文字数 2,304文字

「言いたいことがあるなら言え」
 僅かに低くなったシギの声色は、苛立ちを伝える。いつもは飄々として、他人の感情さえ手玉に取るのに、振り回されるのは好まないらしい。
 フユトは顔を上げて、逸らした視線をシギへと向ける。
「仕事、あるから」
 それは嘘じゃない。但し、本当のことでもなかった。個人で請け負った仕事はあるが、たった数日のロスで切羽詰まるほど、スケジュールは押していない。翻弄されるくらいなら、さっさと片付けてしまおうと、そのつもりで口にした。
「お前が言いたいことはそれじゃない」
 なのに、シギは全てを否定する。離れた距離を静かに詰め、動けないフユトの顎を捉えて、底なしの瞳で覗き込んで来る。
 自分の瞳の奥を覗く機会なんて然程ないものの、シギの言う通り、フユトは酷い顔をしていた。真顔を取り繕いながら、平静を装った瞳の奥の奥では、この感情を察して欲しいと叫んでいる。嫉妬も、寂しさも、フユトが抱える醜い感情は剥き出しだ。否定して押し殺すことなんて、最初から出来ていない。
 それでも、言わされるのは癪だった。認めてしまったら後戻りできない。この男に永遠の隷属を誓って、それでどうなる。シギは誰かのものになんかならないのに。
 こんなの、不公平だ。
 目を逸らすと、シギは意外にも、捉えた顎を解放した。フユトが羞恥と屈辱に打ち震えながら、屈服する瞬間を待ち望んで愉しむ男の思わぬ反応に、反射的に目を合わせたのが悪かった。
 表通りに近い路上で、深く、キスされる。
 二人きりの密室でなら、何度も交わした口舌だ。誰に見られるとも知れない場所での交歓に、体が竦む。俄かに肩を押し返そうとする手を取られ、骨が軋むほど、手首を返される。それでも尚、抵抗して身動げば、指の一本は折られそうな気配に、フユトは抗うことをやめた。
 ちゅる、と吸われた舌を解放されて、ようやく呼吸が戻る。甘く痺れる粘膜の余韻に呆然としながら、突然の暴挙を働いた男を、気丈に睨み据える。
「ふざけんな」
 吐き捨てるようなフユトの言葉に、シギは口角をゆるりと上げて、
「俺とお前がどういう関係か、知られたいんだろうが」
 フユトの瞳の奥を覗き込みながら、不遜に宣う。
 シギの瞳の中で、フユトは目に見えて動揺しながらたじろぎ、泳ぐ視線を白々しく逸らす。どれだけ平静を装っているつもりでも、フユトの感情は筒抜けだ。この男のように、どこまでが演技で、どこからが本心かわからないような対応ができない。
 ずっと、嘘でも平気だなんて、言えなかった。本音を噛み殺した次の日、言いたいことも言えないまま、傍らの最愛を失ってしまうのは、あまりにつらいから。きっと後悔してしまうから。
 けれども、それはかつての最愛に対しての話で、目の前にいる男への感情とは違う。独占したいし独占されたい、そんな歪んだ気持ちは、何を擲ったとしても、勘づかれたくなかった。
 俯いたまま、濡れた唇を手の甲で拭う。今のフユトができる、最大限で精一杯の抵抗だった。
「……知られて困るのはお前だろ」
 例え、獣のように首を噛まれて、マウントを取られたとしても、屈しはしない。そんな強気を滲ませながら、フユトは言う。
「俺が?」
 シギが意外そうに聞き返すから、
「金も権力(チカラ)も、持てるものは全部持ってるから、擦り寄ってくる相手はわんさかいるもんな」
 その余裕が悔しくて、挑戦的な言葉を選んで叩きつける。
「……あぁ、なるほど」
 虚を衝かれたようだったシギは、得心したように頷いて、
「俺が不特定の相手ばかりするのが気に入らないのか」
 瞳に妖しい光を宿しながら嗤う。
 顔に血が昇ったフユトが、咄嗟に違うと否定しかければ、
「水商売の女も娼婦も男娼も、俺の情報源として付き合いがあるだけだ」
 その言葉に重ねるように、シギが答える。
 夜の世界に息づく人間は、その職種や関係性の特異性から、様々な情報を抱えていることが多い。情報屋に頼るようになるまで、フユトも娼婦や男娼を買って、風の噂程度の話まで聞き出してきた。それは仕事に於ける大事な段階で、作業だ。
 情報屋としての貌も持つシギに取ってみれば、人脈も情報も持ち得る彼らは貴重な情報源だから、何かと懇意にする必要がある。水商売の女には見返りとして、確固たる売上を支えてやるべきだし、娼婦や男娼には安心して過ごせる一晩を保証してやるべきで、それがシギの仕事の一部でもある。
 しかし、彼らは彼らだ。彼らはシギの思惑を受け入れた上で、割り切った関係を持っている。恋慕を隠さない年少のバーテンとは違う。
「お前が誰と寝ようと気にしてねェよ」
 だから、フユトは強がってみた。嫉妬するなんてらしくない。最愛だった兄と、この男では存在の重みさえ違うのに、占有されたいなんて馬鹿げている。最愛を失ったための気の迷いだと言い聞かせるたび、他に行けない自分に気づいてしまうのも、きっと、頭がどうかしているせいだ。
「……そうか」
 瞳を覗き込んでいたシギが、不意に、身体を引いた。その僅かな動きと口調の変化に、フユトの心臓が凍てつく。
「なら、今夜の相手はあれに頼もう」
 そう言って、シギが来た道を戻るから、子犬のような少年と馴れ合って睦言を交わす、その刹那の想像に歯噛みする。
 きっと、シギは大事に扱うに違いない。フユトが知らない顔をして、シギは舌先で甘い嘘を紡ぐ。少年が毒牙に怯えることなく耽溺してしまえるように。そっと繋ぐ首輪に、複雑な鍵を掛けながら。
 シギの傍らはそれで埋まる。フユトの居場所は何処にもない。最初から用意されていない。それを望んだのはフユト自身だ。曖昧な関係がようやく終わろうとしている。
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