新鮮な人〈13〉
文字数 3,924文字
◇◇◇
遡って3月22日午後 古本屋
「ようこそ、お待ちしていましたよ、
勘定台奥の階段を上がり二階に案内すると座布団を勧めながら、身を隠していた
「いつ来るか、いつ来るか、とヤキモキしていました。謎は難しかったですか?」
蓬髪をかき揚げて、
「僕としては大学時代の絵でピンと来てくれると期待したんですが。まさか、金魚鉢まで探った? あれは保険ですよ。おまけです。 間違った方向へ行かないように万が一を心配して用意しておいたんです」
「面目ない」
「ここの店主とは懇意でね。その上、90を過ぎて最近はボケてきたから、世間の事情に疎いんだ。僕が新聞紙上を賑わせているている〈スパイ〉だなんて気づいていない。それで、昔のよしみで店番をする代わりに転がり込ませてもらったのさ。それより――」
妻は、
二度、自宅に侵入者があったことを探偵は告げた。
「うむ、そいつは、猫の絵で示した通り、尾崎秀樹だろう。示現流に脳天をヤラレタ? そいつァいい! 包帯姿を見てみたいものだな!」
白い歯を見せたあとで輝彦は顔を引き締めた。
「時間がない、簡潔にお話します。ここに三通の手紙を用意しました。一通は僕を破滅させようとしている連中へ――これから投函するつもりだ。残る一通は妻へ。そして、もう一通は
三通目の手紙は少々分厚かった。
「?」
深々と逃亡者は頭を下げた。
「どうかあなたに保管しておいていただきたい。その理由をお話します」
僕はとある偶然から、現在この国で暗躍するスパイの存在を知ってしまいました。
証拠の写真も撮りました。だが、それを察知した連中は逆に僕がスパイだと濡れ衣を着せて僕を抹殺しようと画策しているのです。僕に罪を着せてそれでケリをつけようと。
そんな馬鹿なとお笑いになる?
僕だって、最初はタカをくくっていたのですがね。どうも僕が嗅ぎ当てた鉱脈はとてつもない大物だったようです。一塊の新聞記者風情の手に負えるシロモノではない。
あなたが思う以上に
結論をいいます。僕は腹を
どういう意味かって?
僕を追う連中が僕をスパイとして欲するんなら文字通りこの体、くれてやろうというんですよ。
僕がスパイという汚名を着れば、取り敢えずは、現在この国に潜伏している
連中の目論見がそれなら、甘んじて引き受けます。但し、妻だけは見逃して欲しい。
勿論、この件について妻は一切知りません。が、連中はどこまでやるか油断がなりませんから。
どうも僕に関わる人間は全て抹殺しようとしている。
それで――
僕は取引をしようと思うんです。
妻に今後
スパイ本人の写っている証拠写真は勿論――尾崎秀樹のことではありませんよ? アイツなど使い走りの小物に過ぎない。本物の恐ろしい奴が存在するんです。その男と協力者全員の名簿、ひと目でそれとわかる僕が探り出した重要な情報類です。
それらを妻に何かあった時は公表するよう、
「おわかりですね?」
湯浅輝彦は丸縁眼鏡を上げた。
「とある人物とは、
ここで始めて興梠が声を発した。
「いつまででしょう?」
「勿論、一生涯です」
「あなたがそこまでご存知なら、もはや隠す必要はありませんね?」
静まり返った探偵社の事務室。漆喰の天井を見つめたまま探偵は語り続ける。
「僕はその後、ご主人を自分の車に乗せて希望通りの場所までお乗せしました」
「そこは何処? お教えください」
「米原駅です」
「滋賀県の? 北陸本線始発駅だね? ああなるほど! そこから輝彦さんは軽井沢を目指したのか?」
「僕はそこで分かれて戻って来たのです」
「でも、それって――」
ハッとする志義。
「死ぬとわかっているのに? つまり、自殺をほのめかしている人に協力して死地まで運ぶ手伝いをしたってこと? 止めもせず冷徹に……ただ見送ったってこと?」
あの朝戻って来た探偵から伝わった冷気は……これだった?
