或る欲望についての話-1

文字数 1,958文字

 ピンポーン、と気の抜けた音が聞こえた。インターホンを押したのだから当たり前だが、この音は正直、好きになれない。
 六十サイズの段ボールは、その小ぶりな見た目にそぐわず、ずしり、と肉に食い込む重みがある。それを片腕で持ちながら、インターホンの応答を待つ僅かな間、蓋に貼られた三次元コードを端末で読み取り、届け先の住所や氏名、箱の中身、依頼者の住所や氏名を表示させておく。
 今日日の配送業は手書きのラベルなど使わない。専用端末さえあれば、嵩張るだけの伝票など不要だし、手書きの文字なんて読みにくいものを解読せずに済む。
 上下黒の作業着に、こちらも黒のキャップを被り、業者は門前に立ち尽くす。インターホンからは未だに応答がない。
 高級住宅街に建ち並ぶのは豪邸ばかりだ。門扉から母屋まで距離があるような、古風な邸宅は減ったとはいえ、不意のインターホンに応える習慣まで減ってしまっては困る。或いは、そういった雑用を頼める家政婦が帰ってしまったのか。時刻はそろそろ、夜も更け始める頃だ。
 棒立ちのまま少しして、もう一度、インターホンを押そうと指を伸ばした矢先、不審そうに強ばる女性の声が応対した。
「お届け物に上がりました」
 気持ちはわからないでもない。夜も遅くに、急な宅配物が来たら警戒する。男不在の女所帯なら尚更だ。
 業者は爽やかな口調を心がけ、ついでにインターホンのカメラに営業スマイルを作って見せた。不審がられては仕事にならないからである。
 程なく、今行きます、と女性が答えた。スピーカーからは老若の区別がつかないが、この家には父と母と娘の三人家族が住んでいるので、母か娘のどちらかだろう。
 出てきたのは、中年なのに小綺麗な母親のほうだった。若作りをしているというより、歳相応ながらも、女性らしさを捨てていない。老けて草臥れた母親像は、彼女にはない。
「何かを頼んだ覚えがないのだけれど……」
 彼女は訝しそうに言って、門扉を挟んで業者と相対した。
「お届け物はこちらなんですが、この住所で合ってますか?」
 若い配達員は、専用端末の液晶に表示された情報を彼女に示す。僅かに身を乗り出して画面を覗き込もうとする彼女に、どうぞ近くでご覧下さいと端末を手渡したあと、年齢の割にはシワのない喉元に刃渡りのあるナイフを突きつけ、
「騒ぐと殺すぞ」
 恫喝した。
 配達員を装ったフユトは、彼女の脇腹に切っ先を押し当てながら、邸宅内へと案内させる。時折、悪戯するように刃を軽く肌に滑らすと、彼女は泣き出しそうな顔をして、懇願するようにこちらを振り向いてきた。
 リビングまで案内させると、フユトは六十サイズの段ボールをソファに置いて開封し、中から本格的な手錠や粘着テープ、結束バンドといった拘束具と、黒光りする拳銃を一丁、取り出して床に置く。
「さて」
 リビングの片隅で震える母親を振り向き、
「あんたと娘は悪くねェんだけどさ、恨むなら旦那にしてくれな」
 と、哀れむようなことを言いながら、その実、軽薄な笑みを浮かべると、キャップを脱いで髪を直しながら告げる。
「娘、呼んで来いよ」
 悪戯半分に肌を傷つけられた彼女は、全身を震わせて今にも腰を抜かしそうになりながら、どうにか頷くと、慌ててリビングを出て行った。このままどこかへ通報される恐れもあったが、その時はガス管を切って外に出たあと、ポケットに忍ばせたライターで火を放てばいい。
 五分もせずに、階段を駆け下りてくる足音がした。すぐにリビングのドアが開けられ、十代だろう娘が真っ青な顔色で、怯えきった母親の後ろに連れられている。
「あの男が帰ってくるまで、いい子にしてろよ」
 優しい口調と裏腹に、フユトは二人の口元と体に粘着テープを巻き付け、リビングの隅に座らせておく。後ろに回した両手の親指を結束バンドで括り、手錠で拘束するという、おまけ付きで。
 広く造られたリビングは、モデルルームのように生活感がなかった。家主の趣味だろう、バカラグラスのコレクション棚だけが悪趣味で、シンプルに纏められたインテリアには合わなかった。
 母娘二人、床に座り込んで震えながら啜り泣く声は、フユトの耳にも届いていた。ローテーブルに腰掛け、黒い革手袋を嵌めた指でナイフの刃を確かめる素振りをしながら、煩いと黙らせることもなく、夜が更けるのを待っている。
 携帯端末が着信を告げたのは、日付が変わる頃だった。鳴ったのは母親のもので、画面に表示されたのは、フユトが帰宅を待っている男の名前だった。
 口の粘着テープを乱暴に引き剥がし、早く帰るように伝えろと告げてから、スピーカーホンにして応対させる。娘の命が懸かっている手前、母親は震える声を隠しながら、お願いだから早く帰ってきてと、強請るような声色で、電話の向こうの相手に告げた。
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