文字数 2,241文字

 誰かがそれを愛と喚ぶなら、きっと、この感情は愛なんだろう。崇高で醜い感情が、壊れ果てた自身にも眠っていたことを、けれど、シギは素直に喜べずにいた。
 この感情で、フユトの全てを破綻させてしまうことが、恐ろしかった。
 本番まで漕ぎ着けるのに時間を要すことだって、フユトの承諾なしに事を進めるのを躊躇うことだって、初めてだった。フユトが力づくで奪われたいと願っていることは知っていても、暴挙に出た結果、恨まれることも避けられることも望まなかった。
 自分の殻の外側の世界なんて、無味乾燥で色がなく、いつ滅びてしまっても構わないと思っていたのに、フユトが視界に入らない将来を思うと、体の芯から怖気(おぞけ)がする。
「さっきすれ違った子、」
 クラブまでの同伴の道すがら、派手に露出した胸元を押し付けつつ、シギと腕を組む商売女が、偶然に出会してすれ違ったフユトを振り向いて言った。
「貴方のお気に入りなのね」
 それは、純粋な羨望の眼差しだった。
 表の世界でも裏の世界でも、シギが持ち得る権力は大きい。それは同時に財力と同等でもある。多くの人間がシギに取り入り、顔や名前を覚えてもらおうとする中で、やはり、腕を組んだ高級ホステスも、そういう輩と代わり映えはしない。権力にも財力にも興味がなく、シギが持てる限りの暴力に依存する、そういった意味でフユトの存在は新鮮だ。
 女の言葉に、シギは何も言わなかった。さすがに女も莫迦ではないから、その沈黙を肯定とも、否定とも受け取らなかった。シギが愚かな生き物を最も嫌うと、女はよく知っていたのだ。
 金なら腐るほどある。それによって動かせないものなど、世界にはほとんどない。札束で横面を張り倒すような、成金じみた下品な真似をしなくとも、向こうから傅く人間はたくさんいる。シギはそういった人間に、相応の対価を支払えばいい。これは一方的な利用とは違う。彼らはシギに傅くように見せ掛けて、その後ろの財力に、勝手に従うからだ。
 資本主義の末期から始まった終末戦争後の新世界で、未だに金が幅を利かせているのだから、全世界で覇権を争った意味などないに等しい。そんな薄ら寒い新世界は、成程、旧世界から何一つ変わらず、人間の欲望で構築されている。
 生い立ちをひけらかすつもりはないものの、過去のシギは圧倒的に、持たざる者だった。そのせいで痛覚が鈍り、共感性に欠け、他者をより残酷に害することを躊躇ったことがない。圧倒的な財力と武力で君臨し、付き従う手駒を気まぐれに牛耳っている。ただ一つの例外を除いて。
 時間をかけて、少しずつ、少しずつ、陥落させてきたフユトが、敵意のない表情を見せるようになり、褥の主導権を明け渡し、時に戸惑いながら、恐らく本音だろう言葉を伝えてくれるようになったのは、酩酊させた初夜から実に三年後のことだった。毛を逆立てていた野生動物が、不本意ながら飼い主の傍で膝を折り、懐かないまでも侍るようになるまで、三年はとても長かった。
「……あの人、ボクのこと嫌いなんです、きっと」
 そう言って浮かない顔をするのは、シギが自ら手懐け、かつて男娼に堕とした少年だった。
 シギを想い人と定めたばかりに、持てる側から持たざる側へ堕ちてきた少年。愛らしい顔立ちながら人の心の機微や本音に聡く、大勢の下心に塗れて潰れるには惜しいと、経営するバーを任せた。いつも屈託ない表情をして、店内の暴力や刃傷沙汰に冷静な少年が、ここまで顔を曇らせるのだから、彼の言うあの人とは相当に相性が悪いのだろう。
 あの人とはもちろん、先程までシギと同席していたフユトだ。
「莫迦で悪いな」
 シギが代わりに詫びると、
「オーナーがちゃんとしないからですよ」
 思いがけず非難を食らう。
 子犬のような顔をして他者を油断させながら、言うべきことは言ってのける胆力がある。不自由のない温室で育ってきたにしては、この少年は芯が強い。だからこそ、こちらの世界でも生きていけるのだろう。
 ぷう、と子どもらしく頬を膨らませて、
「ボクがオーナーを好きだって知っててフユトさんに宛てがうのも、フユトさんに好きだって言わないのも、狡いです」
 口を尖らせる少年に、さしものシギも苦々しく笑うのみだ。
「言わないんじゃない」
 普段は誰にも弁解などしないシギでも、この少年に見抜かれてしまっては仕方ない。
 この少年は本当に賢い。シギがフユトに何気なく送る視線だけで、本命かどうかまで見抜いている。
「そんなの、オーナーの勝手です」
 ほら、子犬のような顔をして、少年は正当に怒る。
「言えないのも言わないのも、オーナーの都合で、フユトさんには関係ないです」
 恋敵のはずのフユトにやたらと肩入れするのは、この少年の性癖のようなものだからいいとして、シギはそっと、目を伏せる。
「こうなるように十年以上も策を巡らせたなんて、言えるわけがない」
 シギの独白に、少年は円らな瞳をぱちくりと瞬かせて、ふと、眩しそうに笑った。
「だから言うべきなんですよ、オーナー」
 初めて邂逅した嵐の夜、無惨な遺骸の傍らに立ち尽くし、その子どもと目が合った瞬間、それまでシギとは無縁だった衝動が、背筋を走り抜けた。理屈も理由もなしに、全てを奪い尽くして台無しにしてやりたいと、呼吸も窒息も管理下に置いてしまいたいと、自分だけを見ていて欲しいと、渇望するように願った。シギが永遠に得られることのない全てを、子どもは持っていた。
 誰かはそれを運命と呼び、誰かはそれを偏執と呼ぶだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み