文字数 2,341文字

 その言葉は麻薬だ。味のいい猛毒だ。勘違いでいいから縋り付きたくなる常習性と、視野の狭窄や感覚の麻痺を引き起こす遅効性を孕む。
 その言葉はきっと、彼にとっては都合のいい道具であり、記号だ。そこに言葉が持つ本来の意味や情熱はない。ない、と信じなければ求めてしまう。手駒として踊らされるだけと理解しながら、ありもしない先のことを描いてしまう。
 最高級のスプリングの僅かな軋みで目を覚ます。よく知る気配が遠のく。目を閉じる。鉛のような重さの体が沈むに任せ、ゆっくりと息をする。
 シギはフユトの黒子の数や位置、弱点だけでなく、安息できる距離まで知り尽くしているから、こうして頃合いを見計らって寝室を出る。
 最愛と同衾していた頃さえ、僅かな身動ぎに目を覚ますのは習慣づいていたから、ストリート時代に培われた本能的な反射が、ハウンドになって磨かれたのだろう。シギがどんなに気配を殺し、滑らかな体重移動でベッドを抜け出たとして、その一瞬には必ず気づいてしまうのだ。これは誰も悪くない。
 シギには言わないが、独り寝は気楽だけれど、何となく落ち着かない心地がする。夢見も悪くなる。どうせ長くは眠れないのだから、少しの身動ぎで覚醒するくらい、気にもしないのに。
 最中は悪魔も逃げ出す理不尽さを持つくせに、終わった途端、一時的にでも深く眠るフユトの中途覚醒の心配をするのだから、本当に食えない男だ。だから、あの言葉はまんざら嘘でもないような気がして、むず痒い。但し、そうであって欲しいとは願わない。
 微かな気配の揺らぎに引き上げられた意識は、程なく、すとんと闇に落ちる。仕事で大人を何人か惨殺したときより、情事のあとのほうが深く眠れるのは、そちらの疲労がより重く、興奮も鬱憤も晴れるからだろうか。
 悪夢を見たような気がしたが、次に目を覚ましたときには、夢など覚えていなかった。
 血に酔うのか、とシギから聞かれたのは、それから幾日か過ぎてからのことだった。
「……酔うっつーか……」
 興奮物質が溢れ返る頭では正常な判断ができないから、あの日の痴態も醜態も、何かの間違いだと思って欲しい。それを的確に表現するにはどうしたらいいか、フユトは言葉を吟味しながら、
「嬲り殺すと止まらなくなるんだよな」
 自制が効かない旨だけは伝えた。
 物騒な会話をするには似つかわしくない、バーカウンターの片隅で、シギは成程と得心したように頷きながら、
「お前に振る仕事は選ぶようにする」
 フユトの予想通り、正しい結論を導き出す。
 シギに拾われてハウンドになったのは何年も前だが、その頃から、同業同士の暴力沙汰にはよく巻き込まれるフユトだ。本人はそのつもりがなくても、生来の目付きの悪さに様々な噂が相俟って何かと喧嘩を売られるから、片っ端から買ってきたために、衝動性が高い危険人物と目されるようになったのは致し方ない。半分は事実だ。
 元より口は達者ではないから、何かにつけて手や足が出てしまう。兄への歪な執着と独占欲を満たす手段も暴力だった。精神的に掻き乱すシギとは別の、力に訴える恐怖政治的な支配。そんな弟に兄が倦むのも尤もだと、最近は思える。
「個人の依頼は受けるなって言わねーんだ」
 スツールを一つ空けて左隣に座るシギへ、フユトが視線をやると、
「言ったところで無駄だ」
 行動パターンまで知り尽くしたシギが、呆れたように嘆息した。
 店内には、ボリュームを絞ったジャズクラシックが流れている。全体を木目調で統一し、照明も最低限のために陰影が深く、少し離れると互いの顔立ちもぼやける。
 シギが自身の経営するバーを避け、クラブのアフターに使う場所を選んだのは、会話がなかなかにえげつないからだろうか。或いは──と思って、フユトはそれ以上、考えるのをやめた。そこまで自惚れると火傷する。
「嬲り殺しのほうが性に合ってるんだろう」
 見透かしたような眼差しでシギが問うた。
 組織の依頼は多数が派閥や権益絡みの暗殺で、私怨によって無惨な目に遭わせてくれとか、死ぬほどの拷問を味わわせて欲しいなんて話は少ない。だからこそ、ゼロの桁が違っても、復讐や逆恨みに基づく依頼のほうがフユトにとっては魅力的だし、指の先から万力で締め付けて潰していくような生き地獄で、被害者が叶わぬ命乞いを喚き叫ぶ瞬間は吐精より甘美な陶酔だ。何より、この国では絶対的弱者である娼婦や男娼がいくら足掻いても、痛みや傷を与えられない人間はいる。そういう立場で生きる奴らへ致命傷を与える代行をすること、それ自体が愉しくもある。
「それはあるけど、生きた人間を破砕機に掛けたりプレスで潰したり、なんてのは趣味じゃねーよ、お前と違って」
 フユトがわざとらしく眉を寄せると、
「それはヤク漬けで

使

にならない人間の潰し方だ」
 表情一つ変えないシギは淡々と答えて、ヴィンテージのバーボンを水でも飲むように干した。
 痛覚鈍麻を抱えるシギが、他の感覚にも鈍いことは知っている。フユトがシギを煽る際、遅漏だ何だと揶揄するのはそのためだ。シギがそれしきで傷つかないことは知っているし、痛覚鈍麻の弊害なのか、サイコパスだからなのか、共感性に乏しいことも知っている。
「お前、噂よりエグいな……」
 とはいえ、風の噂で聞いた制裁の話を正面から認められて、嬲り殺しが趣味だと言い切るフユトでさえ、さすがに引いた。
 確かに、こんな会話を子犬バーテンが耳にしたら、円な瞳をさ迷わせるどころか、失神してしまいかねない。
「どんな役立たずでも死ねば金に替わる、臓器提供ほど貢献できることもないから生きてきた価値くらいはある」
 宣うシギに、
「向こうの意思じゃねーし、何なら潤うのはお前の懐だけどな」
 フユトはうんざりと言った。
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