文字数 2,535文字

「……期待した顔をするな」
 シギが意地悪く目を細めて、フユトを上から覗き込みながら言った。
「まだ、だ」
 奈落のように真っ暗な瞳に映る顔が、とんでもなく上気している。あれだけ恐れていたのに、この先をもう望んでいるような、腑抜けて蕩けた面差し。最中の兄と同じ顔だと、フユトはどこか他人事のように思いながら、最も嫌悪する目の前の男になら、全て委ねて壊れるまで暴かれるのも、悪くないと思った。
 その日は本当に、それで終わった。長く続いた緊張感のせいか、シギが離れた一瞬で眠りに墜ちてしまったフユトには、それから彼がどうしたのか、知る由もない。気がついたら、クイーンサイズのベッドの中央で一人、胎児のように丸まっていた。
 幾つもの貌を持つシギはそれなりに忙しく飛び回っているし、フユトはフユトで個人的な依頼も請け負っているから、二人が顔を合わせる機会は、多くても月に三度だ。シギが遊びで経営する会員制のバーで落ち合い、モーテルに流れるのが恒例化したのは、最初の夜から二月(ふたつき)経った頃だった。
 当初は何かと反発し、本気で抵抗していたフユトも、密かな逢瀬が八回目を迎える頃には、形だけ抗うようになっていた。それは二人の関係の潤滑剤のような儀式で、形ばかりの抵抗も、ほとんど意味のない拘束も、フユトの意地を正面から崩すために必要な作業だった。
 強気で好戦的と受け取られやすいフユトだからこそ、誰かに素直に、従順に振る舞うのは、性に合わないらしい。だからこそ、敵わない相手にねじ伏せられる状況や過程を、仮初でも作ってやる必要があることは、シギも初めから受け入れているし、最初から愉しんでいる。
 互いの性癖や、最中の感性、呼吸、好き嫌いなどを言わずとも理解できるくらいにはなった、逢瀬十回目。
 会陰と前立腺を同時に刺激されながらの深い吐精に、フユトがぐったりとシーツに沈む。呼吸も整わないうちからシギが貪るようにキスをするから、仕方ないというように応えつつ、脳幹から蕩けていくような恍惚を漂う。
 間隔は空きながらも、フユトの身体はすっかり、指の二本や三本は受け入れられるようになっていたし、それに合わせるかのように、肌の感度も以前より増していた。開発され尽くした娼婦のようだと自嘲しながら、血も涙もない悪魔が相手だと屈服する他ないと正当化して、本当なら抵抗もなく身を委ねられるくらいには飼い慣らされている。
 なのに、
「……あと一回、イっとけ」
 粘膜同士のセックスは、一度もしていない。
 キスの間にシギの腰へと伸ばしかけた手は、いつだって、はぐらかされるように、身体の脇に縫い止められた。すっかり緩みやすく、馴染みやすくなった後孔は、まだ、指しか知らない。
 それはそれで物足りないということでもないが、同じ組織に属する同業者や、行きつけのバーに雇われている娼婦や男娼たちが交わす噂話では、シギがしょっちゅう、隣を歩く男や女を変えているらしいと聞くから、全くもっておもしろくない。
 見知らぬ相手に嫉妬していると自覚したのはいつだったか。四回目の逢瀬のあとだっただろうか。
 それを甘い逢瀬と呼ぶには、毎回、あまりに責め苦が拷問のように酷すぎるので、その時はたまたま、泥酔したフリでフユトから仕掛けてみた。拙いキスをいなされながらも、煮え滾る欲情を隠さない昏い瞳を覗きながら、好きにしろと強請った。感じている顔を隠したいし声も殺したい、そんな葛藤をしながらも、泥酔している(てい)で乱れた。フユトが素面同然と知らないはずのシギは珍しく、痴態に触発されでもしたかのように、壊れ物でも扱うような丁重さで、甘く攻め抜いた。連続しての絶頂も射精管理もない、輪郭が溶け出してしまいそうな、ひたすら快感だけを拾える行為は、痛みも、恐怖も、不安もなかった。
 それから数日後、シギが見知らぬ少年を連れていた、と話を聞いて、あの時間は何だったんだと思った。何だか気に入らない、おもしろくない、そう感じるのは、権力者に媚びて取り入る連中に嫉妬しているせいなのだと、思い知らされた。
 いつものバーで。たった一行の電信で始まる、十二回目の逢瀬。
 フユトは敢えて、日付が変わってから──約束の刻限を過ぎてから向かった。
 待っていたことは数あれど、待たせたことは一度もない。だから帰ってしまったかも知れないし、変に怒らせてしまったかも知れないと、内心は気が気ではなかった。ここしばらく、行為は平穏に終わっていたから、余計に、四肢を拘束された上で生皮でも剥がされるのではないかと、嫌な想像をして落ち着かない。それ以上に、決めたはずの覚悟が土壇場で揺らぎはしないかと、不安を抱えている。
 果たして、シギは待っていた。遅れたフユトを咎めるでもなく受け入れる。
 取り敢えず、シギと同じブランデーを一杯だけ飲んで、目線に促されるまま店を出る。そのまま何も言わず、フユトが付いて来ることを確信して歩き出したシギを、
「お前んとこじゃ、駄目なの」
 渇きそうになる喉を叱咤しながら、呼び止める。
 振り向くシギは無表情だから、何を考えているかさっぱり読めない。
「この界隈のモーテルなんて高が知れてるし、行き飽きたし」
 フユトが何気なく、目を逸らすと、
「それは、監禁されて解体(バラ)されても文句は言わない、という意味だな?」
 思ってもみなかった物騒な言葉を吐くから視線を向ければ、シギが真顔でフユトを見つめていた。どうやら(タチ)の悪い冗談ではないらしい。
 光さえ飲み込むような、暗澹とするシギの瞳を見返して、
「やってみろよ」
 中指を突き立てるように、挑発した。
 フユトの威勢が良かったのはここまでだ。
 距離があるからとタクシーを拾ったシギに連れて来られたのは、地上三十階はあろうかという、瀟洒な建物だった。都心のターミナル駅近くに構えられた、富裕層をメイン客層に据える、高級ホテル。二階まで吹き抜けのエントランスは広く、最高級ブランドのガラス製のシャンデリアが、フロアを優しく照らしている。床は総大理石で、待ち合いロビーに置かれたソファも高級家具ばかり。深夜にも関わらず、フロントにはホテル常駐のコンシェルジュがいて、シギを目視するなり、寸分違えぬ角度の最敬礼をした。
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