文字数 2,260文字

 静かに背後へ回ったシギの手が、フユトの肩に触れた。反射的に跳ねかけた筋肉の動きを、辛うじて止める。触られてびくつくなんて、どうかしている。
「ついて来い」
 拒絶を許さない命令が、吐息と共に耳朶をくすぐる。ぞわり、と背筋を中心に身体を侵食するのは、あの夜に覚えた、悪い予感と、仄暗い期待。
「教えてやる」
 蜜を装った毒を孕む声が、全身に纒わり付くような気がした。
 冷静な理性は拒んでいるのだ。この男は危険だから、何も明け渡してはいけないと。自らの尾を咥えて円環し、世界の終わりを強かに待つ大蛇。失楽園へと誘った狡猾な蛇。最短で最大限の結果を得ようと盤面を睨み、使える手駒を翻弄する絶対的な指し手。この男に、情なんてものはない。
 何より、兄が恋慕していた男だ。フユトの最愛が思いを寄せていた相手と、まして天敵のような男とどうにかなるなんて、有り得ない。
 有り得ない、のに。
 モーテルのオートロックのドアが、背中で静かに閉まる。退路を絶たれる。逃げられないとわかっていながら、振り向いたシギの真顔にたじろぎ、
「やっぱ、帰る」
 好奇心だけで男について来てしまった処女のようだと思いながら、目を逸らす。
 前回とは違う。今日は酩酊していないし、ここにいるのは自らの意思だ。抗えない声に従ってしまった、哀れな獲物だ。
「……あ?」
 ほら、シギの剣呑な声がする。フユトが背にしたドアに右手をついて、逃げられないよう閉じ込めながら、伏せた顔を見下ろしてくる。
 鼓動が乱れる。
 シギの左手が下肢に伸ばされたのを視界の端で捉えて、マズイ、と思った。それだけはマズイ、知られてはならない。気を逸らすためにそっと、シギを上目で見る。切れ長の三白眼だから、睨んでいると誤解を受ける仕草。
「外の風に当たったら酔いが醒めたんだって」
 また、嘘をついた。酒はそこそこ飲んでいても、理性がぐらつくほど酔ってはいなかった。気の迷いはあったかも知れないが、絶対的な支配者に抗うほど、命知らずじゃないと言い訳しながら、ついて来た。あの夜、解放を許諾した声を反芻したなんてことは、ない。
 シギが瞳孔の奥を覗くように顔を寄せてきて、ぎくり、と首を反らす。金属製の重たいドアに後頭部が当たる。
 渇く。喉が急速に乾涸びていく。
「……へェ」
 意味深に目を細めて、シギは片頬で嗤うと、
「期待してるのに、か」
 下肢に伸ばした左手ではなく、足の間を割った膝で、そこをぐっと押し上げる。
 不意打ちに声を漏らしかけて手の甲を押し当て、息を飲んだ。目を瞑り、首を振って拒む。だって、違う。これは何かの間違いだ。あの夜の再来なんて望んでいない。あれも間違いだったのだから、何かが始まるわけもない。
「手を除けろ」
 捕食者が命じる。無言で首を振る。これは全部、悪い夢だ。自覚なく、酔っていたせいだ。
 往生際の悪さに業を煮やしたのだろうか。舌打ちが聞こえた瞬間、空いていたシギの左手に、唇をガードした右腕を取られる。まだ自由な左腕で肩を押し返そうとするのと、口腔を塞がれるのは同時だった。
 押し付けて噛み付いて暴く、フユトの単調なキスと違って、啄んで絡めて吸って食んで咬合する、その手管に翻弄される。朧げに記憶した断片も鮮烈なままの、あの夜が再来する。
 腰から砕けて崩れ落ちそうだった。押しのけようと肩に宛てがわれた手はいつの間に、縋るしか出来なくなっている。嫌いな男なのに。いつか殺してやりたいと思うくらいには憎悪しているのに。身体中の血液が何処に集中しているかを考えずとも、制御が効かないから抵抗したくなる。
 鼻から浅く抜ける呼吸では間に合わない。深く息を吸い込みたいのに、荒くなっていく呼吸と唾液の交換は止められず、酸素が失われていく。酸欠でぼやける頭は絡まる舌にさえ快感を拾い始めるから、背筋が慄いてやまない。
 ボトムの前が張り詰めている。やんわりと押し付けられるシギの足が当たるから、気を抜けば擦り付けてしまいそうで、身体中を強ばらせる。それだけは、こちらから強請るような真似だけは、したくない。今日は言い訳の仕様がないのだ。
 舌を吸い上げた唇が、リップ音を立てて離れた。酸欠を補おうと大きく息をするフユトの耳元で、
「折れれば楽になるぞ」
 狡猾な悪魔が囁く。
 吐息にすらぞくぞくと戦慄(わなな)きながら、ほぼ背丈の変わらない男の肩に額を載せて、
「……死ね」
 精一杯の強がりで、呪詛を吐く。
 シギの唇が、文句の付けようもないほど、綺麗な微笑を浮かべた。反発を隠さない瞳で睨み据えたフユトは、目だけが決して笑わない表情を見て、気道が狭まるのを感じる。無難に済ませてしまえばいいのに、煽って焚き付けて、これでは酷いことをされたいみたいだ。怒らせれば手を引くような男じゃない。むしろ、あらゆる手段で、屈服するまで追い込まれる。何度も寸止めされて、命乞いのように解放を強請った、あの夜のように。
 ぞわ、と総毛立ったのは、拷問に等しい法悦の地獄を予感して戦慄したから、だろうか。或いは、嫌悪する男に好き勝手される絶望を抱いたから、だろうか。
 否、きっと、どちらでもない。
 フロントに内線を入れなければ、料金が支払われるまで内側から開けられないオートロックに、逃げ場はない。シギが簡単に逃がしてくれるわけもない。ついて来てしまった以上、解放されるまでは従うしかない。そう言い聞かせながら、モーテルにしてはシンプルな内装の部屋まで、促されるまま渋々歩いた。クイーンサイズのベッドがやけに生々しく見えて、息を飲む。
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