新鮮な人〈12〉

文字数 3,183文字

   香苗へ 

  訳あって僕は君を一人残して去らなければならなくなった。
  伝えたいことを綴れば何千枚書いても尽きない。
  それで僕は全てを書き連ねるのは諦めたよ。
  時間がないので二つだけ、どうしても知ってほしいことを記す。

  一つ。 僕は決して君の夫として恥じるべき行いはしていない。
      万人が僕を疑おうと、
      僕は君一人が信じてくれればそれでよいのだ。

  一つ。 君を心から愛している。永遠に。

  この先、万が一僕の身に何かあっても、
  どうか君は君のまま、輝き続けておくれ。
  天上からも、いつでも、僕が君を見つけやすいように。
    
 
                         君の夫 湯浅輝彦



「これだけ!?」
 叫んだのは少年だった。
「嘘だ! たったこれだけ? こんなのが結末? そんなはずはないよ!」
 探偵小説ならもっと明確な、くっきりした終わり方をするものだ。
 それを、こんなのはいただけない、全然納得できない。
 それに――
「僕は誓ったんだ! 香苗(かなえ)さんは泣かさない! 絶対、可哀想な女主人公にはさせないって! 僕がどんなことをしてでも――」
「違うわ」
 はっきりした声で湯浅夫人は言った。
「私は、可愛そうな女主人公なんかじゃない。幸せな女だわ」
 手紙を抱きしめながら、
「こんなにも愛されて」
 俯いている探偵をしっかりと見据えて湯浅香苗(ゆあさかなえ)は言った。
「こんなにも、守られて」
 美しい依頼人は溢れる涙を拭おうともせず繰り返した。
「こんなにも守られて。ねえ、そうでしょう? 探偵さん?」

 
 
 勿論、これで終わりではなかった。
 4日後、更に衝撃的な展開があった。
 
 長野県軽井沢の雲場池で湯浅輝彦(ゆあさてるひこ)の水死体が発見されたのだ。
 死因は溺死。死亡推定時刻は3月24日の夜から25日の朝方にかけて。
 自殺と断定された。
 長野県は輝彦の父方の出身地でもあった。追い詰められた輝彦が逃げ場所を求め父祖の地に至り、遂に絶望の下、自死した――これが警察の見解である。
 身元確認には湯浅夫人の希望で探偵・興梠響(こうろぎひびき)が付き添った。
 夫人は決して取り乱すことはなかった。ただ静かに涙を流し続けただけ。
 湯浅輝彦当人の死によって、警察当局は被疑者死亡のまま立件を断念した。
 先の大々的な家宅捜索における押収物を精査しても、警察側は当人をスパイと断定するに至るなんら決定的な証拠を発見することができなかったのである。
 有耶無耶(うやむや)の内に世間は、この〈スパイ〉という言葉のみが踊った一連のニュースを忘却した。



 
 元依頼人、湯浅香苗が丘の上の探偵社を訪れたのは輝彦の葬儀を終えて数日後、4月初旬のことだった。

「見違えたよ!」
 
 既に学校も春休みに入り、終日探偵社に入り浸っていた助手の海府志義(かいふ しぎ)が一目見るなり叫んだ。
「一瞬、誰だかわからなかった! 香苗さんなの?」
 湯浅香苗はワンピースに山査子(さんざし)色のカーディガンという洋装の出で立ちだった。
 短くカットした髪が肩先でスィングしている。
「信州に引っ越すことにしたの!」
「そりゃ、また急だな?」
「メソメソしていたところで仕方ないわ。そんな私を輝彦さんに見せられないもの。それで、輝彦さんの故郷に行って、教師を目指すことにしたの!」
「凄いや! 香苗さん、教職の免状持っていたの?」
「だから、これから目指すのよ!」
「いかにも、あなたらしいな!」
 探偵は吹き出した。
「それで――お世話になった探偵社の皆さん全員にお別れの挨拶をしようと思って」
 今度は助手が吹き出した。
皆さん(・ ・ ・)って、僕たち二人だけだよ?」
「ううん、まずは、黒猫ちゃんから。ノアローは何処?」
 まるで、会話を聞いていたかのように探偵社の事務室に猫が入って来た。
 香苗は抱き上げると頬ずりした。
「ありがとう、ノアロー。あなたのおかげで私、とても心が癒されてよ?」
 どういたしまして、と猫は答えた。
 それから、志義を抱きしめた。
「ありがとう、助手さん。短い間だったけど、シギちゃんみたいな可愛い弟を持てて楽しかった!」
「ぼ、僕こそ……!」
 最後に、探偵の前に立った。
 手を差し伸べる元依頼人。
 一瞬、躊躇したものの興梠は進み出てその手を握った。
 力強く握り返される。
 手を離さないでままで、香苗は言った。
夫に(・ ・)お会いに(・ ・ ・ ・)なられた(・ ・ ・ ・)んですね(・ ・ ・ ・)?」

