文字数 2,291文字

 揶揄するような声に、
「清々してんだよ」
 枯れた喉で、吐き捨てるように答えた。
 シギは喉で嗤うだけで、ちょっかいは掛けて来ない。この男は、強がりを感じ取るたびに宥める三流の調教師とは違う。

場面を的確に見極める点に掛けては、一流の調教師でも及ばない。
「せいぜい羽でも伸ばしておけ」
 離れた位置から、耳元で命じるときの重みを伴った声がして、フユトは背筋を粟立てた。意識を攪拌する強烈な攻めの最中、待てと良しで絶頂のタイミングを管理する、あの逆らえない声は身に染みている。
 シギの言葉はその通りの意味を孕むことなどない。言外に、戻って来たあとの情事は激しくなるから覚悟しろと伝えていて、見えない貞操帯でも付けられた心地になる。駄犬の飼い主としては三流でも、調教師としてなら一流さえ凌駕するシギは、ここから既に放置プレイを決め込んでいるのだ。
「……そうする」
 薄っぺらな理性も、頑強な意地も簡単に粉砕する地獄の愉悦を思い出して、ぞくぞくする背筋の震えを堪えながら、フユトは素直に答えた。
 多忙なシギを相手にする頻度がそもそも少ないのだから、一ヶ月くらいなら何てことはない。二ヶ月だって余裕で乗り切れる。スケジュールを詰め込めば、きっと三ヶ月だってあっという間だ。盛りの付いた猿でもあるまいし、あの男はこちらの貞操を何だと思っているのか。と、憤慨していられたのは二週間だった。
 そう言えば、シギは国内にいるときは必ず、凡そ二週間おきにフユトを呼び出していたことを、ようやく思い出す。そして、間隔が短いときはとことん甘やかすから生温く、僅かでも間隔が空けば、フユトが哀願するまで放出も絶頂(ドライ)も許さない、拷問のようなセックスをしていたことも。
 普段は意識しないものの、よくよく思い出してみれば、シギの行動は意図したようにパターン化されていた。脳髄の奥深く、脊髄反射として徹底的に刷り込むように。
 もっと早く気づくべきだった。身体は反復に慣れやすいから、シギがいつから企図していたかなんてわからないものの、恐らく、前に国外から戻ったあとだ。呼び出しの間隔はシギの忙しさに比例していたし、その全てがコントロールされていたとは思わないものの、あの男の計画性は末恐ろしい。
 シギが国外へ出て一ヶ月は、自慰で凌いでいられた。取り敢えず放出できればいい、という単調な排泄作業で満足できなくなったのは一ヶ月を過ぎた頃で、癪だと思いながらシギの手管を再現して自分を追い詰めてみたものの、吐き出すだけでは決定的な何かが足りなくて、自室のベッドに沈む。
 たかが自慰でぐったりしながら、腰の奥が重く蟠る感覚に、目を閉じる。
 それは出来ない。それだけはフユトの意地が許さない。そこを明け渡すのは、相手がシギだから仕方なくであって、フユトが自ら望んで足を拓くわけではない。これも、二人の間の

の一つだから、自分で自分を裏切るわけにいかない。
 だから、久しぶりに馴染みの娼婦を買ってみた。フユトのセックスは性急で雑すぎると言って憚らない、口さがない女だ。良く言えば相手が誰であれ媚び諂わない、悪く言えば客を客とも思わない、失礼極まりない娼婦だが、後腐れが全くないのは気に入っている。
「……腑抜けたもんね」
 以前なら月に一度は買っていた女が、久しぶりに顔を合わせた途端、嫌そうな表情でそう言った。
「俺が?」
 思わず睨みつけそうになりながら、フユトは心外とばかりに尋ねる。
 互いに馴染みだから話を擦り合わせるまでもなく、手頃なモーテルへ向かって歩き出す。
「根っからの野良犬だったのに、牙引っこ抜かれて爪切られた飼い犬じゃない」
 溜息をつきそうな彼女の見立ては割と的を射ている。フユトは駄犬だけれど、間違いなく飼われてしまった。
 内心でぎくりとしながら、やはり顔に出やすいのだろうかと考え込むフユトに、
「野良犬だから仕方ないと思って黙ってたけど、お行儀よくなったんなら上手くなったんでしょうね?」
 娼婦は言って、嫣然と濡れた瞳を向けてくる。
 それが客に身体を捧げて金を受け取る女の言葉かと言いたくはなったが、他にはない彼女らしさではあるので、
「……まぁ、あんま期待すんなよ」
 素っ気なく目を逸らしながら答えたフユトは、彼女から表情が消えたことには気づかなかった。
 女の身体や肌はこんなに柔らかいものだったろうかと、フユトが密かに感慨に浸る傍ら、
「アンタはどこまで腑抜ければ気が済むの」
 呆れるどころか、蔑む調子を孕んだ彼女の言葉に、フユトは最早、何も言えない。
 フユトより僅かに歳上の彼女が、持ちうる限りの技巧で献身的に口淫してくれたにも関わらず、ゆるゆると頭を擡げたそこは、それまでだ。反応はすれども使い物にならない。
 女は久しぶりだから緊張してるんじゃないか、とは言えず、
「本調子じゃねーんだって」
 苦笑いで誤魔化す。
 経験豊富な彼女は、男にはそういうこともあると知り尽くしているから、それ以上は何も言わない。どことなく不服そうな目で睨めつけるくらいで、口淫は諦め、ベッドの端に座るフユトの傍らへ腰を下ろす。
「今は二十一?」
「二十二」
「まだ若いくせに」
「お前が思うよりは淡白だぜ、きっと」
 軽口の応酬に意地悪く微笑んでいた彼女はふと、表情をなくして、
「──好きな人がいるんでしょ」
 ぽつんと呟く。
 何事にも頓着しないような彼女の弱々しい声に、フユトは傍らを振り向いて、
「アンタはあたしの弟みたいなものだからわかるし、あたしだって莫迦じゃないから噂は聞いてる」
 寂しげな彼女の横顔に、言葉をなくす。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み