新鮮な人〈2〉

文字数 2,536文字

「3日前の3月15日は私たちの第1回めの結婚記念日でした。それで、私たち待ち合わせて――」

 輝彦(てるひこ)香苗(かなえ)、湯浅夫妻は街でも屈指のレストランで〈紙婚式〉の記念の晩餐を楽しんだ。
 創業明治4年、牛肉(ビーフ)には定評のある大井肉店でのフルコースのディナー。
 全てのテーブルの上に灯されたキャンドル。バルコニーからは街の灯と星たちが祝福の調べを奏でるようにさんざめいている。
 デザートの来る頃、その席で、夫・湯浅輝彦はいつになく厳格な顔つきで切り出した。
「香苗、君は、僕を信じてくれるかい?」
「もちろんよ。なあに、今更?」
 ワインのせいでちょっぴり頬を染めて若妻は答えた。食事前にプレゼントされた翡翠の指輪を嬉しそうにくるくる回しながら、
「輝彦さんたら変なことおっしゃるのね?」
 だが、夫の方は厳しい表情を崩さなかった。
「いいかい、この先、どんなことが起こっても僕を信じて欲しいんだ。僕はね、君に対してやましいことなど何一つ行ってはいない」
「?」

 
「最初、私は夫の浮気の告白かと思ったんです。でも、あまりにも真剣な様子に――こんな輝彦さんを見たのは、私、初めてでした」
 言ったあとで、即座に人妻は訂正した。
「あ、二回目ですわ。私に結婚を申し込んだ時も輝彦さんはそんな真剣な顔をしていました」
「どうぞ、お続けください」


 
 湯浅輝彦は言った。
「万一僕に異変があったら……」
「それ、どう言う意味ですの?」
「例えばね、僕が突然姿を消したら、その時はここを訪ねるといい」
 赤いバラを一輪飾った銀の花瓶がかすかに揺れる。テーブルの上を滑らせて輝彦が妻に差し出したもの――
 白い名刺だった。
 
      
       《  興梠探偵社
           探偵 興梠 響  》



「夫が姿を消したのはその翌日です。そして、昨日、特高が家にやって来て、夫の書斎は勿論、家中ひっくり返して行きました」
「特高とおっしゃいましたね?」
 興梠は確認した。
「ええ」
 その様子を思い出したのか依頼人は細い肩をブルっと震わせた。
「妻である私自身、全く何が何だかわからないまま、突然、何十人もの警官が押し入って来たんです。そして、今日の、あの新聞記事です……」
「――」
 軍事情報のスパイは、普通、陸軍憲兵隊の管轄だが。
 それだけでただならぬ気配を感じる。
 特高=特別高等警察とは、その名が示す通り、国家転覆に繋がる〈特定〉の行為・運動の取締りを目的として設置された警察組織だった。第2次大戦前の日本では主要な府県の警察部に存在した、いわゆる秘密警察である。最近では天皇制廃止や侵略戦争に反対する共産主義に目を光らせていて、作家の小林多喜二を拷問で死に至らしめたことは記憶に新しい。囚われたら最後、裁判にかけられる以前に尋問中の拷問死が日常化している。湯浅輝彦が逃亡したのはある意味賢明だったかも知れない。
「ご主人は本物のスパイ(・・・・・・)だったんですか? 特高が動くってことは共産主義系(コミンテルン)? それならロシアのスパイってことかな?」
「これ、フシギ君」
「それこそ、私が尋ねたいことですわ! 私の夫はスパイなんでしょうか? いいえ!」
 胸の中の夫の瞳を覗くように、今は眼前の探偵の双眸を真っ直ぐに覗き込んで湯浅香苗は首を振った。
「いいえ、違います。あの人はスパイなどではありません。私のかけがえのない存在、世界中で一番優しい良き夫です」
 一旦瞳を伏せてから、改めて顔を上げる。
「ですから、どうか、探偵様、夫の行方を探し出してください。勿論、警察より先に、です。私、もう一度、どんなことをしても会いたいんです。会って、あの人の口から真実を聞きたい」
 美しい依頼人・湯浅香苗は自らを励ますように言い切った。
「探偵様ならおできになりますわ! だって、夫自身が指名したんですもの!」

どうも――助手が先刻指摘した通り――今回の依頼も風変わりだ。
若妻が、というより、失踪した当人の湯浅輝彦なる人物がよりによって自分を探してくれ(・・・・・・・・)と依頼したというのだから。

「承知しました」
 既に興梠響(こうろぎひびき)は椅子から立ち上がっていた。
「では、早速、ご自宅を拝見させていただきます」
 驚いたのは助手である。探偵のこの予想外に迅速な対応に面食らった顔で、
「え?」
「何かご主人の行き先を示す手がかりが残されているかも知れませんからね」
「でもさ、もう、既に昨日、特高が家宅捜索してるんでしょ?」
 夫人も悲しげに頷いた。
「ええ、その通りです。夫に関するものは粗方(あらかた)持って行ってしまいました」
「構いませんよ。どんな小さな痕跡が残されているとも限らない」
 落ち着き払って、トレンチコートに腕を通しながら探偵は言う。
「『証拠は希望と似ている。どんなに微小でも見逃すべきではない』」
「ホームズ? それとも、ポワロ?」
 興梠は片目をつぶってみせた。
「いや、(オリジナル)だよ」
「ああ、どうりで――」
 間伐入れず、大いに納得して少年が叫んだ。
「胡散臭いと思った!」

 とにもかくにも――
 時を移さず興梠探偵社の一行は依頼人とともに探偵の愛車フィアット508で移動した。
 目的地は依頼人の自宅。
 丘の上の探偵の事務所(元医院の洋館)からかなり距離のある住宅街の一郭。
 周囲を黒塀で囲った、趣のある二階建ての日本家屋である。
 門から玄関まで御影石の飛び石が敷かれている。植えられた擬宝珠(ギボウシ)が来客の足元で優しく揺れた。
「ご結婚以来こちらに?」
「はい、元々夫が姑と住んでいた家ですの」
 鍵を開けながら若妻は答えた。含羞(はにか)んだようなその微笑はハッとするほど可憐だ。
「舅は、夫が中学の時亡くなったそうで、姑も私たちの結婚式を見届けた数日後に安心したのか息を引き取りました。ずっと病の床についていたんです。どうぞ、お入りになって」

 玄関を入るとすぐ、右横の洋間が夫・湯浅輝彦の書斎だった。

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