 香苗は繰り返した。

「興梠さん、あなたは夫にお会いになられたんですね?」

 聞き間違いだろうか? 助手はハッとして息を飲んだ。
「え? 何だって? まさか――興梠さん、ほんとなの?」
 一方、探偵は落ち着いていた。静かな声で、
「何故、それを?」
「いいの。責めているんじゃないわ」
 香苗は手を離した。
「ただ、知ってるということをお教えしたくて。でなければ私が探偵さんを――あなたをどれくらい感謝しているか、お伝えできないでしょう?」
 クルッと回転して背を向ける。
「これだから男の人って、ダメね? 探偵小説で女の使い方がなってないのよ。女の気持ちや行動を全然理解していないんだから!」
 後姿のまま、一語一語ゆっくりと香苗は言った。
「フラスコ画に夫の手紙なんか挟んでなかった。あの瞬間までは」
「えー?」
あの場(・ ・ ・)で、興梠さん、あなたが入れたのよ」
 更に香苗は続けた。
「夫の手紙を持っていたということは、あの日、あなたは夫からそれを受け取ったってことだし、もっと言えば、夫と会ったってこと。これは歴然たる事実です」
「お見事です」
 興梠は観念した。
「全て、ご指摘の通り、素晴らしい推理です」
「で、でも、何故、興梠さんが手紙をあの場で入れたってわかったのさ?」
「ねえ?」
 身を翻す。湯浅夫人、今は未亡人となったその人は興梠を真っ直ぐに見据えて言った。
「最愛の人が突然いなくなって、一人残された妻が、夫にもらった絵を放っておくとお思いになって?」
「――」
「私、毎日、取り出して、眺めていたわ。ううん、毎晩、抱きしめて寝てました。侵入者に襲われたあの夜もあの絵は布団の中にあったのよ。賊は気づかなかったけれど。そんなだから、誓って言えます。あなたが見せてくれといったあの時まで絵の裏側に、手紙なんて影も形もなかった!」
「――」
「手紙はあなたが私の目を盗んで、あの場でこっそり挟んだのよ」
「あーあ! こりゃあ女心を読めなかった興梠さんの作戦ミスだな」
 少年が喘いだあと、探偵事務所は暫く無音だった。
 静寂を破ったのは興梠響だった。
 ソファに腰を下ろすと、膝の上で両手を組んだ。
「手紙の渡し方がまずかったのは僕の不勉強による失策です。ただ、こういうやり方をした理由は、輝彦さんがそれを望んだから。つまり、あなたのご主人はそれほど徹底して、気を回していた。注意を怠らなかったということですよ、香苗さん」
 天井を仰いで息を吐く。
「あなたにメッセージを残したいけれど、あなた以外の誰にも見つかってはならない。あなたが必要以上に秘密を知っていると外部の人間に勘ぐられてはいけないと心配したんです。家宅捜索であなたのあのフラスコ画が押収される可能性もありましたからね?」
「だから? 夫には信頼できる〈配達人〉が必要だった?」
 凛とした依頼人の声。
「そして、それこそが、あなた(・ ・ ・)なのね?」


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