文字数 2,680文字

 懇願するような妻の言葉など響かなかったのか、男が帰宅したのは、通話してから二時間ばかり過ぎてからだった。妻と娘は先に就寝したと思ったのか、明かりを落とされて暗い室内を訝ることもないまま、手荷物をダイニングの椅子に置いて、キッチンで水を飲む。置いた荷物をそのままにリビングへやって来た男は、僅かに開いているカーテンを気にして、きっちり閉めるべく一歩を踏み出し、硬いものに躓いて下を見る。
 後ろ手に粘着テープで拘束された娘が、腹部と首を血塗れにして、目を見開いたまま事切れていた。
 悲鳴さえ竦んだ男は思わず後退り、何かを探すように首を巡らせて、壁に凭れたまま事切れている妻の姿を見つける。こちらも後ろ手に拘束されたまま、頭をだらりと下げているが、体に目立った傷はない。何が致命傷だったかなんて、知りたくもなかった。
 縺れる足をそのままに、どうにかダイニングまで逃げようとした男の背中を、誰かが遮る。振り向く間もなく、黒い革手袋をした片手で口を塞がれ、刃渡りのあるサバイバルナイフが首筋に押し当てられた。
「できるだけ酷く殺してくれって言われてさ」
 気づかれないよう潜伏していたフユトは、奥歯が鳴るほどに震える男を哀れみつつ、首筋に当てた刃に力を込める。ぷつ、ぷつ、と薄膜を裂くように皮膚が破れていく、微かな感触がする。
「家族は何も悪くないのに、外で避妊しねェからこうなるんだ」
 優良企業で管理職として働く男には、接待の名目で足繁く通うクラブがあった。凡庸な顔立ちながら愛嬌のあるホステスと愛人関係になり、相手を妊娠させて結婚を迫られた挙句、端金で動くような下郎を雇って堕胎させようとして、彼女を嬲り殺しにさせたらしい。同僚たちからも可愛がられていた彼女の弔い合戦だと、フユトの名前を聞きつけたホステスからの依頼だ。
 それがどこまで正確な情報か、権益や派閥が絡まない個人依頼ではあまり重視することじゃない。安くても、どんなに理不尽でも、フユトにとっては暴力を振りかざす口実があればいい。
 他人なんて、半径十メートル圏内さえ大事にしていれば、それ以外はどうだっていい──ストリートで育ってきたフユトにとっては、最愛と呼べる存在以外は、不要だ。
 ぷつぷつと薄膜を裂いていた刃の感触は、ぶつぶつと肉の束を切る感触に変わる。痛みに痙攣する男の体にぞくぞくとしながら、ナイフの刃先を真一文字に引ききった。
 鮮血が散る。食道と気道を切り裂かれれば、この男もじきに窒息するだろう。
 ナイフと同時に、口を塞いでいた片手を離す。倒れ込む男を後目に、血と脂で汚れた凶器を捨てた。カーテンの隙間から漏れる僅かな光で、革手袋が溢れた吐血でぬらぬらと濡れているのがわかる。
 倒錯的な目眩がした。普段は拳銃メインで大人しい狩りをしているから、ナイフを使って肉弾する現場は久しぶりだった。こういう現場は極力、避けるようにしている。際限なく分泌されるアドレナリンとテストステロンで、自身がおかしくなりそうなほど、高揚するからだ。
 生けるもの全てを殺してやりたい衝動と、目に入る全てを壊してやりたい願望が入り交じる。たった二人の箱庭さえ守れれば、他は全ていらない。
 手袋の指先を咥えて外し、唇を汚した血糊を服で拭って、手袋をゴミ箱に捨てた。持ち込んだ拘束具は拳銃以外、置き去りにする。
 この国の警察はハウンドについての捜査など、金を積まれなければやらない。この国トップの大財閥が賄賂と非逮捕者の名簿を渡しているから、捜査線上にフユトの名前が挙がったところで、痛くも痒くもない。
 度数およそ九十のスピリタスをショットでキメるより、強い昂奮に酩酊する。これを誰かで発散しようとすると弾みで絞め殺しかねないから、昔から、こういうときに娼婦は買わない。必死に宥めてくれた最愛も、きっと命懸けだっただろうと思う。
 それでも、ハウンドになりたての頃は、こうじゃなかった。
 同業者や、親を持たないチンピラ風情に絡まれて派手に殴り合いをしようと、刃物を使って惨殺しようと、血に酔うことはあっても、興奮はここまでキツくなかった。せいぜいが、絶頂の余韻を引きずる程度だった。
 きっかけは恐らく、同業同士の潰し合いに巻き込まれてからだ。複数対二という圧倒的な数の暴力で押さえつけられ、目の前で兄を失いかけた、あの日を無意識に反芻するのだと思う。利き手を潰され蹂躙された兄に、どうしようもなく欲情した、罪深きあの日の出来事を。
 現場上がりの作業服のまま、高級ホテルのエントランスに入り、フロントに立ち寄ることもなく、フユトは最高階へ昇るエレベーターの昇降ボタンを押した。シギが在室していても、いなくても、カードキーがなければ上がれないことさえ、失念していた。
 つらいし、苦しい。痛みさえ伴う高揚なんて、これまで数えるほどしかない。
 正常な判断ができないほど、意識は別のことだけを思い続けている。早く、どうか早く、獰猛な目をした支配者に会って、完膚なきまでに叩きのめされてしまいたい。
 熱っぽく吐息したフユトは、壁に肩を預けて、立っているのもやっとだった。低く唸るモーター音がエレベーターの稼働を微かに伝え、リフトが滑らかに下降してくる数分にも満たない間さえ、苛立つほど長く感じて舌打ちする。
 澄んだベルの音が、エレベーターの到着を告げた。興奮に苛立ちが混ざったせいか、多分に剣呑な気配をしていると自覚しながら体を浮かせ、音もなく開く扉の隙間に半身を滑り込ませようとして、引きずり込まれた。
「は……?」
 予期せぬ不意打ちに、苛立ちも衝動も、刹那的に凪ぐ。バランスを崩した体勢を立て直す僅かな一瞬で腰に差したままの拳銃に手をやり掛け、狭い箱の中にいるのが見慣れた姿であるのを認めて、警戒を解いた。
「……お前かよ……」
 言いながら、壁に背中を凭れる。一瞬でも気が逸れたことで、今にも食い散らかしてしまいそうだった昂奮は少しだけ、弱まっていた。
 携帯端末で何やら通話したままだったシギは、程なくそれを切ってポケットにしまう。恐らく、ホテルのフロントからの連絡だろう。
 脱力するフユトを振り向き、
「現場上がりか」
 配達員風の作業着に身を包む姿に、珍しそうに目を細めた。
「……何だよ」
 育ってきた環境のせいか、仕事に関すること以外の物欲に乏しいフユトは、常からシンプルでラフな服装を好むが、シギのように黒づくめのことは滅多にない。
 作業着と色が物珍しいのか、なかなか視線を逸らさないシギに、フユトは鬱陶しそうに凄む。
「その顔で来たのか」
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