新鮮な人〈7〉

文字数 2,869文字

「?」
  湯浅香苗(ゆあさかなえ)は身震いして目を開けた。
 今確かに何かが壊れる音がした。ガラス?

 布団から起き上がろうとしていきなり口を塞がれた。そのまま、押し倒される。
 覆面――スキー帽のようなものを首元まですっぽり被った――黒い影。馬乗りにされて身動きができない。 強く覆われた手のせいで息もできなかった。
 革手袋の匂いが鼻腔に充満する。
「……」
 渾身の力で藻掻いた。大きな手は口から喉へ――
 それが幸いした。
 一瞬の隙をついて、移動した手袋の指を思い切り噛んだ。
「ぐぁ?!」
 賊が手を振って退いたのと同時に香苗は声を振り絞って叫んだ。
「キヤー! 助けて――――っ!」
「ふっ、泣き叫んだところで誰もいないくせに? お前の亭主は今頃――」
 賊は最後まで言えなかった。背後で勢いよく襖が全開する。飛び込んできた影。
「チエストー!」
 したたかに脳天を打ち込まれた。
「ゲッ」
「大丈夫? 香苗さん?」
「シギちゃん!」
「くそ、一人じゃなかったのか?」
 少年が夫人に駆け寄った隙に賊は頭を抱えて逃げ出した。
「あ、待て!」
 追おうとする志義。だが、しがみついた湯浅夫人のせいで出遅れた。
 志義が(ほうき)を握り直して追いかけた時は、時、既に遅し。
 賊は書斎の窓から逃げ去ったあとだった。
 ゴブラン織りの厚ぼったいカーテンがゆらゆらと揺れている。
 開け放された洋窓。
 昼間確認した時より、さらに大きく中央部分のガラスが欠けていた。
「クソ、箒じゃなかったら――竹刀だったら脳天をブチ割ってやっていたものを……!」




 わかっている。これは夢だな?
 何故なら、頬を流れる滑らかな感触。
 漆黒の髪だ。
 かつて一度だけ触れたことがある乙女の長いソレ。
 この洋館の光零れる窓の前、後ろから抱きしめたっけ? 
 埋めた頬に伝わった至福の冷気。冷ややかで甘い――
 いや違う。 耳元で響く――
 これは、鈴の音? 猫の首輪についている? 
 まあ、どっちにせよ、夢だな? 
 (あいつ)が俺に擦り寄って来るわけがないから。
 
 鈴の音は更に大きくなった。

「!」
 
 
 探偵はベッドから跳ね起きた。
「電話か? やれやれ、今出るよ」
 ビクトリア朝のチェストの上の電話機を取って探偵の顔は一変した。
「え? 何と言った? 賊だって(・・・・)?」
 反射的に時計に視線をやる。3時。周り中、黒猫と同じ色。世界は闇に塞がれている時間だ。
『そうだよ! たった今、襲われたんだ! もちろん、僕が撃退したけど!』
 受話器の向こうで聞き覚えのある少年の声が(わめ)いていた。
『とにかく、早く来て! 興梠(こうろぎ)さん!』




「不覚でした。まさか、こんな急展開になるとは僕は予測できなかった。申し訳ない……」
 夜の街を、愛車を飛ばして駆けつけた探偵は率直に詫びた。
「〈賊〉の正体は誰だと思う? そして、目的は?」
 矢継ぎ早に発せられる助手の問いに、
「正体については、今は軽々しく断定するのはよそう。だが、目的はわかる気がする」
 書斎の壊れたガラス窓の前で興梠はおおよその推理を披露した。
「最初に窓を割って侵入した人物と今夜襲って来た人物は同一だと思う。最初の時の目的は警察の家宅捜索の前に〝何か〟を探したんだろう。警察より先に手に入れたい何か。もしくは、警察の手に渡らせたくない何かを」
 探偵は自ら結論づけた。
「つまり、賊はいち早くご主人が失踪したのを知る立場にあり、また警察が動くことも知っていた人物ということになる。このガラスは最初の侵入の際、窓の鍵を開けるために壊されたんだ。クソッ」
 冷静な探偵が悪罵した。自分自身を罵ったのだ。
「迂闊だった! ガラスが破損していることに気づいたのに。昼間のうちにもっと早く対策を講じていれば今回の危険は避けられたものを……」
 賊の最初の侵入時、香苗は気づかなかったのだ。その(やから)は易易と書斎に忍び込んで目的の品を物色した。
「その〝何か〟って何なのさ?」
 助手の質問に我に返る。
「多分、自分に不利になる証拠の品じゃないだろうか。僕が思うに、そいつは目的物を見つけることはできなかった。だから、再び今夜、やって来たのだ」
「じゃ、今回の侵入の目的はなんなの? 輝彦さんの所持品はもう一切合切警察が持って行っちゃってるよ?」
 唾を飲む少年。興梠はその先を言うのを躊躇した。
「どうぞ、はっきりおっしゃってください」
 瞬きもぜずに湯浅夫人が促した。
「この襲来者は、自分が見つけられなかった代わりに、万が一にも住人がそれ(・・)を見つけることのないよう徹底しようと思ったんでしょう――つまり、住人、あなた(・・・)を亡きものにしようと……命を奪おうとしたのだと思います」
「そんな……」
 喘いだのは志義である。夫人は声を発さなかった。桔梗柄の浴衣の胸の前できゅっと拳を握っただけ。
「僕が思っていた以上に事態は切迫している」
 興梠は真摯な眼差しを夫人に向けた。
「このまますぐに今回のことを警察に連絡しますか?」
「お断りします」
 蒼白の顔ながら依頼人はきっぱりと首を振った。
「えー! 何故さ?」
 ずっと傍らで肩を抱くようにして付き添っていた志義(しぎ)が吃驚して叫ぶ。
 蓬色のショールを寝巻の上にきちんとかけ直してから香苗は答えた。
「警察に知らせたら、確かに私の身の安全は確保されるでしょう。でも、輝彦さんとの連絡が取りにくくなってしまうわ!」
「!」
 失踪中の夫から何らかの接触があるのではと依頼人は希望を捨てずにいるのだ。
「特高は容赦しないと聞いています。私の保護を口実にどんな真似をするかわからない。警察側に利するようなことを私はしたくないわ。それに――」
 これこそが拒否の一番の理由だろう。
「夫を捕らえようとしている人たちに守ってもらう(・・・・・・)つもりはありません」
「で、でも、危険すぎるよ! 実際、あなたはこんな恐ろしい目にあったんだ。またいつ同じ目にあうかわかったもんじゃない!」
「嫌です!」
 少年の切羽詰った声にも香苗は首を振るばかり。
「絶対に、いや!」
「……わかりました」
 興梠響は静かに頷いた。
「そうまで仰るなら――では、今後は僕たちがご一緒しましょう」
「そうだ! その手があった! それがいい!」
 珍しく即座に探偵の意見に賛成する助手だった。
 反対に戸惑いの表情を見せたのは依頼人である。
「え? でも……よろしいんですの? そうまでしていただくなんて、私……」
「勿論、依頼料はその分、上乗せさせていただきますよ」
 厳格な顔つきを崩さず探偵は言い切った。
「但し、お支払いはご主人がお帰りになった際で結構です」
 パチンと少年が指を鳴らした。
「そうこなくっちゃ! それでこそ、我らが興梠探偵社だ!」

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