文字数 2,081文字

 シギの問いに首を振る。
 好きか嫌いかという以前に、痛みは痛みだ。それ以上でも以下でもない。張られた拍子に達したのは事実でも、そもそも身体は絶頂までの軌跡を辿り始めていたのだから、弾みで、としか答えられない。
 目の前がチカチカしている。軽い目眩さえ伴う陶酔の余韻は、どこまでも甘い。直接的な刺激がないまま達する恍惚から抜けられなくなりそうで、繰り返すたびに怖くなる。これがお前の本性だと刻みつけられる。
「どうしてやろうか」
 髪を掴まれたまま引っ張られ、仰向けになる。嗜虐的な目をしたシギに覗き込まれながら、喪失感を覚えていた肚の奥が、ぎゅうっと縮んで蠢くのを実感する。
 弾みで吐精してシーツを汚したものの、それだけじゃ、まだ、足りない。言葉で願わなければ叶えてもらえない。満たされたい。地獄をよく耐えたと、極限の先を見せて欲しい。
 どろどろに凝ったシギの瞳の奥は、見据えれば見据えるほど、吸い込まれそうだ。きっと、塵一つ残さず、昇華してくれる。
 唾を飲んだ。喉が鳴った。
「……もっと、」
 どうして欲しい、までは言えなかった。フユトのプライドが邪魔をして、長い葛藤が始まる前に、言わなくても察したシギが膝を割って腰を持ち上げ、汚れた下腹部をそっと摩るように撫でる。ひく、と震えた粘膜に灼熱を宛てがい、一息に貫くから、声を抑える余裕もなかった。
 巨大な波に飲まれて揉みくちゃにされ、上下左右も、自分の正体もわからなくなった、そんな心地だ。だから、最中にシギが何を見て、何を聞いていたかなんて、考えたくないし、知らなくて良かった。
 この男はその辺りを弁えているから、情事抜きに顔を合わせた際も、別の機会の褥の際も、いつかのフユトの反応を持ち出して揶揄する真似は一切しない。せめて品のない猥談でフユトを貶めてくれさえしたら、徹底的に嫌いになれるのに、本心を見抜くことに長けているから嫌になる。
 絆されてしまう。
 部屋の主が不在のときに上がり込み、快適な浴室で汗や硝煙や返り血を流し、大きなバスタブに身を沈めてぼんやりする、これまでになかった新たなルーティンは手放せそうにない。吸水率が良くて柔らかなタオルも、肌に馴染んで滑るシーツも、闇討ちを恐れずに済む惰眠も、シギとの交歓にさえ堪えれば失わずに済む。
 たったそれだけのために尊厳を差し出すのかと真正面から問われれば、フユトはきっと、どう答えたらいいか詰まるだろう。フユトがずっと、見ないフリをして来た本音だ。
 殺したいくらい憎いのに、その傍らはどうしようもなく居心地が良くて、充たされ続けている。甘露もどきの猛毒に痺れて、既に退路はない。立ち止まったままのフユトを罰して、許さないのに甘やかす、その手管がフユトの脆弱な部分を須らく撫でるから、本当は、とっくに屈している。
 けれども、そんな本音は見せたくない。抗えないから流されている、そんな体裁のままでいい。手酷く痛めつけられれば痛めつけられるほど、弱さを突きつけられれば突き付けられるほど、安心して墜ちていけるから。
 惨めで、愚かで、救いようがなくて、何者にもなれない矮小な生き物を、哀れだと蔑みつつも囲い込んで愛でるような、無償の呪縛なら悦んで窒息してしまえる。
 詰まるところ、それは──
 フユトが行きつけのバーに顔を出したのは、実に二ヶ月ぶりだろうか。額の後退は著しいものの、寡黙なバーテンは中年の渋みと色香を備え、沈黙に必然的な意味を持たせる男だ。ラグジュアリーな設備などなくとも、そこが選ばれし者の場所だと知らしめるような雰囲気があって、何となく落ち着くのだ。
 しかして、二ヶ月ぶりのバーの雰囲気は激変していた。選ばれし者の隠れ家がいつの間にか、猥雑なハッテン場になっていた。
 否、勿論、かのバーテンがいた頃から、このバーは娼婦や男娼を上客相手に仲介していた。テーブル席に陣取る客は買い手、という暗黙の了解があって、バーテンの代わりに店子たちが接客し、話を纏めて連れ立つルールだ。
 客の下心がいかに透けていようと、下品な空気など微塵もなかったのに、どうしてこんなに安っぽいのかと首を捻るまでもなく、カウンターに立つ人影が違っている。年齢に見合った経験を備えた、不惑の中年バーテンが倍以上も若返っている。おどおどした様子はないものの、修羅場の場数ばかりを重ねたタイプの人間には虚仮にされそうな、いかにも温室育ちらしい表情は、くりっとした双眸も相俟って、わんぱく盛りの子犬のようにしか見えない。
 その顔には見覚えがある。テーブル席で話をする横顔なら見知っている。蝶の名前が源氏名の店子だ。時折、シギが傍らに連れていると噂の、いけ好かない子ども。
 スツールに腰を据えると、子犬はフユトの不機嫌など気付かぬように声を掛けてくる。常連客の好みは先代バーテンから引き継いだらしく、卒のない手つきで一杯目を供された。
 シギの多忙の内訳には、この子どもと過ごす時間も含まれるのだろうと思うと、フユトはどうにもムシャクシャする。するけれども、それを嫉妬だと認めることはしない。
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