの推理は破綻している」
 辛辣な助手の言葉に、いつものように数を数える代わりに興梠は悲しそうに微笑んだだけ。
 助手席の夫人は少女のように頬を火照らせて車窓を飛び去って行く景色を物珍しげに見つめている。

 

 その小高い丘。
 麓の路肩に車を止めると、車椅子を下ろして興梠は婦人をそっと座らせた。
 寒くないように丹念に毛布で包んでやる。
 そうして、車椅子を押して茂った木々の道を頂上目指して歩き出した。
 頭上、天蓋のごとく続く赤い色……!
 それは紅葉した木々の風景――
 晩秋の頃、突然出現する赤の世界……!  特別のrouge……!

「ほうら、アリッサ! 見てごらん!」
 興梠は車椅子の中の夫人に語りかけた。
「綺麗だろう? 赤いアーチ……赤だ! rouge!」
「……」
 アリッサ・藤木は目を輝かせて周囲の色づいた木々を見上げた。
 が――
 
 それだけだった。
 
 嬉しそうに微笑んだものの、それ以上の反応は示さなかった。




「どうやら、ハズレだったみたいだな?」
 日頃、冷静沈着な探偵にしては、珍しい。
 頂上に着いて車椅子を止めると、沈痛な面持ちで倒木の上に腰を下ろした。
「てっきりこれだと思ったんだが」
「夫人の言う色――赤――が紅葉した樹木だって?」
 率直に呆れた声をあげる志義。
「まあ、その発想自体は悪くないけど、宝石箱はどうなるのさ? アリッサ夫人を連れて行くなら、こんな丘の上じゃなくて自宅の庭の紅葉する木の下じゃないと意味がないよ」
「だが、アリッサははっきり言ったんだよ。〝丘〟だって」

―― 〝あそこ〟は私たちが初めて出会った場所……塹壕の土手の奥……
     パリを見下ろす丘の上よ。
     それ以外、ないじゃない、マサミチ?

 丘の上で、一面見晴かす赤と言えば、〈紅葉〉。
 アリッサの言葉ではないが、これしかない(・・・・・・)ではないか(・・・・・)……!

「うーん、確かに、ここは〈丘〉だし、周り中、〈真っ赤〉って条件も合ってるけど――残念だったね?」
 いつにない探偵の落胆ぶりに流石に助手は同情したらしい。こちらも、いつになく柔らかな口調で励ました。
「まあ、そう、気を落とさないで、興梠さん。まだまだ謎を解明するチャンスは残ってるよ」
「そうだな。じゃ――帰るとするか」
 探偵は腰を上げた。
 気を取り直して、夫人の車椅子に手を置く。夫人は人形のようにおとなしく座っていた。恋人の傍にいるだけで幸せだという風に。
 Uターンして今来た道を引き返し始める。
 数年前流行った《パリの屋根の下で》の(シャンソン)をハミングしながら志義もついて来た。
 いつかいいことがあるよ、心ときめくような出会いが、巴里の屋根の下で……こうして二人は結ばれた、巴里の屋根の下で……いつかいいことがあるよ、心ときめくような出会いが……巴里の屋根の下で……
 
 樹木の林を抜け出た時だった。
「あー」
 突然叫んで婦人が立ち上がった。
「アリッサ?」
「あれれ?」
 探偵とその助手が見つめる中、アリッサは車椅子を降りるとヨロヨロと歩き出した。
 丘の中腹。
 ちょうどその一画だけ樹木が途切れたせいで、眼下には真っ赤な大地が――
 いや、違う、正確に言うと紅葉した樹木の風景が視界いっぱいに広がっていた。
 宛ら、赤い絨毯のように。
 
 その時だった。
 アリッサはそれをした。
 すっと右手を伸ばして、人差し指を突き出すあの仕草を。

「ええっ? こんな処で?」
「しっ、フシギ君……」

 7

「マサミチ……!」
 
 その仕草のまま得意げに目を輝かせて乙女は振り返った。

―― 見て! マサミチ!」
―― アリッサ?
   ああ、そのまま、動かないで! 僕に……僕によく見せておくれ!

「見て、マサミチ!」
「アリッサ! お願いだそのまま、もう暫く動かないで!」

 それから、探偵は飛び出して、夫人を抱きしめた。
「見た、マサミチ? 綺麗ね?」
「ああ、アリッサ! こんな美しい光景を僕は見たことがない……!とても……とても綺麗だったよ……!」
「……え? え? どういうこと、興梠さん? 今、何について話してたの?」


      


「今まで何処へ行っていたんですか?」
 玄関を飛び出して来た依頼人はこらえきれず叫んだ。
「母を外へ連れ出すなんて……! 驚きましたよ! 戻ったら、家中(もぬけ)のカラなんて。一体――」
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。お母様は、大丈夫、ちょっと疲れてお眠りになっているだけです。すぐにベッドへお連れします。志義君、君は車椅子を下ろしてくれ」
「了解」
 そのまま探偵は花嫁のように夫人を抱いて寝室まで運んだ。
 優しくベッドに寝かしつける。
 そうしてから、改めて、心配そうについて来ていた背後の息子を振り返った。
「藤木さん、お父様の残された絵はありませんか? もし、あるのなら、ぜひ全て僕に見せていただきたい」
「はあ?」
 唐突な探偵の言葉に一瞬、赤い髪の息子は怪訝な顔をした。
「父の描いた絵ですか? それなら一応母が大切に保管しています。塔の二階がその場所です。でも、それが何か?」
「ひょっとしたら、アリッサ……お母様の仕草の謎が解けるかもしれません」
「え?」
 既に探偵は駆け出している。
「さあ、フシギ君、君も手伝ってくれ!」
「え? あ、はい!」

      


 藤木邸をおとぎ話の家風に見せている空に突き出した塔の部分。
 広さ自体は6畳に満たないそこに藤木雅倫の全作品は置かれていた。
 画家を志して欧州に渡り、芸術の都パリで学んだ画学生。
 塔の中に残されていたのはほとんどが彼の地、パリで描いたものである。
 数にして五十点ばかり。
 保存状態は良かった。
 アリッサ夫人が病に倒れるまで、庭同様、心を尽くして管理していたことが窺える。
 美学を修めた探偵はその一つ一つを丹念に眺めていった。
 
 探偵がそれを見つけるまでさほどの時間はいらなかった。
 ほどなく――

「これだ!」
 探偵・興梠響は声を上げた。
「見てごらん、フシギ君」
「あっ!」
 探偵が差し出したその絵を見て、藤木・エミ―ル・雅寿も絶句した。
 そのまま、依頼人は氷ついたように立ち尽くしていた。
「――」
「そうです。これ(・・)がお母様、アリッサ夫人のあの仕草の謎――本当の意味です」 

  
:*.;".*・;・;・:

 パリを囲む要塞の土手。
 その後ろに広がる小高いの丘は目の届く限り深紅の花に埋まっている――
 満開の芥子の花……!
 真っ青な空から降り注ぐ春の陽射し。
 境目のないほどに燦く金の髪の乙女が右腕を伸ばし人差し指をさし出して佇んでいる。
 乙女は物を指さしているのではない
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