雪を含む凍った風。北国へ向かう汽車。
―― ここで結構です。僕は行くとしよう。
国鉄米原駅で車を止めさせた輝彦。
―― あなたはどうか、ホームには入らずこのままお戻りください。
何の関係もない赤の他人のあなたに、
辛い仕事を押し付けてしまって申し訳ない。
―― 何の関係もないことはありません。あなたは依頼人で、僕は探偵です。
―― そうだった! 僕の目に狂いはなかったな?
湯浅輝彦は握手の手を差し伸べた。
―― 今回、数ある探偵の中からあなたを選んで正解でした。
こんな時、何と返せばいいだろう? 何を言えばいい?
握手の手を握り返して興梠は一言。
―― 興梠探偵社へようこそ!
「そんな――」
なおも抗議しようとする少年を制したのは香苗だった。
「いいのよ。探偵さんには手を尽くしていただきました。夫が巻き込まれた渦はただならぬものだったと私も理解しております。夫は尋常ならざる時代の災厄に飲み込まれたのでしょう」
肩に優しく手を回して
「ね? シギちゃん、だから、私、言ったのよ。憶えてる? 私は幸せな女だって」
『こんなにも愛されて。
そして、三人もの男の人たちに命を賭けて守っていただいて』
「だから1秒も無駄にできない!」
断髪の髪をぱっと跳ね上げる。
「これからの人生、どんなことが起ころうと絶対生き延びてやる。ただ生き延びるだけじゃないわよ? 世界がどうなるかを見届けて、その上、悔いない一生を送るつもりです!」
「そ、そりゃまた……欲張りだなあ!」
「あら? それよ、〈貪欲〉も私たち女の〝特性〟の一つだわ! フフ」
膨らんだトランクを持ち上げながら悪戯っぽく香苗は笑った。その笑い方に志義は見覚えがある。探偵小説マニアだと明かしたあの夜の微笑。
「ほんとはね、輝彦さんの生まれた街へは車を飛ばして颯爽と乗り込むつもりだったんだけど、車を購入する手続きや届け出等が煩雑で――諦めたわ」
「え? 香苗さん、車を運転できるの?」
本当に、この人といると驚くことばかりだ!
「ええ! 教員免許はこれからだけど、運転免許は持っているわ。結婚してすぐに、輝彦さんに手ほどきを受けたの。これからの女性には車の運転は必須だって! では――」
「お待ちなさい!」
探偵は進み出て夫人の手に愛車のキイを乗せた。
「これをお貸しします。乗って行かれたらいい」
「まあ!」
香苗は目を瞬いた。
「でも、すぐには返せなくてよ?」
「かまいませんよ。どうせ、新車を購入する予定だったんです。夏にVW社が新しいモデルを売り出すとか。だから、この車はあなたがお使いなさい」
「ち、ちょっとちょっと、興梠さん……」
「では、遠慮なく!」
「えー? そんな……そんな安易に? 香苗さんも?」
探偵の愛車フィアット508に乗って――そう、夫の輝彦が最後に乗った車でもある!――湯浅未亡人は走り去った。
高らかに鳴らすクラクション。宛らファンファーレのよう。
パパパアアーーン……!
「ごきげんよう!」
「あーあ、行っちゃった……」
「おや、その落胆ぶりは――この街にいたならまた足繁く遊びに通おうと思っていたな、フシギ君?」
「チェ、興梠さんこそ、好きだった……惚れてたんじゃないの?」
それには答えず興梠は言った。
「そうそう、知ってるかい、フシギ君?
「!」
「いつまでも色の褪めない、その鮮やかさに感嘆してつけられた名だ」
ジレの裾を引っ張りながら探偵はつくづくと息を吐いた。
「彼女は正しく……その通りの人だったねえ!」
《 面影も新鮮なひと 春の夢 》
追記;ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙の日本駐在記者、リヒャルト・ゾルゲがスパイとして警視庁特高部第1課及び外事課に逮捕されたのは3年後、太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941)10月18日である。それに前後して数名の日本人新聞記者も逮捕されている。
特記すべきは、中国大陸で蒋介石軍の飛行機爆破や武器強奪に関わったこの恐るべき国際スパイ・ゾルゲが日本においては当時のオイゲン・オットマン・
それほど深く広くスパイは暗躍していたのである。
なお、興梠響はゾルゲ逮捕の報道を聞いた後、湯浅輝彦より託されていた封書を焼却した。新聞の報道内容は輝彦が突き止めて書き記したものと同一だった。